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どうせ最後は灰になって消えてしまうから

大事な人が大事だったことを忘れて、うまく思い出せない過去の人と化していた。人の記憶はすぐに曖昧になるものだ。昨日食べた晩御飯は鮮明に覚えているのに、1週間前に食べたものがうまく思い出せない。学校の授業の内容は全部忘れたし、卒業アルバムに映る同級生のほとんどが実在していたのかすらも疑いたくなる。時間が経てば経つほどに思い出の輪郭が薄れていく。それが生きている証明であり、逃れられない人間の悲しき運命なのかもしれない、

出会った人とずっと一緒にいられると思っていても、それはただの錯覚に過ぎなくて、現実は思いがけないさよならが待ち受けている。どんな出会いにも別れがあるのであれば、いっそ出会わなきゃ良かったみたいな後悔に何度も耳を塞いでは、抑えた指の隙間から溢れる確かな囁きに打ちひしがれていた。

出会いと別れはワンセット。そんな当たり前の事実はとっくの昔に理解したと思っていたのに、いざお別れとなった瞬間に、当たり前の事実が恨めしくなる。とはいえ、大抵の出会いは嬉しいものだ。お酒を飲んだ日には出会えたご縁にいちいち感謝したくなるし、いつまでも思い出を胸の中にしまっておきたいとさえ思える。出会えた嬉しさが大きければ大きいほどに、別れの反動は体の奥底まで蝕んでいく。さよならのたびに涙して、涙はどれだけ流しても枯れてくれないと実感しては、まだ感情が存在する喜びに安堵する。

大事だったはずが、もうその人の声も顔も匂いも全部思い出せない。出会った事実すらも疑ってしまうほどに、何もかもを忘れてしまっている。写真を見れば思い出せるのかもしれないけれど、肝心の写真はお別れが決まった瞬間にすべてiPhoneの写真フォルダから消え去ってしまった。消した覚えすらもなくて、消した人が自分ではない別人だったのではないかを疑いたくなる。

どうやら人間は嫌なものから先に忘れていくと聞いた覚えがある。悲しさの衝撃が大きすぎる人はいつまで経っても記憶の底に根付いているくせに、さほど影響を与えなかった人はいとも簡単に脳内から消えていく。もしかすると、すべてを思い出せない人は、本当は好きじゃなかった人だったのかもしれない。だとすれば、確かに芽生えたはずの好きの感情が錯覚だったのかと疑いたくもなる。生きてきた思い出はすべて脳内のメモリにちゃんと残っているはずなのに、それすらもうまく思い出せないまま時間が過ぎていく。

いつの日か、大事だったことすらも忘れてしまうのかな。もしそうなってしまったら、いっそ悲しい気持ちになればいいのに。清々しい気持ちは不必要だと思うからせめてもの抵抗として、別れを目一杯嘆いてほしい。でも、悲しきかな人は痛みを覚えるたびに鈍感になるもので、それは悲しみの耐性がついたからで、きっと悲しみを乗り越えた証拠なのだろう。

鈍感はポジティブなものにも適応する。たとえば美しいものと出会ったときに、芽生えた感動も2度目は少しだけ薄れていく。3度目、4度目、回数が増えれば増えるほどに、どんどん気持ちが鈍感になって、最終的には感動すらしなくなる。何も感じなくなったらおしまい。人の気持ちは簡単に鈍感になってしまうから、自分の感受性ぐらいは自分で守れる人でありたいと空に浮かぶ星に願う。

稀に、鈍感にならない敏感な人を見かける。羨ましさと同時に理解できない悔しさが芽生えてしまうものだから、人間の感情って本当に厄介だ。羨ましいとか、妬ましいといった類のネガティブな感情がなかったら、もっと生きやすくなるのかもしれない。でも、ポジティブばかりの世界は疲れてしまうような気がする。みんなが「大丈夫、いけるよ」と口走ってしまったときには、誰か否定してよと叫びたくなるのかもしれない。いや、叫んでしまう絶対的な自信がある。

生きている間に忘れてしまうものがある、と、同時にずっと掌の中で握りしめて離さないものもある。忘れたくないこと、忘れたいこと。その両方があるから、人は新しい思い出を更新したくなるのかもしれない。死ぬ前に思い出す記憶はどんなものなのだろうか。楽しい思い出よりも後悔の数の方が多い場合は悲しすぎるけれど、どうせ最後は灰になって、すべて消えてしまうから、何もかもがどうでも良くなって終わってしまうにちがいない。

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