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それでも希望を捨てきれない

晴れた空の下で見た月は、ガラス瓶の中に閉じ込めておきたいと思うほどに綺麗だった。綺麗なものを見たときに、それを言葉に表す行為を最大の賛辞と呼ぶ。だが、大抵の場合、その言葉が本体の美しさを超えることはない。その状態を避けるために、脳内にある言葉を絞り出すのだけれど、またしても超えられない。やがて美しさの冒涜に発展して、己の語彙力のなさを恨んだりする。そもそも言葉とはその魅力を伝えるには不十分な要素を持つのが世の常だ。自分の目で見た感覚を言葉が凌駕することはほとんどない。

綺麗なものを見たときは、この瞬間が終わらないようにと永遠に独り占めしたくなる。そんな思考に陥ることは滑稽なのだろうか。はたまた傲慢なのだろうか。きっとどちらもそ正解だ。そして、綺麗なものを自分の好きな人にだけ見せて、ガラス瓶の蓋を開けた瞬間にすべてをなかったことにしてしまいたいと思う感情は野暮なのだろうか。

人生は簡単に消えてしまう泡みたいなものだ。終わった瞬間にすべてが泡のように消えてなくなる。どれだけ栄光を残しても、悲しみを背負ったとしても、最後はみんな泡になって消えていく。その道は誰もが通る運命だ。誰かにつけられた傷も知らない間にかさぶたになって、少しずつ癒えていく。今抱えている悩みを10年後も鮮明に覚えている人はほとんどいない。そして、傷をつけられた過去も、誰かを傷つけた罪も全部泡のように消えていくだけ。

死んだら何も残らない。いや、何も残せないと言った方が正しいか。僕たち人間は最後に泡になって消えゆくと知りながらも、刹那の中を懸命にもがきながら生きている。どうせ何も残せないのに生きた証を残そうとしては、それを残せなかった事実を知らずに消えていく。この行為が無様だと思いたくないし、思わせたくない。そう思ってしまうのはやはり傲慢ゆえだ。

すべてが無意味になる朝。すべてが無意味になる昼。すべてが無意味になる夜。そして、すべてが無意味だとは思えない人生。時計の針は歩みをやめず、人間の命は少しずつ削られていく。生きていくことに意味はないのに、生きる意味を探して、見つからないと嘆いては同じ悩みを抱えている人を見て安堵する。可愛げがあるも正解だし、醜悪という表現も間違いではない。世界中を旅しても自分が見つからないように、生きる意味など元々存在しない。その答えを過去の偉人が発見しているにも関わらず、僕たちはずっとそれを認められずにいるのだ。

滑稽すぎるかもしれない。だが、過去の答えに何の意味がある。それがあるかどうかの答えについて、実感を伴いたいだけだ。そもそも人間とは論理だけでは生きられない感情が備わった生き物なのである。感情のままに動き、何かに傷ついたり、誰かを傷つけたりする。人はすべてが無意味だと悟れるほど賢くはなれないし、賢さを身に付けることが人生の終着点ではないことにもちゃんと気づいているのだ。

この世界に何も残せないと知っているからこそ、泥まみれになろうとも懸命にもがく。もがいて、転んで、またもがく。なるべく後悔を残さないように懸命に生きる。その様を人は美しいと呼んだり、滑稽だと呼んだりもするのだろう。どんな喜びも苦しみも後悔も最後は泡のように消えていく。だからこそ、綺麗なものを見たときについ独り占めしたくなる。ガラス瓶の中に内側に芽生えた感情を閉じ込めては、そこに永遠を見出す。そして、空っぽの自分に気づいて、己の無力さに悲観したり、一縷の希望を抱くのだろう・


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