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競争に立たされる理不尽さ

昨日、詩を書きました。

『狂想曲』というタイトルで、誰もが能動的にも受動的にも「競争」という仕組みの中に置かれていることについて問題提起した内容です。


本来、詩に解説を加えることは、この上なく愚かな行為であると個人的に思っています。解説文を書くならば、詩である必要はないからです。優れた芸術の要素として「解釈の多様性」という一面があります。受け取った人が「どう感じるか」の方が重要であり、作者がそこに説明を加えることで、作品の方向性が極端に狭まってしまいます。

僕は普段から「文章はコミュニケーションである」ということを述べているのですが、優れたコミュニケーションには、自分の想いや考えを誤解なく相手に伝えることが求められます。もちろん、「芸術」もまた異なる視点や議論を生み出すという意味においてはコミュニケーションツールです。ただ、僕の考える「コミュニケーション」とは目的が違い、芸術は問題提起として「考えるきっかけ」を与えるために機能します。

今回の詩は、「自分が考えていることを相手に伝える」というスタンスから脱却し、重層的な構造によって解釈の多様性と問題提起の発生に挑戦しました。そのためにも、普段使うことのない「強い言葉」を用いたのですが、今さらながら怖気づいて、このような文章を書いているという次第です。覚悟の足りない弱い自分を発見できたという意味では、最大の収穫でした。芸術家への道はまだ遠い。いや、それもまた「覚悟」次第の問題なのだと思いますが。

お前に選ばれる人生よりも
自分が選んだ言葉を信じたい


僕が普段使うことのない「強い言葉」というのは「お前」という二人称です。ここは文脈から「誰か」でもよかったのですが、僕は意識的に「お前」という言葉を選んでいます。単純にそれがセンテンスの力を強めるためという意味もありますが、限定的に複数の層の「個人」を指すことができるからです。

それでは、詩の解説をはじめます。



この詩は、大きなテーマとして「競争に立たされる理不尽さ」について書かれたものです。この世に生を受けた日から僕たちは「勝ちと負け」が存在するレースに立つことになります。自分の意志で参加することもありますが、ほとんどの場合、それは〝そうあることが当然である〟かのように気付いた時には参加させられている状態です。

自分の意志が介在しない部分で、「勝ち負け」を決められることに僕たちはうんざりしています。「うんざりしている」と声高に言ったところで、新しい「勝ち負け」がそこに生まれるだけです。本人が「勝ち負けはない」と断言したとしても、自分以外の他者は「勝ち負け」を決めています。「平等」を謳いながらも、上と下を決めるのが人間です。人生は強制的に立たされた、理不尽な競争の連続です。

世界は音を立てながら、カチとマケを繰り返す


「勝ち」と「負け」の複数の同音に意味を重ねて、物語でつなげる。言葉による技能的な挑戦です。僕たちは「勝ち負け」のレースからは逃げられない。ならば、その世界に適応するということも選択肢の一つです。何をもって「勝ち」とし、何をもって「負け」とするのか。

誰が決めた
誰が選んだ


それは、決めたり、選んだりする主語の存在によって変わります。僕たちは、その主語を他者に求めていないだろうか?実際には、主語を「わたし」にすることで、多くの敗北は回避できます。

僕自身、競争について嫌いではありません。勝つこともあるし、負けることもある。それをスポーツ感覚で楽しんでいます。隣の誰かと競い合って互いに切磋琢磨する感覚は気持ちの良いものです。

競争は、協奏を呼ぶのか、はたまた、狂騒を招くのか


例えば、「コンテストに参加する」ということは、「勝ち負け」を他者に委ねるという行為です。決裁権を持つ他者がいるということは、答えは「相手の中にある」ということです。ここから、コンテストはコミュニケーションへと変わります。僕たちは、相手のことをよく知らなければいけません。つまり、「ただ選ばれること」を待つのではなく、「能動的に選ばれにいくこと」が求められるのです。もちろん僕たちには、「その競争に参加しない」という選択肢もあります。

コンテストのコンテクスト


答えは相手の中にあります。僕たちは、他者の評価に一喜一憂します。ほとぼりが冷めた頃、「他者評価より、自己評価が大事」という言葉が現れます。それを弱者の理論と呼ぶ人もいるでしょう。僕たちはそれを「選ばれなかった苦しみを紛らわす言葉」として扱ってはいけない。選ばれる、選ばれない、いずれにせよ、本当に大事なのは自分の中にある言葉だから。

答えは相手の中にあるものの、全てを相手に委ねてはいけない。自分の意志で相手の中から答えを探し、自分の意志でそれを形にしていき、自分の意志で評価を判断する。コンテストの決裁権は相手が持っているのかもしれないが、一つひとつの選択、人生における決裁権は自分が持っているということを忘れてはいけません。

お前に選ばれる人生よりも
自分が選んだ言葉を信じたい


「お前」という二人称。それは複数のレイヤーにそれぞれ存在します。あなたの頭に真っ先に浮かんだ「その人」かもしれないし、この文章を書いている「僕」かもしれない。社会全体かもしれないし、いつの日かの「あなた」かもしれない。限定的な他者からの評価に縛られるよりも、自分が選んだ言葉を信じることの方がずっと大事だという想いです。


最後まで読んでくださり、ありがとうございます。なんと野暮なことを書いてしまったのでしょう。そして、なんと僕は意気地がないのでしょう。「強い言葉」を使った時に、いろいろなことを考えました。

「この文章を読んで傷つく人がいるかもしれない」

人生という大きな視点で、意図せぬ競争に巻き込まれる狂想曲だったのですが、「コンテスト」という具体的なワードが読み手にあらゆるイメージを連想させてしまったらどうしよう、と。もし、それができたとしたならば、解釈の多様性と問題提起の発生という意味では成功なのですが、どうも心がもどかしかった。

コンテストを主催している人もいれば、そこで選ばれて楽しい気分の人もいる。これから新しいことをはじめようと思っている人もきっといるだろうし。そういう人たちに水を差すことはしたくないなぁと、一晩考えて解説文を書くことに決めました。

結論としては、この詩では誰のことも批判していないし、もしまた詩を書くのであればもっと気分がわくわくするようなものを書こうと思います。これからも新しい文章表現に挑戦していきますので、どうぞよろしくお願いします。




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