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歳を重ねるたびに心が敏感になる

歳を重ねるたびに、心が鈍感になると聞いた。さまざまな経験を経て、諦めが身につくからかもしれない。大人になったら鈍感になると信じていた僕は、大人になるたびに、敏感になっているような気がする。

幼少期の頃は、心が鈍感だった。誰かの不幸を聞いても何も思わなかったし、映画やドラマを観ても、所詮作り物だろと他人事だった。何を見ても、聞いても、決して自分ごとにはならない。世界に期待していなかったから、心が鈍感だったんだと思う。

他人なんてどうでもいい。まずは自分が不幸から脱出する必要がある。他人を蹴落としてまでも、幸せを手に入れたいだなんて傲慢な人間だったんだろうか。他人を蹴落として幸せを手に入れたとしても、自分の周りには誰もいなくなるだけという事実がいまならわかる。

歳を重ねて、体が大人になった。心までは大人になっていないのかもしれない。ずっと心は鈍感だった。世界に希望などない。いつ命が終わってもいい。そんなことばかりが頭に思い浮かんでいた。

ある日、母親が亡くなった。生まれて初めての身内の不幸である。心の整理がうまくつかない。病室で母の手を握りながら、声を殺さずにわんわんと泣いた。

母親の喪失がきっかけで、家族がテーマの作品を見るたびに、感情移入するようになった。自分ごとになったのかもしれない。誰かの不幸を聞いた。身内や仲間が悲しんでいるにちがいないと、自分の胸が痛くなる。心の変化を感じた。きっと僕は敏感になった。

さらに、大人になった。難病になって、1人では生活ができない状態に陥った。周りの人の支えのおかげで、いまは社会復帰ができている。たくさんの温もりに触れた。人は1人では生きられない。誰もが誰かに支えられている。そんな当たり前の事実を、26歳でここぞどばかりに思い知った。

大人になったら、もっと心が鈍感になるはずだった。何が起きても痛みなど感じない人間に。敏感であることは、何も諦めていない証拠なのかもしれない。絶望から始まったこの世界に、淡い期待をずっと抱き続けている。性悪説ではなく、性善説。生まれながらに悪人はおらず、何かがきっかけで、人は悪人になる。いや、三大欲求がある限りは、性善説は成り立たない。そう知っているくせに、いまだに性善説を諦められずにいる。

大人になるたびに、心が敏感になっていく。この現象を辛いと思うひ日もあるけれど、痛みや喜びなど、身に起きた出来事を深く味わえるようになったと信じている。だから、このままでいい。このままでずっと生きていくんだ。

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