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日本人はアートが下手なのか?

とあるアトリエでアートに関する話をしました。

それがおもしろかったので、ここに書いておこうと思います。
テーマは「日本人はアートが下手なのか?」

その場にいた一人のアーティストの方が「パリやNYで歩いていると、街の人に突然声をかけられ〝その服カッコイイね、写真撮らせてよ〟と声をかけられる」と話していたことがはじまりです。日本ではあまり見かけない光景だという話になり…

「日本人は〝自分が好きなもの〟というのがあんまりないのではないか?」

みんなが「良い」というから「良い」のであって、「自分はこれが好き」を主張するのが上手じゃないよね。というありきたりな展開だったのですが、そこから思わぬ方向へ話は進んでいきました。
登場人物はABCの芸術家と「僕」です。



日本における「みんなが褒めていないものは褒めづらい」みたいな状況はどのように改善すれば良いとお考えでしょうか?

A
単純に〝好き、嫌い〟を自分で言えたらいいと思います。
多くの日本人は自分のモノサシを持っていないんですよね。例えば、絵が並べてあって「どれがいいと思う?」と質問すると「それは分からない」と答える。「では、どれが好き?」と聞いた時に「それも分からない」と答える。

紐解いていくと「これが好き」というと「え?そんなものが好きなの?」と言われたらどうしようという不安から、体裁を気にしてしまうということが原因だと思います。

B
欧米は個人主義ですよね。日本は農耕民族なので、村社会と言いますか集団として狭い中でのルールが重要だということを聞いたことがあります。移動できない───つまり、植物型人間なんですね。だから横の人の顔を気にしないと生きていくのが難しい。

C
でもね、〝美術〟や〝芸術〟という言葉が誕生する以前から、日本人はそれらを作っていたんですよ。民度としては職人気質で、遊び心を持って工芸品を作っていた。

当時、刀鍛冶をしていた職人が、戦国時代が終わった時に仕事がなくなってしまった。彼らは何をしはじめたのかというと、その超絶技巧を活かしてエビやカニなどの関節可動式のフィギアを作りはじめたんです。戦争のための技術がかわいいフィギアに───そういった遊び心は芸術と繋がっていますよね。

他にも、仏教美術というのはルールが厳しいジャンルで。要するに、正確に枠が決められている。例えば、神様の表情、ポーズ、手の本数、指の形まで決まっています。

職人たちが手を加えたのは、それら以外の部分なんです。台座を凝ったり、神仏が踏みつけている鬼の形をおもしろい形にしたり。ルール以外のところを見つけて、隙間で遊ぶ。
そういう意味では、日本人は300~500年年前からアートが大好きで、モノづくりを続けている。ただ、それがマニアックでなかなか表に出てこない。商売になるかどうかは置いておいて、見る目というのは養われているはずです。


確かにそのような面はありますよね。僕はバーテンダーですので、飲みものに対する関心が強いのですが、お茶にしてもそうです。今では〝紅茶〟と言えばイギリスなどのヨーロッパのイメージが強いですが、本来の起源(チャノキ)は中国にあり、それが伝来したものです。

16世紀にポルトガル人とオランダ人が中国で〝茶(チャノキ)〟を発見した頃、既に日本では千利休が茶道というカルチャーを構築していた。〝茶〟という生活文化を精神の域にまで高めていました。

C
日本には切腹が好きな人というのが一定の割合でいて。三島由紀夫も切腹が好きで、切腹芸人のようなところがありました。小説でも切腹の描写があったり、自分が切腹をする自主映画まで撮っている。実際に割腹自殺してしまうのだけど。
「背中の傷は恥だ」という考えや、人生の集大成という場面での美学だったりする。


〝死〟というのは、アーティストの一つのテーマでもありますものね。死に様の美しさに対する様々なアプローチがある。
海外ではそういった発想はないのですか?

C
忠臣蔵のラストシーンは、仇を打った後に四十七士全員が切腹をする。その様子が衝撃なので、フランスやアメリカでは映画化や舞台化がされています。『47RONIN』として映画化されたり、クラシックバレエの巨匠モーリス・ベジャールが「ザ・カブキ」という舞台にしました。腹を切って結末を迎える───自死でもって全てを丸く収めるという文化は日本だけです。欧米では自殺は禁忌ですので、地獄に落ちるとされています。


宗教的な意味合いですね。

C
だから、記憶に新しい『レ・ミゼラブル』のミュージカル映画では、生きている人も死んでいる人も全員集まって大合唱をするシーンではジャベルだけがいない。それは彼が自殺をしたからなんですね。そういった大きな禁忌を日本人は嬉々としてやっている。「彼らは一体何なんだ?」と。


〝切腹〟もクールジャパンなのかもしれませんねw
僕たちは内側にいるから分からないですが。浮世絵も日本ではごくごく一般的な生活文化で、偶然ヨーロッパに渡り、高い評価を受けたということもあったり。

B
鍛冶職人が作ったカニのオブジェの話で。日本という国は、基本的には中国の文化を真似て、亜流から発展していったという経緯がありますよね。

僕はバスキアのテイストを下敷きにして絵を描いたりするのですが、やはり過去に共通認識がなければ理解されませんよね。

腹を切るというのは向こうの人には分からないけれど、絵だと理解できる。
それはお互いの共通認識の上で成立している部分があって。そこに日本の特徴を注入すると理解されやすい形になる。

これは販売の時にも言えるのですが、全く異質のものを持ってくるとやはり難しい。同じ文化という下敷きがなければ理解に至らない。例えば、東南アジアの絵画は僕たちの感性として受け入れ難いけれど、同じ東南アジアのものでもそれが仏教画になると途端に理解しやすくなる。そういうことってありますよね。

C
クラシックバレエは、音楽と踊りだけなのでストーリーが分からないですよね。でも、実は観客は既にストーリーを知っている。事前に調べて、知った上で見るものなんです。


教養としてもともとある。

C
「アートを楽しむ」という上にはルールがあるというか、レギュレーション(規制)を知った上でみんなが楽しみにいくという面があります。現代芸術を見て「分からない」というのは、ルールを知らないからなんですね。


先日、デザイナーの方と話をした時に、ちょうどそのような話となり。その方はイタリアで高名な賞を受賞されたのですが、「そこに戦略はあったのですか?」という質問を投げかけれると「〝戦略〟とも言えるけど、これは〝会話〟です」とお答えになっていました。

会話というのは相手に伝えようとするし、相手も理解しようとする。
その相互作用の中で成立するものだ、と。〝戦略〟と言うと冷たいけれど、〝会話〟だと表現するとまた響き変わってくる。だから〝会話〟だと思ってそういう要素を仕込んでいる、というお話をされていたことを思い出しました。

B
現代芸術は今までの歴史を勉強した上でなければ理解できない。そういう意味では一番難しいですよね。

C
最近では、「現代芸術に必要なのは〝アート〟と〝言説〟だ」と言われています。アートの隣にコンセプトを提示しなければ成立しない。

これを描いた裏側の意味(コンセプト)というところもバラしてしまわないと、理解できない。今までの美術史を作品の中に込めて、さらにそれを言説として提示する。美術史と作家史を織り交ぜながら説明しないと成立しない。「作品が全てだ」という作家さんは難しいですね。

B
本当はそれをキュレーターだったり、ギャラリストの方がやってくれると有難いですよね。全てを自分で説明しちゃうと意味がないし、安っぽくなってしまう。土台を作ってもらった後に自分で見て感じてもらうという。そういうことが充実してくるとアートの世界がもっと広がると思ますね。


「ダイアログジャーニー」と題して、全国を巡り、さまざまなクリエイターをインタビューしています。その活動費に使用させていただきます。対話の魅力を発信するコンテンツとして還元いたします。ご支援、ありがとうございます。