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エンターテインメント論

昨日、このような記事を書きました。

なんとなく真面目に書きたくなったので、なんとなく真面目に書いてみました。普段、このベクトルの内容を真面目に掘り下げて書くことはありません。だって読んでもらえないことがわかっているから。

僕はnoteを「創作の場」というよりも、「コミュニケーションの場」として捉えています。書いたものを通して、交流が生まれる。「創作」はそのきっかけに過ぎない。その場所にわざわざ「リアクションがされないものを置く」ということは、置く側にも、それを目にする側にも得はないことだと思っていました。ただ、昨日は〝なんとなく〟書いてみたくなった。

予想に反して、この記事は多くの方に読んでいただけました。ありがたい限りです。僕にとってこの記事は、今後のnoteでの方針を決めるリトマス試験紙のような役割を担っていました。読まれなければこのような文章はもう書かない(書くにしても表現方法を変えていかなくちゃいけない)。万が一反応が多ければ、noteを本気で書いてみよう、と。

「読んでくださる人がいる」というのは、ありがたいことです。その一人ひとりの存在が、投稿する前に書いた文章を見直すきっかけをくれます。そして、何より明日の一文をかきはじめる励みとなります。読んでくださる方に最大の感謝を込めて。



大きなテーマで話を展開させてきましたので、少々書き漏らしている点があります。

例えば、この部分───

これを文章の領域で説明するならば、文章の巧いアマチュアが増え、プロの作家とそこまで差はなくなった。そして、インターネット上に書き手が増え続けているという状態です。まぁ、別にそれはそれでハッピーな世界かもしれません。世の中に美味しいラーメン屋が増え、良い文章を読む機会が増えているのだから。

正確に言えば、アマチュアの書き手とプロフェッショナルの作家には歴然とした差は確かにあります。ただ、その「差」を重要視しているのはほとんどの場合「書き手」だけです。つまり、アマチュアとプロフェッショナルの境目は、文章に対する感受性や関心が強い人だけの問題になっているいうことです。

全体のレベルが底上げしたことで、手軽に満足度の高い文章が読めるようになりました。アマチュアでも人の心を動かす書き手は山のように存在します。正直なところ、読む側の意識としてはアマチュアとプロフェッショナルの差はそこまで重要ではありません。ある一定ラインを超えた技術と、そこに生まれた感動さえあれば、それで満足だからです。

もっと引いて考えてみましょう。文章をエンターテインメントとして考えた時に、ライバルは自分以外の書き手ではありません。ライバルは、Netflixの映画やSpotifyの音楽、YouTubeの過激な動画たちです。それらのエンターテインメントたちと肩を並べるように、自分たちの文章は存在しているのですが、その視点から物事を見た時に、読み手にとってアマチュアとプロフェッショナルの差など大した問題ではないということに気付きます。

その事実を頭の隅っこに置くことで、自分の文章をエンターテインメント化することの重要性と向き合いながら書くようになります。文章のわかりやすさが求められることも、内容がエモーショナルになっていくことも必然的な傾向にあります。そうしなければ、一行目を読んでもらう機会さえ失ってしまうのだから。

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「繭が風を手に入れ、シルクとなった」 対話のこと、文章のこと、考えるということ。

「ダイアログジャーニー」と題して、全国を巡り、さまざまなクリエイターをインタビューしています。その活動費に使用させていただきます。対話の魅力を発信するコンテンツとして還元いたします。ご支援、ありがとうございます。