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死にかけて産まれた僕の話

僕はヒルシュスプルング病という病を持ちながら産まれてきました。

「先天性巨大結腸症」というのですが、ざっくりいうと大腸が機能せず排便ができないという病です。生まれてすぐに、母親の腕の中からキャッチ&リリースで集中治療室に運ばれたと言います。

緊急手術が迫られたので、名前をすぐにつけなければならなかったらしく(ベッドにネームカードをつけなければならないため)。「亮太」という名前も、その時候補に挙がっていた三択から母親が急遽選びました。両親は僕が産まれた後、出生届を提出するまでの間にゆっくり考えようと思っていたようです。意識が朦朧とする中、血まみれの下半身のまま名前を決めなければならなかった母親のことを想うと申し訳のない気分になります。 

今、僕がここで文章を書いていることから分かるように、手術はうまくいきました。僕は大腸を切除しました。その後、四歳の時に再発し、その結果僕は人生で大きな手術を三回することになります。その間に人工肛門だった記憶が微かにあります。右の横っ腹から排泄物が出てくる状態です。幼かったのが良かったのでしょう。僕は、そのことに対してこれっぽっちも疑問を持たずに“そういうもの”として過ごしていました。 

ヒルシュスプルング病が再発した時のことを幼いながらによく覚えています。夜中に布団の上で嘔吐しました。両親はパニックになり、父の運転で病院へと向かいました。すぐに手術することが決まりました。

手術室に入る前、ストレッチャーの上で全身麻酔をかけられました。ストレッチャーを囲む緑色の服を身にまとったお医者さんが十からカウントダウンをはじめます。六を数え終わる頃には僕の意識はすっかりなくなっていました。

気が付くと病室のベッドの上にいました。腹部を包帯で巻かれた状態です。喋るのが辛く、笑うことはもっと辛かったことをよく覚えています(まだ傷口がしっかりと塞がっていない状態で腹筋を使うことは許されていませんでした) 。

その日から、点滴だけの生活がはじまりました。何も食べてはいけません。腸が機能していないのだから当然といえば、当然の話です。周囲の大人の眼差しには憐れみの色がありました。でも、実際のところ僕は何とも思っていませんでした。“そういうもの”として受け入れていました。

そのような生活が一年近く続きました。その頃の写真を見ると、「これが高度経済成長を終えた後の日本人なの?」というくらいにガリガリの青白い姿をしています。 

病室は合同部屋で、僕を含めて八人の子どもたちが寝泊まりしていました。向かいの男の子は髪留めを飲み込んで喉にひっかかってしまってうまく声が出ない子でした。いつもガラガラ声だったので、不思議に思っていました。数ヵ月の間に何人かがいなくなり、それと同時に新しい子どもが何人か入ってきました。

その時、僕はいつものように“そういうもの”として受け入れていたので、そのことに対して何の違和感もありませんでした。もちろん、病状が良くなって晴れて退院した子もいれば、そのまま翌日を迎えることができなかった子もいたようです。 

母親は毎日僕に会いに来てくれました。朝に来て、夕方の五時に帰っていきます。僕はそれが楽しみで楽しみで仕方がありませんでした。たまに知らない大人の人が僕に会いにきてくれました。両親の友人や仕事関係の人たちです。それらの人は僕にプレゼントを持ってきてくれました。たくさんのおもちゃで病室のベッドは賑わいました。 

退院したずっと後に、僕はふと「また入院したらおもちゃをたくさんもらえるのに」と言ったことがあります。僕の両親は倹約家でなかなか欲しいものを買ってもらえない家庭でしたので、ゲームやおもちゃがたくさんある友人の家が羨ましかったのです。

「二度とそんなことは言いなさんな!」

母は僕を激しく叱りつけました。その時の僕には母の怒りの意味がよく分かっていませんでしたが、「そういうことは言ってはいけないんだ」ということだけがしっかりと胸に刻まれました。 

ちなみに、僕の担当医は前田先生という方です。ヒルシュスプルング病が再発した僕の命を救ってくれました。命の恩人ということもあり母親は前田先生に絶大なる信頼を置いていましたので、僕は中学生を卒業した後もずっと小児科の前田先生の元へ診察に通っていました(因みに今ではヒルシュスプルング病の第一人者として数々の医師を育てていらっしゃるようです)。

月に一回の診察が、年に一度になり、成人を迎えた時に「次来る時は調子が悪くなった時でいいよ」と言ってくれました。話は少しズレますが、僕の妻の旧姓は“前田”です。僕は人生の節目節目で“前田”という姓に救ってもらっているんですね。 

三回目の手術が決まりました。

二回目の時は大人しく受け入れたのですが、何故か三回目の時は怖くなってストレッチャーの上で駄々をこねるように泣きじゃくりました。「母が叱りつけるに違いない」と思っていたのですが、いつまでたっても母は来ませんでした。行方を探すと、柱の影で母は泣いていました。泣いている僕の姿が辛かったのだと思います。「どうして叱らないの?」と思った瞬間に、お医者さんがカウントダウンをはじめました。前回と同じように六に差し掛かったところで僕は意識を失っていました。 

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三回目の手術後も僕の点滴生活は相変わらず続いていました。

ある日、前田先生が病室のベッドでの診断後に「だいぶ良くなってきているね。今度ごはん食べるのをチャレンジしてみようか」と言ったことがありました。翌日、朝ご飯の時間になると僕のベッドのテーブルの上には朝ご飯のプレートが置いてありました。

それまでにも同じことは何度かありました。僕のベッドと気付かなかった看護師さんがテーブルの上にプレートを置いていくのです。「食べ物を食べてはいけない」と言われていましたので、そのプレートのことを無視して横になって過ごしていました。そのうち、間違いに気付いた誰かがそのプレートを下げていく、というのがいつもの流れです。だけど、その日は前日に前田先生が「今度食べるのをチャレンジしてみよう」と言ってくれたので、僕はプレートに手を伸ばしました。

お皿の上にはパンが乗っていました。それを三分の一ほど食べた時に、突然金切り声が聴こえました。声の方を見ると看護師のお姉さんがこちらを見て固まっています。すると、次から次へとたくさんの大人が僕の周りを囲みました。しばらくすると前田先生が早足でやってきて僕の服を脱がせました。真剣な眼差しで聴診器を胸に当てています。僕は何が起きているのか全く分かりませんでした。その隣では、一人の看護師さんが「ごめんなさい!ごめんなさい!私が間違えたんです!ごめんなさい!」と謝りながら泣き崩れました。

前田先生は落ち着いた声で「昨日、ごはんチャレンジしてみようか?って先生が言ったもんね」と僕に優しく語りかけました。僕は何も言わず、頷いただけでした。

僕の身体に異常はありませんでした。

今なら分かります。ごはんをチャレンジすると言っても、消化の良いものから順に身体を慣らしていかなければなりません。一年近くも何も食べていなかったのですから、皆と同じものを食べると内臓が驚いて具合が悪くなるのは当然です。それでも、その時は大人なのに号泣していた看護師さんが不憫で不憫でなりませんでした。「僕のせいで怒られたんじゃないかな」って。

その先もしばらく点滴だけの生活が続きましたが、それ以来、僕のテーブルにプレートが置き間違えられることは一度もありませんでした。

僕のお腹には大きな傷が七ヵ所あります。手術痕です。今の医療の技術なら、これほど大きな痕は残らなかったと言います。母は僕の傷を見て「勇敢な証拠」と言ってくれました。僕はそれが嬉しくて仕方がありませんでした。 

それからずっと大人になってその頃のことを話すことがあります。すると決まって母親の目からは涙が溢れます。入院していた当時の僕には、母親の不安や悲しみが全然分かりませんでした。涙を見たのは三回目の手術の時だけでした。それ以外の時は、母はずっとあたたかく、そして優しい笑顔で接してくれていました。 

僕のおばあちゃんにこんな話を聞いたことがあります。僕には三つ上の姉がいます。僕が入院していた頃、姉はおばあちゃんに預けられていました。姉はベランダの外を眺めながらよく泣いていたといいます。大好きなお母さんを僕にとられて、僕のことが大嫌いだったそうです。でも、僕が退院して家に戻ってくると、姉は一切そのような態度をみせませんでした。皆と同じように笑顔で僕の退院を祝福してくれました。 

色んな人を傷つけながら、そして助けられながら僕は育ったのだと、大きくなってから知りました。当時は“そういうもの”として当たり前にやり過ごしてきたこと。恐怖や不安、そして周囲の優しさとぬくもり。もし、大人になってからそのような経験をしていたならば、僕は怖くて怖くて押し潰されていたことでしょう。未来への不安から、周囲の人を傷つける言葉を吐いていたかもしれません。何も知らなかったからよかったし、何も知らなかったからちゃんと感謝ができていませんでした。 

以上の経緯から僕は大腸が人と比べてかなり短いです。だから消化をうまくできない身体で今までやってきました。でも、それは“そういうもの”として受け入れています。この世に生まれてからずっとそうなのだから。

母親は僕の腹の傷を見て、ちゃんと社会生活を送ることができるか、そして恋愛ができるか心配していました。 幸いなことに僕はちゃんと恋愛もできましたし、妻となる女性と出会えました。体力の面で問題はありますが、仕事もそれなりにはやっていけています。それもこれも、家族と仲間に恵まれたからこそ、です。 

 僕の仕事は文章を書くことです。
先日、ある人からこのような言葉をもらいました。

「腸の病があったから、人の話を聴く───つまり、“消化する”という能力に宇宙的な力が入り込んで作用しているんじゃないかな?」

その方曰く、歳をとると身体(物質体)が壊れていくのですが 壊れたところに精神が育つ器ができるらしいのです。僕は身体の消化機能が欠落しているから、言葉や思考を消化する力に特別なものが宿っているのではないか、という意見です。

いささかファンタジックではありますが、この話は僕の心をときめかせてくれました。 


もしそうであるとするならば、これは神様からのギフトかもしれません。この贈り物で、たくさんの人を喜ばせることができれば、なんて素敵でしょう。 

欠落した部分───その空白を埋めるように、別の力が大きくなる。「欠けていること」は個性なのかもしれません。声が大きかったり、すぐに泣いたり、花柄の洋服が似合ったりすることと同じように。

欠けた部分は誰かが補い、自分が得意なことで誰かを補ってあげる社会になれば。世の中はもっともっと豊かで、本当の意味で多様性のある社会になると思います。「欠けた空白」を責めるのではなく、「欠けた空白に何が入り込んだのか」。ここに焦点を当てる社会になると、自分に自信が持てたり、お互いを尊重できんじゃないかって。

今日も僕は、“見えない大腸”で言葉を消化します。



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