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その「ことば」は、ぼくには届かない

ものごとを全てわかったように話されるとこちらに届かない。

少なくともぼく場合は。そうじゃなくて、「こう思うんだ(今は)」とか「一緒に考えよう」とか「それいいね」という、ある種の余白がないとことばはそこで化石になる。人によっては「答え」を指し示してほしいのかもしれない。上からの視点で上手(っぽく)に批評する形がクールに見えるのかもしれない。でもね、そういうのはぼくには「あ、もういいや」となってしまう。

そう考えると「伝え方」というのはとても難しい技術だと思う。たとえ、ことばの上では良いことを言っていても、それが相手に伝わらなかったとしたら、それは失敗だ。「伝わる状態とは何か?」を考える。

インターネットを見ていると、突然以前検索した旅先までの航空チケットが広告で現れる。また、別のサイトではECサイトで検索した商品をこれみよがしに勧められる。その時、起こる感情は「ありがとう」ではなく、「気持ち悪い」だ。確かに、ぼくはノルウェーに行きたいし、新しいコーヒーポットがほしいと思っていた。でも、突然知らない人から脈絡なく「これはどう?」と言われると、相手に不信感を抱いてしまう。

インターネット上でしばしば起こるあの状況は、「伝え方」を間違っている。ぼくたちはめんどうな生き物で(あるいは、ロマンティックな)、文脈を大切にするし、物語に惹き込まれるようにできている。突然、答えを出されても納得できない。全てわかったように話されると反発したくなるのが性分だ。

正しい答えに辿り着くのはそこまで難しいことではないのかもしれない。ただ、それを誰かに伝えようとすると突然難しくなる。相手の心に届く形で、健やかな気分で、それが伝わる空気で。いろんな要素が重なり合ってようやく「伝わる」ものだと思っているから。

そういうことをぼくたちは『北風と太陽』のような寓話の中でよくよく知っているはずなのに、いざ自分ごととなった時に忘れてしまう。「知っている」と「それができる」には大きな隔たりがあることも理由の一つだろう。ただ、そのことについて真剣に考えてみることは大切だと思うんだ。

自分の心を分解していって、もう一度組み立ててみる。そのプロセスを人の心にも当てはめて考えてみる。以前、「人間はマーブル調なんだ」と書いたことがある。感情だけじゃなく、思考もね。それらの色の仕分けをしていくうちに、気付くことがある。「伝わる」を考えるのは、それくらい緻密な作業が必要だと思うんだよ。「赤の部分が大きいから、君は赤」というざっくりとした決めつけは、その人を尊重していることにはならないよね。

それを少し考えるだけで、選ぶことばも、文体も、比喩表現もなだらかに変わっていく。それは「読む」姿勢も、それから「聴く」姿勢だって。



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