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〈対話〉の旅から、届いた手紙

オンラインサークルで「ダイアログ・ジャーニー(お話し相手)」というプランがあり、何人かの人と月に一度相談相手をしています。

先日、アゼルバイジャン在住の岡田環さんとお話をさせていただきました。いつもなら相手のお話をお伺いする「聞き役」の立場なのですが、環さんから次々と質問が届き、ぼくがそれに答えるといった流れになりました。

ぼくの文章やインタビュー音源から、本質的な「問い」を抽出して、ことばを並べていきます。〝本質的〟というのは、ダイアログ・デザインの本質であり、ぼくの考えの本質です。環さんご自身の考えに紐づく、というよりも、「考えの外」にあるものとして、ピュアな問いが置かれていきます。

「良き問い」は、ぼくを遠くへ連れて行ってくれます。相手との共同作業で、思考をことばにして、さらに深い思考へ潜って行く。密度の高い時間はあっという間に過ぎていきました。

話しはじめる前と話し終えた後で、いかに違う考えを獲得できているか。新発見や再発見を含めて。それを旅に喩えると、「距離」となります。どれだけ遠くまで旅ができたか。

ぼくにとって幸せな時間でした。その対話を終えた後、環さんからメッセージが届きました。そこには、共に過ごした時間の感想がていねいなことばで書かれていました。

1000文字の手紙(嶋津さん)

私がいちばんこわいのは、他の誰もができることを、自分が無為に埋めていると感じることです。いちばんなりたいものは、誰かにとってかけがえのない、唯一無二の存在になることではなくて、私が心から素敵だと思うひとたち(少ないけれどそれは複数)の、心の一部(だけでいい)を毟り取るように捉えて離さない、そんな存在です。

そういうことに熱をもらって、私は生きてきたので、あなたの作る「やさしい世界」を私は誤解していました。それは優しく、易しい、温かそうに見える場所。

あなたの書いたものには、ふたつの姿がちらちらと垣間見えると、私は思うのです。それは優しく易しいヴェールに包まれた(その綿の部分)、鮮烈に尖った何か(その刃の部分)で、そのふたつは、しかしながら巧妙に溶け合い不可分で切り分けることは不可能に見えます。その上で、ただ厳然と全く異質に存在しているのです。

あなたの言葉は、相手に寄り添い、相手の目線にまで降りていき、その帰結としての常套も凡庸さも恐れていないことが、私には不思議でした。けれどもそれは、私はあなたの敏捷さ、判断力、自由で自在に変化する表現力を、見くびっていたに過ぎませんでした。即興演奏家と同じそれは、一緒に演奏する仲間や聴衆や環境を味方に、言葉のやり取りを重ねて奏でる、その渾然一体とした空気自体が、あなたの作品だったのですね。わかり易い言葉で語り、目線を下げることで、その場にリラックスした、皆が安心できる空気感を醸成して、「演奏」の相手である彼らの身の内にある、さらにうつくしいものを引き出す、それがあなたの「やさしい世界」であり、あなた自身の、あなたにしかできない唯一無二の表現ということだったのです。

私(身勝手にも自身の美意識のみを頼る仏師としての)は、あなたの内のつやつやと尖った刃の方、もっと生々しい声の方に、魅了されていたので、なんてもったいないことをしているのか、というのが最初の率直な感想でした。そういうことであなたの才能を消費してほしくない、と(すら)思ったのですが、それは誤りでした。

あなたの才能は、あなたを取り囲む世界を(あの「やさしい世界」を)構築するために、たくさんの人に出会い、彼らを迎えもてなす労力を支払って、その一方でそのための手段や技術を磨くことによって、より生き生きと鮮やかに開花するのですね。その即時性を、同時代性を、今日は共有できて本当によかったです。

環より。

アゼルバイジャンから届いたその手紙は、ぼくの宝物になりました。あまりにうれしかったので全文紹介させていただきました(許可いただいております)。ここに書かれたことばたち、あの場所で生まれたコミュニケーション、その静かな熱狂こそ、「対話」を通して得られたかけがえのない体験です。

環さん、どうもありがとうございました。

ああ、対話って楽しいな。



「ダイアログジャーニー」と題して、全国を巡り、さまざまなクリエイターをインタビューしています。その活動費に使用させていただきます。対話の魅力を発信するコンテンツとして還元いたします。ご支援、ありがとうございます。