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「個性」ってなに?

ナンバーワンにならなくてもいい、
もともと特別なオンリーワン

この言葉に勇気をもらった人って多いと思います。

ただ、自分が親になってみて、子どもを教育する立場になったとき、この言葉がご自身の言動を縛ってしまっていたりもしませんか?

「個性の尊重」というけれど、どこからどこまでを「尊重」したらいいのかがわからない。

ここでこの行動を制限することは、個性を尊重していないことに繋がってしまう?
えー、どうなんだろう?わからない!

というループに入ってしまっている人や、入ってしまった人って少なくないかと思います。

例えば、
屋内で本を読むことが好きな子に対して
「子どもは元気に外で遊ぶものだ!外で遊べ!」
と言うことって、「個性を尊重していないなー」
と思うかもしれません。

一方で、あいさつをしない子に対して、
「あいさつをしなさい」と言うことは、個性を尊重されていない、とはあまり感じないかも。
むしろ、
「うちの子はあいさつが苦手なんです。強要しないでください」と言っている親を見たら、
「甘やかしすぎだろ、、、」って思ってしまうのでは?

この、
「屋内で本を読むことが好き」という特徴と
「あいさつが苦手」という特徴の間にはどんな違いがあるのでしょう?そこに、「個性」というぼんやりとした言葉の核心があるような気がします。

僕は、色々な方と子育てとかについて面談する中で、
「個性の対義語は没個性じゃなくて、社会性だよ」とよく言っています。

なんだか世間では、子どもの個性を伸ばそう、みんなの個性を受け入れよう、多様性だ!
と言われておりますが、
これって何も「その子のあるがままを100%受け入れましょう!受け入れないのはダメ!」と言っているわけではありません。

たしかに、その子の中にキラリと光る「個性」(本が好きとかね)は大事にしたいけれど、なんでもかんでも「個性」として受け止めちゃうと、ゆくゆく困るのはその子本人です。

であるから、ダメなことはダメと言わなきゃいけないし、人に不快な思いをさせる振る舞いばかりをしてしまうようなら、「その子に合わせた」正しい導き方で望ましい行動を教えましょう。ってことなんです。

この、「その子に合わせた」というところが「個性の尊重」なのかなと思います。

「いやいや違う!人に不快な思いをさせるのがうちの子の個性だ!」と言ってしまう人はいませんよね。いるとしたらだいぶと混乱されていると思います。

もしもこのように混乱されている人がいるのなら、それは「個性の対義語が没個性」だと思ってしまっているのかも。

「『あいさつが苦手』という個性を取り上げてしまうと、この子が何者でもなくなってしまうじゃないか!(没個性化してしまう!)」
という思いが強くなり過ぎているのかもしれません。

そんな人には、「いえいえ大丈夫。あいさつが苦手な子があいさつができるようになっても、個性はなくなったりしませんよ。それは社会性が身についたに過ぎませんよ。」と言いたいです。

「『あいさつが苦手』というのはわかるけど、社会に出たらあいさつは大事、だからちょっとずつで良いからあいさつができるように頑張ろう。」
そういう風に思ったり、お子様に伝えることって自然だと思います。

今は小さなお子さまだって、いつかは大人になって社会に出るわけですから、最低限の社会性というのはどんな子であっても必要なわけです。

どうやらこの「個性」という言葉が
•独特の感性を持っている、とか
•ある特定のことに没頭できる、とか
「その子ならではの気質」とか「芸術科気質」みたいなものと紐づけられて語られがちなところが、「個性とは」をあやふやにしているのだと思います。

そういった特徴はあくまで「芸術科気質」という枠に入れておいて、あくまで「社会性」の対義語として「個性」というのを位置付けておくと、頭の中が整理されていいのかなと思いました。

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