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最初に世の中への憤りを覚えた原体験:なぜその魅力的な才能を活かそうとしないのか?

「りょーすけ、就活しやんと大学院受けんねや~やりたいことあっていいな」


忘れもしない去年の7月頃、僕は大学4回生で人生の岐路に立たされている中、何人かの仲の良い友達に言われた言葉である。

僕は世間の大多数が大学生に抱くイメージ通りの生活を送ってきた。

毎日必修の講義に出て、空き時間にはアルバイトをし、稼いだお金でお酒を浴びるように飲む。

そんな生活が日常にある友達と一緒に大学生活を楽しんだ。

その頃つるんでいた友達との違いをしいてあげるなら、大学を短大から3年次編入したことと、一人暮らしのお金を一人で賄うために疲れた体に鞭を打って馬車馬のように働いたことだ。

編入したおかげで講義は本来同学部の同回生が1,2回で取るような概論系を年下にまぎれて取らないといけなかったし、それこそ基礎の講義を一つも履修しきっていない状態でいきなり実習の講義を受けるというかなりイレギュラーな講義スタイルを取っていた。

なので友達は3回生にもなると卒業単位がかなり取れている状態になるため毎日平気で遊びまくっていた。

そこに適応するために僕はバイトと講義のスキマ時間を使って飲みにケーションをしまくっていた。

今思えばよく体調を崩さなかったなと自画自賛してしまう。

そうそう、この話をすると被害者ずらして本当は友達と遊びたくなかったのか!とダメ出しを食らいそうになるが決してそういうことではない。

確かに時間的にも精神的にもゆとりなんてなかったし、忙しいの極みのような生活を送っていたけれど、この時ほど自分の人生が充実していたことはない。

僕はどうしようもなく”生”を実感していた。

この感覚は実家の奈良県にいては味わえなかっただろうし、京都という僕にとって未開の地で生活していたということがトリガーになったのだろう。


そんな生活を送ってきた僕も4回生になりそろそろ人生の大きな選択を迫られる時が来た。

就活だ。

しかし僕はこと就活において前々から決めていたことがあった。


就活はしない。


その理由はひどく幼稚なもので、人と同じ道を歩んでいきたくないから。

昔から僕を知ってくれている人がこの話を見たらさぞかし大爆笑するところだろう。

なぜなら僕ほどみんなと足並みをそろえて生きることを意識してきた人間はいないから。


とにかく人と違うことが嫌だった。

皆と同じように当たり前を当たり前にできるようになりたかった。

なぜそんな風に思うようになったのかおもいあたる節はいくつかあるけれど、なにより人と比べたときの劣等感が大きいと考えている。

昔から僕は非常にどんくさく、友達ができるようになることをワンテンポ遅くできるようになる子供だった。

出来るようになっているかも怪しいところだけれど。。

これが早生まれの弊害なのか、自分の生まれ持っての性格がこうなのかは神のみぞ知るところだけれど、とにかく自分はこのどんくさいマイペースなふるまいしかできない自分に激しい憤りを感じて22年間生きてきた。

余談ではあるけれど、大学の卒業論文で困り感や発達障害についての論文を書いたのも自分の生きづらさを肯定したかったからだと今ならわかる。


そんな人と違うことを極端に嫌っていた人間が多くの人がたどるであろう就活というレールから外れることを選んだ。

しかし僕は弱い人間なので臨床心理士になるという大義名分で大学院入試を受けるという隠れ蓑を使うという小癪な真似をした。

普通にレールを外れる度胸はなかった。

結果的に講義を受けていく中で臨床心理士は自分のためにある資格だと確信するまでのやりたいことになっていった。

勉強すればするほど自分の天職にしか思えなかった。

人の悩みを解決する仕事なんてすばらしいじゃないか。

自分と同じような生きづらさを抱えている人を救いたいと本気で思ったのだ。

だが結局この道も立たれてしまった。

しょせん僕にとっての大学院入試は逃げの手段でしかなかったのだ。

冒頭に戻るが「りょーすけ、就活しやんと大学院受けんねや~やりたいことあっていいな」

こういわれることで自分はお前らのように世間に媚を売るような奴じゃない、自分の力で人生を選択できると心の底から見下し、承認欲求を満たし、一人で気持ちよくなっていた。

周りが自分に注目していると勘違いして。


そんなドス黒い思いと共にもう一つ思っていたことがあった。


自分に自信が持てなかった僕が唯一自信を持っていたことがある。

それは、自分と関わってくれる友人、先輩、後輩はみんな魅力的である。ということである。

大前提として僕は性善説を支持しているし、それは自分にとって都合のいい人だからでしょう?と思われるかもしれないがそういうことではない。

本当にこんな自分に関わってもらうことが恐れ多いくらいみんな魅力的で才能にあふれている。

昔はこんな自分に付き合ってくれるのが申し訳ないと思い、距離を取りまくっていたこともあったけれど、今は友達に「こいつ俺の友達やねん」と胸を張っていってもらえるように自分磨きは怠らないように気を付けている。

どこまで磨けているかはわからないけれど。そこは客観的に見て頑張っていきたい。


とにかくだ。

そんな才能あふれたみんながこういうのだ。

「やりたいこともないし、とりあえず受かったところに就職する」

なんやそれ!!

就活ってかなり人生のターニングポイントじゃない?

それをそんなバイト決める感覚で決めていいの?

多分本心にはたくさん悩んだり考えた結果そうなったのかもしれないけれどその言葉を聞いた時なんだかやるせない気分になった。

友達にではなく、そんな選択肢しか提示してくれない世の中に対して。

もちろんやりたいことをとっとと見つけてしている人も世の中にはいるけれどみんながみんなそういうわけではなく、特に自分の周りには大学は人生の夏休みと捉えている人が多かった。

そんな雰囲気が僕はたまらなく嫌だった。

遊ぶことでしか自分を表現できないような人間にはなりたくなかったし、なってほしくもなかった。

もっとそれぞれが才能を生かして自分だけの道を進んでいくことはできなかったのか?

「俺、こんな会社やと思わんかった、でも特にやりたいこととかしたい仕事もなかったし、就活もだるかったししゃあないか」

こんな風にぼやいていた友達を見てすごくやるせない気持ちになった。

人は妥協を覚えてしまったらそのぬるま湯の気持ちよさに浸ってしまう。

恐らく彼らはいつになるかはわからないけれど否が応でも自分と向き合わざるを得ない日が来る。

そのときに後悔してももう遅いのだ。

気付くことに遅いも早いないとは思うけれど、失った時間はもう戻ってこない。

そんな人を僕は増やしたくない。


ひとりで今まで向き合ってこなかったことと対峙するのは正直難しい。

考えが自分の常識の範疇にしかないから。

そんな時に自分がその常識の枠を外してあげられるような存在になりたいと思っている。

あくまで考えるのは個人。

けれど思考のお手伝いくらいはできるはずだ。


だからせめて、みんなが自分だけではどうしようもない悩みに直面したとき、助けてあげられるような人でありたいと思う。

そのために今は本を読んで知識を増やしたり、幅広く経験する時間に充てたい。

人の在り方、ゆたかさにアプローチできる人であろう。

どんな才能も適切に生かせる場所があって、それを発揮し分かり愛える世の中になることを切に願う。

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