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【#11ネパール】優しい国民

ネパールに行く飛行機では、両横がインド人だった。肘掛けが彼らに使われたのは言うまでもない。腹痛には回復の兆しがあったが、代わりに熱っぽさを感じていた。

ネパールに到着すると、寒気までしてきた。ここからネパール出国まで頭痛、咳、喉の痛みといった風邪症状に悩まされることになった。

ネパール行きの飛行機

首都のカトマンズ市街にある宿に着いて、宿のチェックインをすると料金は後払いでいいと言われる。珍しいことだった。普通は、事前にクレジットカードで払うか、チェックインのときに払っていたからだ。

これまでの経験からお金を払う前に商品やサービスを受け取ってはいけないという教訓を得ていた。例えば、露天で食べ物を買うなら先に料金交渉をしないと、食べた後ぼったくられても言い値で払わざるを得ない。

インドの影響もあり、お金のやりとりには警戒してしまう自分がいたが、この宿の主人はとても親切で裏の顔はなかった。ここはネパールなのだ。

カトマンズの街は細い路地がたくさんあり、人通りも多い。貴金属、服、靴、絵画などの小さな商店が並んでいて、細い路地を抜けると、ひらけた空間があり、大きめの寺院がある。今まで見たことのない街づくりで散策が楽しい。これがカトマンズらしさなんだなと思う。

細い路地

道はインドに比べるとはるかにきれいで、ゴミはあまり落ちていない。ただ、歩道が古く色あせているので田舎っぽさを感じさせる。排気ガスのためか、空はいつでも曇って見える。身長が低く少数民族といった顔立ち、服装の人が多く、インド人とは違いむしろタイ人に似ていると感じた。

開けた空間

カトマンズ中心部のダルバール広場や、古都バクタプルにも行った。赤茶系の色を基調としていて、どの寺院も趣があった。歴史を感じさせる寺院に囲まれていると、中世にタイムスリップした感覚になる。

日本でも、ある通りには歴史的な建物が残っているということはあった。天領の倉敷や山口の城下町長府がそうだった。だが、バクタプルは街全体が赤茶系で統一されている。

ダルバール広場

実際、ネパールに対しては、貧しい発展途上国でシェルパのように登山客を相手にして観光業で稼ぐという印象しかなかった。しかし、外食の物価も高く日本と同じくらいはしたし、街を歩けばヒュンメルやノースフェイスといったアウトドアブランドの服を着ているネパール人をよく見かけた。

カトマンズとフェワ湖で有名な第二の都市ポカラにも行ったが、ネパールを貧しい国だとは思わなかった。

古都バクタプル

むしろ都市化していない分適度に人付き合いもあるし、寺院や街並みを見れば文化的にも豊かな国だと感じる。年配の人でも英語は流暢だ。もしネパールに来ていなければ、ネパールは南アジアの貧困国というイメージしか、もてなかっただろう。

確かに統計的には貧しいのかもしれないけど、この国には多くの魅力があり対外援助を必要としているようには見えなかった。

また、ネパール人はとても親切だ。ポカラに行く長距離バスでは、ローサンという30代の男性と横の席だった。最初に軽く挨拶した後しばらくは話さなかったが、俺が何か大したことないことで話しかけると、向こうからどんどん話しかけてきた。打ち解けると積極的になるところは日本人と似ている。

ポカラ行きの長距離バス、早朝に出発した

ポカラ在住で韓国のアルミニウムの企業で約十年働いたことがあるという。ポテトチップスや持参したフルーツを分けてくれたり、休憩のたびに声をかけてくれた。ポカラが近づくと分かりやすく嬉しそうで、ここはセティ川、ここは軍事施設とか説明を始めたのも面白かった。

帰りのバスでもネパール人と横だった。その女子学生も同じように、自分からは話さないが俺が話しかけると堰を切ったかのように話し始めた。二人ともバス降り場から宿までタクシーを使うなら、相場がいくらかを教えてくれた。

ポカラでヒマラヤ山脈が見れなかった俺は、カトマンズに戻ったあと、ヒマラヤを見ることができるナガルコットという場所に向かった。結局、天候不良で見れなかったが、その帰り道が問題だった。

その日はホーリーというヒンドゥー教のお祭りがあり、公共交通機関の多くはストップしているという。行きはたまたま乗り合いで行くタクシーがあり、割り勘して来ることができたが、帰りはどうするか。

僻地すぎてタクシーもない。最初はなんとかなるだろうと歩いて帰っていたが、あまりに遠い。1時間ほど歩いて、まだあと2時間は最低でも歩く計算だった。

ヒッチハイクも成功しない。疲れて景色を楽しむ余裕もなくなり無心で歩いていると、一台の車が寄ってきた。「どこまで行くんだ?」と男は言い、俺は「バクタプルです」と答えた。

すると、「乗れよ」と言うから、「いくらですか?」と聞いたら、「無料だよ。助けたいんだよ」と言われた。車で移動する快適さを存分に味わった。インドだけではなく、外国人と見るや何とかお金を取ろうとする人にたくさん会ってきた。

だが、このネパール人は違った。この親切を俺は一生忘れないだろう。忘れられるはずがない。

ヒンドゥー教の祭り:ホーリー

残念ながらネパール料理は俺の口には合わなかったが、ネパールの国民性は大好きになった。親切を親切として素直に受け取る余裕が生まれて、インドの緊張がほぐれていった。

そして、俺は中東でありコーカサス地域の旧社会主義国であるアゼルバイジャンへ深夜便で向かった。

ネパール国民料理ダルバード、塩辛かった
ネパールのトリブバン国際空港、体育館のような内装だった


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