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受け入れる助言、無視する助言

ふと、助言(アドバイス)に従順になってるときと、逆に無視してるときがあるんだなーと思いまして。何がちがうのか考えてみました。おそらくいくつかの視点があって、これらの掛け合わせで「受け入れる(やってみる)」「無視する」を決めている気がしました。

1つずつ触れてみたいと思います。


1. 自分が(助言者より)詳しいかどうか

何はともあれまずはこれかなと。自分に一定の経験や知識があるときの方が、あまり助言を聞かない傾向はあると思います。ただ逆に詳しい分野だからこそより貪欲に助言を聞き入れる場合もあります。つまり、助言者との相対的な詳しさなのかなと思いました。自分にとっての助言の質とも言えるのかもしれません。


2. 助言者との関係

例えば圧倒的に信頼してる人から、あるいはアーティストなど崇拝にも似た感情を持つ相手から、宗教的に慕う人から、(場合によっては残念ながら)上司や親など支配的な関係にある人から…などの場合には、他の人からと比較して、助言を受け入れることは多いのではないでしょうか。これはもう無条件的かもしれず、時に倫理や感情を吹っ飛ばしていることもあるので注意が必要なやつです。


3. 答えがある(と自分が思っている)かどうか

絶対的な答えややり方が決まっているものは、助言を求める傾向があるように思いました。最近個人的に感じたのは、確定申告や決算でした。あとは受験や就活でしょうか。この類はGoogleの出番です。

ただこれも、本人がどう思ってるか次第です。決算には答えがないとも言えますし、もちろん就活なんかもそうかもしれません。でも例えば「生き方」や「幸せ」みたいなことすら、答えがあると思ってる人も少なくありません。そういう人はとにかく助言を欲する傾向があると思います。


で、このあたりからが重要だと今回感じたことでして、


この「答えがあると思ってるかどうか」は、言い換えると「上達したいことかどうか」なのかなとも思いました。つまり、

「答えがあると思ってること」
=「上達したくないこと」
=「助言を受け入れる」

「答えがないと思ってること」
=「上達したいこと」
=「助言を無視する」

とは言えないでしょうか。


上達したいなら、失敗も含めて過程が重要です。失敗したときに、自分の責任だと思えない限りは反省も改善も起こりにくい。逆に誰かの助言に従って起きた失敗は、他責にする傾向はあると思います。他責にしてしまうともう上達可能性は極めて低くなってしまうと思います。だから厳密にいうと、助言を無視するのではなく、受け入れるでもなく、一旦聞いて、解釈して、あくまで参考として自ら判断・決断するということなのかもしれません。無視ではないんですね。


ここでもしかしたら注意が必要なのは、本来「上達したい」と思っていたにも関わらず、「答えのなさ」のあまり上達意欲がなくなり、答えを欲してしまうことです。以前「やりやすさに惑わされないで 2」と題して、つい本来やりたいことではなく、やり方がわかっていることを人は優先して取り組んでしまうことについて書きました。

答えのなさそうなものって、要は、煩わしいんですよね。めんどくさい。だからやり方もわからなくて、上達意思もなくなって、どうでもよくなって、煩わしい過程を全部すっ飛ばして、成長より成果を求めたくなってしまうんだと思います。だから精度の高い答えが、すぐにでも欲しくなってしまう。

ライフハックや(短絡的な)自己啓発が流行しているのは、この文脈なんじゃないかと思います。


* * *


で、最後に、これは助言される側じゃなくて、助言する側への話です。むしろこの話がしたかったです。

大切な誰かに助言したいとき、その内容は大抵「答えのないこと」ではないでしょうか。答えがない故に難しい、だからその人も困っていて、なんとかしてあげたい。

でもそのとき、答えがないにも関わらず答えかのように助言することは、答えがある問いなのだと錯覚させてしまい、付随的に、相手の思考余地を奪い、場合によっては上達意思をも削ぐことになりかねません。自分の支配的な立場を強くし、盲目的に無条件に自分を信じるようになるかもしれません。

それを望みますか?
もし望むのであれば(応援しませんが)有効に活用してください。


でもそれを望まないなら、助言ではなく、本人がそれに気づける(少なくとも思考する)機会になるように努めてみてほしいんです。人から教わる外発的動機づけより、自分で気づけた内発的動機づけの方が、喜びも記憶への定着も向かうエネルギーも強いです。あるいは、あくまで参考情報として、1つの選択肢として提示して、相手の意見を請うのはどうでしょうか。実際に、あなたの意見は相手にとって、まちがいなく、one of themとして届けられるべきなんじゃないでしょうか。相手の成長を望むならです。

とはいえ、こんなnoteそのものが読み手の思考余地を削ぎ、上達意欲を失わせている側面もあると思います。言動の不一致だとか、矛盾だとか、そうかもしれません。だからこれは声を大にして言いたいのですが、あくまで参考程度に読んでもらえたら、それが一番嬉しいです。こういう風に考えている人もいます、で、あなたはどう考えますか、と。偉ぶるつもりないです。偉そうに聞こえたらごめんなさい。


今日もありがとうございます。
雨の日は雨の日として、梅雨は梅雨として愛でたい。

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