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静寂の幸福論

備忘録として書き留めておく個人的幸福論の話です。


先月の花見がこれまでにないくらい完璧な一日だった。

ふだんの休日と変わらず遅めに起きて、遅めのブランチを食べて、

たまたま近くに行ったことのない公園で花見ができると知って、

妻とスクーターでふらっと出かけて、賑やかななかでお花見散歩。

帰りに付近のショッピングモールのフードコートで昔ながらのソフトクリームを食べて晩御飯はおうちでゆっくりいただく。


桜が満開だったこと以外にハレっぽい要素はあまりなく、ただただ日常の延長上にある平和な1日だった。

が、その日1日は今でも思い出せるぐらい、とても満たされた感覚だった。

その時かいたnoteはこちら。



その1日がなぜ完璧に感じたかというと、静かだったからだ。

家では妻とよく話をしたし、スクーターに乗っている間は街中の喧騒だらけだった。

花見をした公園はたくさんの人で賑わっていた。

でも自分の内がとても静かで、それはとても心地よかった。

そんなふうに過ごすことは近年、珍しい。

内面は静かなんだけど、驚くほどの幸福感があって、そのギャップがとてもインパクトのあった1日だった。


その日からずっとそのときの静けさについて考えていて、

幸福とはさまざまな快楽、心地よさ、パッションで満たされることではなく、静寂をみつけることではないかとの仮説に至った。


なんとなく幸せって、好きな人と両思いになった、給料が上がった、サプライズのプレゼントをもらった等等、

気分の高揚感、多福感、躍動するイメージすることが多い。


が、上がったものは、いつかまた下がる。

これは世の常で、朝が来れば夜になるし、寒い日もあれば暖かい日もあり、季節はどんどん変わっていく。


だから気分の高揚&高揚のはてに「幸福」の絶頂がきた途端、幸福の変化、減少、そして不幸のはじまりがやってくる、ともいえる。


それに対して静寂はゼロに近い。

上がったり、下がったりしない。

こころがざわざわしない。凪の状態。

だからその状態でいるかぎり、上がりもせず下りもせず、なにも変わらない。

±ゼロの状態。無だ。

高揚感もないし、こころが揺れ動くこともない。

ただただ静けさあるのみ。

そこにほんの僅かに安らぎみたいなものを感じる。


こういう風に考えてみると、俗世を離れて隠居する話とか、瞑想する人とか、吉岡英治の『宮本武蔵』に出てくる三昧の境地とか、このような静けさを求めていることなのかなと。

とはいえ、僕の場合、たまたま今年の花見で自分の内の静けさを見つけて、

こんなふうに感じることは滅多にない。

多くの人にとってもうちなる静寂は、簡単には見つからないのかもしれない。


いまだにそのときの不思議な静けさの感覚が残っている。


自分を高めたり刺激的なものではなく、ひっそりとそこにあるもの。

賑やかで楽しそうなものでなく、静かで凪のようなもの。

そういったものに今は惹かれるし、なにか大事なヒントが隠されている気がする。






生命科学者である著者による般若心経の現代語訳。
今回の静けさについて考えたとき真っ先に思い浮かんだ一冊。



吉川英治著の『宮本武蔵』は修行のシーンでも真剣勝負のシーンでもなく、武蔵が町中でぼーっと陶器師の仕事姿をみているシーンがいちばん好き。

彼は、先刻さっきからその軒つづきの陶器師すえものしの細工場の前に立ち、子供のように何事も忘れて、轆轤ろくろや箆へらの仕事に見恍みとれていたのであった。
「…………」
 ふり向いた眼はまたすぐ細工場のうちへ戻っている。武蔵は、見とれていた。しかし、そこで仕事をしている二人の陶器師は、顔も上げなかった。粘土つちの中にたましいが入っているように、三昧さんまいになりきっていた。
(中略)
見れば、細工場の片隅には、戸板をおいてそれへ皿、瓶かめ、酒盃さかずき、水入れのような雑器に、安い値をつけて、清水詣きよみずもうでの往来の者に傍ら売っているのである。――これほどな安焼物を作るにも、これほどな良心と三昧とをもってしているのかと思うと、武蔵は自分の志す剣の道が、まだまだ遠いものの気がした。

吉川英治著『宮本武蔵』水の巻より

青空文庫の無料版で読みやすいし、ボリュームがあってしばらく楽しめる。
8巻もあるので合本版のほうがキンドルアプリのライブラリはスッキリします。


この一冊にもヒントがありそう。
こころを鎮める瞑想ってなんだか退屈そう、のイメージが変わりました。



うちの子ノエルにちゅ〜るをあげます。