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感情の波に漂う日々の中で

相手を否定しないところが素敵だと言ってくれた人は、僕が否定するようになったら離れていくのだろうか。仕事の考え方が似ていると言ってくれた人は、方向性が変わった瞬間に、仕事をくれなくなるのだろうか。よく話を聞いてくれる人だと言ってくれた人は、僕が話す側に回ったら不快感を露わにするのだろうか。エモーショナルな文章を書くと言ってくれた人は、エモの欠片もない今の文章を読んでどのように思っているのだろうか。

他人の評価が気になって仕方がない。でもそれは人間関係を築いていくために必要なものだと理解している。しかし、僕の場合はそれが少々行き過ぎているのだ。何事もバランスが必要なのに、僕の秤はいつも斜めになっている。その差分を気にしない日もあれば、現状を変えたいと強く思う日もある。感情とは厄介なものだ。一定の気分で過ごせたらどれほど楽だろうか。そんなことばかりを考えてしまうけれど、感情の起伏があるからこそ、喜怒哀楽が生まれることも理解している。

誰かの期待に応え続けること。その基準が与えられる関係性は、最低限のノルマさえクリアすれば、問題は生じないのかもしれない。しかし、それは本当に自分のためになっているのだろうか。僕は、相手の機嫌を損ねないように工夫しながら生きている。その生き方を選んだのは自分自身で、誰かから強制されたわけではない。この生き方は強い印象を残せないけれど、不快感は与えない「無害な人」という印象を植え付けるのだろう。

相手に失礼なことを言っても嫌われない、懐に入るのが上手な人がいる。相手を虜にするような笑顔で愛される人もいる。これらは全部、自分にはない部分で、会得したいと思っても、結局何も手に入れられなかった。寡黙なままでその場をやり過ごした瞬間に、「あいつは冷たい人」というレッテルを貼られる。その運命がわかっているからこそ、いつもよりも高いテンションで相手に接するように気をつけているつもりだ。

人と関わるのは好きだ。しかし、適切なバランスを見極めるのは簡単ではない。ありのままでいいとよく耳にするけれど、その言葉は魅力がたくさんある人にしか通用しない言葉だ。今の自分がありのままを曝け出した途端に、多くの人が離れるに違いない。今の自分に足りないものは何か。そんなことばかりを考えながら日々を過ごしている。愛される人になりたい。でも、その対象は誰なのか。それすらもわからない。

東京にはあまり知り合いがいない。今はまだたくさんの人と出会っていく段階だ。無駄な思考をやめて、とにかく出会いの場に参加していきたい。そんなことを思うのであった。

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