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恋とフィロソフィー

人が読みたくなる文章とは「書いた人が愛したい言葉」ではなく、「読んでいる人が恋するような言葉」なのだと思っている。

愛と恋

インターネットは、暑苦しいほどに「書き手の愛」であふれている。陽の当たる一角より先へ足を踏み入れると、そこは骸の山。誰の目にも触れられない暗がりの世界が広がる。その場所は〝この世界に存在しない〟ことになっている。事実というものは往々にして残酷である。

「愛すること」と「恋をしてもらうこと」は似ているようで異なる。「愛」と「恋」の機微は一先ずとして、そもそも向かっているベクトルが違う。わたしがあなたを愛するかといって、あなたがわたしに恋をするとは限らない。そこへ「言葉」が仲介することによって、さらに関係性は複雑になる。

「わたし」が見る言葉と「あなた」が見る言葉は、同じであるにも関わらず、見え方が違う。わたしが紡ぐ言葉に対して、あなたに恋をしてもらいたいのであれば、「わたし」は「あなた」のことを考える必要がある。

書き手が読み手の気持ちを想像する。それは「やさしさ」だと思う。コミュニケーションは相手からの挨拶ではじまると思ってはいけない。こちらから笑顔で声をかけるところから関係性をつくっていかねばならない。もちろん、これは比喩である。

「伝える」と「伝わる」

時に、愛情を注いだ書き手の言葉が、読み手の恋心を芽生えさせることもある。そのようなことがあるからむつかしい。人は「愛情をかければ、読み手へ伝わる」と錯覚してしまう。ゆえに、「読み手が恋をしない理由はこちらの愛情が足りないのだ」と間違った解釈をしてしまう。それでは、自己愛の沼から抜け出せない。

別に、「書き手が愛したい言葉」を否定するつもりはない。書き手の心がそれで満たされているのであれば、何一つ問題はない。ただ、「読まれない」と嘆くなら、建設的に考え直す必要がある。その時、はじめて書き手は「読み手の心」を意識する。

「あなた」が何を考え、何を求め、何にときめくのか。観察し、想像する。「伝えたい」というわたしの気持ちを押し殺す。それよりも、あなたに「伝わること」について考える。わたしの書いた言葉が、あなたの心に届いている状態。それが第一歩となる。

「わたし」は、「あなた」にとってやさしい存在でなければならない。重たい荷物は代わりに持ち運び、段差があればスロープを用意してあげて、雨が降ってきたらそっと傘を開いてあげる。二回目だから不要だと思うが、万が一に備えて書いておく。これは比喩だ。

書き手と読み手

「伝わる状態」を整えてから、ようやく「恋」について考える。恋はいつだって夢中にさせてくれる。その方法はいくらでもある。流麗な文章でもいい、奥ゆかしい物語でもいい、鋭い考察でもいい。読み手の心をドキドキさせる。

「恋をしている状態」は、楽しいものである。その状態をつくるために書き手ができる工夫は無限にある。僕はそれを「迎合」とは思わない。「礼儀」だと捉えている。礼儀正しい人の文章は、読み手にやさしい。たとえそれが、冷徹な表現であったとしても。

ここまでこの文章を読んできた人なら、「やさしい」ということが、簡単な言葉や表現のわかり易さについて述べているわけではないということはおわかりだろう。それは短絡的であらず、複合的な要素を伴った概念である。

創作に対する想像力の前に、「伝わること」に対する想像力を。状況によってその解は無限にあることを。それは、「愛したい言葉」を求めているだけでは見つけることはできない。

自戒を込めてこの文章を書いた。
僕は、もっと、やさしくなりたい。




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