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堀江貴文論×落合陽一論

『10年後の仕事図鑑』を読みました。

とにかくオモシロかったので、その理由を僕なりに分析してみました。


分析する上で重要になる要素は堀江貴文氏と落合陽一氏の共著であるということ(至極当たり前ですが)。

一人でも十分面白いのに、この二人を掛け合わせて「未来を語らせた」点です。


この二人の違いを明確にしていくと、より深く本書を楽しんで読むことができるのではないでしょうか?言わば僕なりの堀江貴文論×落合陽一論です。

それではさっそく参りましょう。

この記事を読んでいる時点で二人のことを知らない人はいないと思います。(ですので、お二人の紹介は割愛します)


もしかすると、この二人は似た者同士だと思っている人は少なくないかもしれません。


確かに彼らの共通点はたくさんあります。

・最先端のテクノロジーを開発している(メディアアート、宇宙ロケット)

・時代を前進させる哲学(二人の中に絶対的なシナリオが存在する)

・多動力(とにかく動き回っている)

・論理的思考回路(行動パターンが常に合理的)

・テレビの中で浮いている

などなど。


一般の人はざっくりと「新しいことをやっている、協調性のない人」という印象を抱いているのではないでしょうか?



でも実は、この二人の性質は似て非なるもの。全然違います。

本書を読み解く上で、楽しさの幅を拡げるのはここ。

考え方(または感受性)が異なる二人が「未来」を語ると、わりと似た結論になった。

これが、この本の最大のポイントだと思います。


本書は二人の「議論」という体ではなく、また「対話」という体でもありません。「そりゃ、普通に考えたらそうなるよね」と二人が頷き合っているところを読者が垣間見る、というスタイル。


「未来」の可能性を描いているテクノロジー的な本だろうか?と思いきや、

「別のベクトルから“同じ未来像”を語り合っている」という、とても文学的な読み物なんです。



それでは、「堀江さんと落合さんの違い」に焦点を当てて、分析してみたいと思います。




堀江貴文論。

僕は堀江さんのことを「最短距離で問題解決をする人」だと思っています。

数々の事業を同時に運営しながら、メルマガを書いたり、紙媒体でもある本も積極的に出したり、講演・ネット・テレビとあらゆるメディアに出演されています。

やりたいことが山のようにあって、それを愚直に実現していく。

「多動力」というベストセラーもありましたが、堀江さんにはそんなイメージがあります。


そうなってくると、たくさんのことをやる(夢を実現する)ためには、一つ一つに時間をかけていられないわけです。あらゆるものを同時に進めることもそうですし、合理的に判断することで時間を短縮させることが必要となってくる。


そのためには最短距離で問題を解決することが必要となるわけです。最短距離で「解」を目指すとなると、手順を追って話を聞いていたり、非合理的な慣習に則ることが難しい。

瞬時に問題の「本質」を見抜き、合理的な解決策をとらなけらばならない

そして、これが堀江さんの特化した能力です。「問題の核心」を瞬時に突き止めなければロスが多くなり、やりたいことに時間とエネルギーを費やすことができない。

SNSでの大量のポストやメルマガの配信は、将棋における多面打ちや野球の1000本ノックみたいなもので、情報を最大量インプットしてその「核心」だけを抽出する訓練みたいなもの。


堀江さんにとって最短距離で「解」へ向かうことこそが正義なんです。


そのためには無駄は削ぎ落として、どこまでも合理的に考えたい。こんがらがった紐を解くことはせずに、根元からばっさりちょん切ることを屁とも思わない。

ゆえに堀江さんの「解」への過程には美意識がありません



対照的に、落合さんは“メディアアーティスト”の肩書からも分かるように、研究者や実業家であると同時に芸術家です。


①堀江さんと落合さんの最大の違いは“美意識の有無”。


“美意識の有無”だけで、「問題の捉え方、思考過程、問題解決の方法」はガラリと変わってきます。

落合さんのそれは、「美しさ在りき」なんです。だから思想や選択に情緒がある。堀江さんは「情緒なんてクソくらえ!」という感じ(僕の完全主観ですし、それが決して悪いことだと思っているわけではありません)。

情緒よりも何よりも先に、核心に辿り着きたいし、問題が解決するならば(目的が実現されるならば)どのような方法でも良い。


芸術(主にアートワークにおける)は、とりわけ無駄から生まれています。というより「無駄」なものなんです。それそのものが内的な「何か」に響き、無意識の中で影響を与えているということは往々にしてありますが、基本的には「無駄」。“本の装丁”も、“陶磁器の絵付け”も、“建築のデザイン”だって根本にある目的から見れば全て「無駄」なもの。



無駄は削ぎ落とし、本質だけを抽出する。

以前、堀江さんが著書の中で「小説は嫌い。長いから」と仰っているのを目にしたことがあります。

まさにこの発言が「堀江さんという人間」を表わしています。エッセンスだけを抜き取れば小説なんて数行で完結することができます(その長さだからこそ表現できる複雑性という点はひとまず置いておいて)。


・「結局、人間って不倫してしまう生き物だよね」

・「人のモノを取ったら罪悪感で苦しむよね」

・「死ぬって分かっていたらもっと前から優しくしておくべきだよね」


など(ざっくりとした例えですが思い浮かぶ作品が多数あるのではないでしょうか)。

小説家はそれらの原液を薄めていき、読者が分からないように「物語」という形で再現することが仕事です。その大いなる無駄にこそ「楽しみ」や「感動」や「読者自身の気付き」が含まれているのですが、堀江さんはそれらを「長い」の一言で一蹴します。


堀江さんの目的は、物事の「本質(核心)」を抜き取ることですから、小説という形態は生理的に合わない(堀江さんが「物語の力」ということを無視しているわけではありません。ご自身も小説を書かれている通り「物語」があることでより多くの読者に伝わるということを知っています。ただ、「こんな面倒な方法を使わないと届かないのか」と苛立っているのではないでしょうか)。


「美意識」よりも「速度」。

堀江さんの意識は「最短距離で問題解決をする」というところに重点が置かれているので、彼の言説はいつだって単純明快です。

最適化のために、順序を度外視する方法をとったり、システムを根こそぎ変えてしまうようなアイディアを発信し、実際に行動します。


その辺りが、世間の人が堀江さんのことを“痛快”に感じる理由です。

同時に「その速度についていけない人」は、短縮された部分の内容が分からないので堀江さんの発言・行動に恐怖を感じてしまいます。

“美意識がない(必要としていない)”ので、「伝わり方」よりも「早く解決すること」の方が重要なのですね。


また、ディスカッションの相手や聴衆に対して堀江さんが苛立っているところを見たことがある人は多いのではないでしょうか?

これは「問題点の本質」を共有できていないことに対する苛立ち、相手の言説が「本質を語っていない」ことの苛立ちです。話題の中にある装飾にばかり気を奪われ、核心となるテーマを見失っている質問者を容赦なく切り捨てます。

それらの理由は時短のための「本質抽出」という正義に反しているからです。




落合陽一論。

落合さんはアーティストです。

“美意識の有無”が「問題の捉え方、思考過程、問題解決の方法」の上で堀江さんと異なることに起因しているということは述べました。


ただ、落合さんの発言って「すごいけど、よく分からない」ということが多くないですか?こちらの理解力不足と言えばそれまでなのですが、一概にそれだけが原因だとは言い切れない気がします。決して難しい言葉だけで話している訳ではないんです。丁寧に、誰でも分かる言葉を使用しているのに、なぜ?

「わかりやすい説明をしているのに、いつの間にか分からなくなる」

これが彼の最大の魅力だと僕は思っています。



堀江さんには「時短のための本質抽出」という性質がありますが、落合さんには「ゆらぎの中から策を見出す」という性質があります。彼も彼の言説も常に移ろっている。彼独特の浮遊感はそのためです。


問題を抽象化させ、別の話題に具体化させる。

そこから再度、抽象化し、新たに別のものに具体化する。


落合さんの話はこの連続で展開していきます。言葉から概念へ、概念から言葉へ、ゆらぎながら移ろっていく。抽象化したり、具体化したり。浮いたり、沈んだり。現れたり、消えたり。溶け込んで姿をくらませます。

自由自在に抽象化し、具体化する。それを驚異的な速さで繰り返すので、聴衆は彼の言説を途中で見失う。水で書いた文字のように懸命に跡を追うのだけど、最後の方ではよく分からなくなって、難解さと心地良さが不思議と残る。


話しながら自身で問題提起を起こし、さらに解決し(自己完結するように)、さらに別の言説へと移ろっていく。ヨージヤマモトのたおやかなシルエットともイメージが重なるように、彼の浮遊感は思考と言説のゆらぎに起因しています。



「そこにいるけど、そこにいない」

落合さんって複数で話していて、完全に姿を消している時がありますよね(スマホいじっていたり)。かと思えば突然浮遊して現れる。言説だけでなく、存在も表と裏を移ろうように自由自在に行き来しているんですね。


ただ、堀江さんも多人数でのディスカッションの中でスマホいじっていたりしますが、彼の場合は“完全にそこに存在している”。確実にそこにいて、スマホをいじっている。落合さんはいつの間にか消える(光と影を行き来する)のに対し、堀江さんには常に生命の律動を感じます。そこが二人の違いです。

落合さんは存在を行き来し、堀江さんは常に存在している。



「ゆらぎ」の中で生まれるアート。

A→B、B→C、C→D、D→E…

芸術的な揺らぎの中で行き着く「解」、そしてその中で偶然生まれるアイディア。これはアーティストにしかできない技です。ある種トリップしながら「解」に辿り着き、その間を論理で繋いでいく構図です。

最短距離を「是」とする堀江さんから見ると、かなり「無駄」が多い方法ですが、その無駄の質が驚異的に高く、それらが別の分野で生きている。


タイプが違う二人だけど、「解」を裏付ける圧倒的な論理力がある。非常にオモシロイ二人です。




『10年後の仕事図鑑』

この本のオモシロイところは、「そんなタイプの異なる二人が未来を語ると、おおよそ同じような結論に至った」という点です。


そして二人が視る現実には「諦め」は一切ありません。むしろ、ひとかたならぬ“可能性”を感じている。二人にとって「未来」は明るいものであり、希望に満ち溢れています。


「一年後だってどうなっているのか分からないのに、10年後の未来を想像することに何の意味があるのだろうか?」

本書の中の記述で、本のテーマを覆すような本末転倒甚だしい堀江さんのこの発言は痛快ですが、言いたいことは「画一的な幸せ(仕事)のロールモデルなど存在しない」というところにあります。「これが正解」というものはないのだから、そんな予想は意味ないよ、ということ。

その点でも落合さんとの意見は合致していて、過去の“常識”は通用しない、と。“常識”や“普通”というものは過去の誰かの発明で、その発明はその都度更新されていくのだから自分たちもアップデートしないと、と。


本書の重要なメッセージをまとめるとこの三行に集約できるでしょう。


自分の好きなこと(趣味)を遊び尽くして仕事にしろ。
周囲と競争することをやめて、自分にしかできないことを仕事にしろ。
仕事は「引き受けるもの」から「つくるもの」へと変わっていくのだから。


答えは同じだけど、問題の捉え方や思考の過程は違う。そんな二人の違いを比べながら読み進めるとまた違ったオモシロさが味わえると思います。



最後に。

このスペシャルな二人の共著ということなので、活字で埋まったガチガチの本を期待していました。しかし、本を開くと「イラストたくさん、余白たっぷり、短いセンテンス」

僕にとってそれが少し残念だったんですね。顎の骨をしっかり使いながら読み進める『魔法の世紀』のようなものが読みたかった。だけど、読んでみると驚くほどしっかりとした骨太な内容なんです。

そこではじめて気付きました。

「だからこのデザインだったのか」

イラストや余白、短いチャプターの理由。この二人が共著を出すとなると、二人の言説に注目しているフォロワーは必ず買う。つまり、「二人のフォロワーでない人たちに届ける」という戦略が大前提にある。今まで二人の本を手に取らなかった層に行き届くデザインとして設計されているんですね。唸りました。


まさに、編集の妙です。


途中のイラストもヴィジュアルが易しそうなだけで、内容の質は高い。二人のフォロワーをしっかりと満足させつつ、読者の間口を広げた。多くの人に読んでもらおうと思ったら、このデザインがベストなのかもしれません。

売れているのが分かります。


Big up !!ライターさん、編集さん!!


何から何まで驚かされた一冊でした。

「1400円」、十分元は取りました。

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嶋津 / Dialogue designer
「ダイアログジャーニー」と題して、全国を巡り、さまざまなクリエイターをインタビューしています。その活動費に使用させていただきます。対話の魅力を発信するコンテンツとして還元いたします。ご支援、ありがとうございます。