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「元バンドマンの半分は黒歴史で出来ている」サトウ・レンVer.

体の約60%は水で出来ている、なんて話を聞いたことがある。
正直、信じていいものか微妙なところだ。
海を漂うあのクラゲは95%、野菜のキュウリは90%が水で出来ているとの事。
たった5%でここまで一気に進むのだ。
このペースでいけば60%の人体なんて、もう、カッサカサじゃなきゃおかしい。
信じてたまるか。“通説”ほど疑わしいものはない。天動説しかり、あと、えーと、……天動説しかちょっと今は出てこないんだけど、とにかく信じられない。僕は信じない。

(※ここまでが裕らくさんの下書き部分)

 

 天動説を疑ったガリレオのように、誰に糾弾されようと、ぼくがこんな馬鹿げた説を信じることなんてない。

 ない、と信じていたのに……。

 最初にバンドマンがモテるなんて吹聴し出したやつは誰だろう。もし会う機会があれば、そいつの胸倉を掴んで「お前の価値観をすべてのバンドマンに当て嵌めるんじゃねぇ」と説教してやりたい気分だ。バンドマンだろうがサッカー部だろうが帰宅部だろうが、モテないやつは永遠にモテないのだ。

 誤解のないように言っておくが、モテるやつはモテる。実際、うちのバンドの元ギターは彼女が途切れたことがなく、彼女とのデートを別の用事と偽って練習をサボって、メンバー内の憎しみを一心に集めていた。最終的にはメンバーの好きだった女の子を奪ったという事件(厳密に言うと付き合っていたわけではないので、奪ってはいない)があり、大喧嘩に発展し、そいつは逃げるようにぼくたちの前から姿を消した。

 女に現を抜かしやがって、と見下し半分、でも残り半分は羨ましくて羨ましくて仕方なかった。まだ高校を卒業したばかりの十八なのだ。それくらいは許して欲しい。愛だの恋だのよく知りもしないくせに、愛だの恋だの歌っていることへの焦りもあったかもしれない。自分でも気付かない内に、指をくわえておもちゃを眺める子どもみたいな表情になっていたのかもしれない。

 小馬鹿にするような顔の、メンバーで、中学の頃からの友人のSくんが、
「童貞みたいな顔しやがって」
 と肩を叩いた。悪いか、童貞で。童貞と知っててこういうことを平気で言う、こいつがぼくは大嫌いだ。いまだにこいつは地元に帰れば最初に会いたくなるやつで、それを一番の楽しみにしていることも、腹が立つ。

「うるせぇ」
「あの子はどうなんだよ?」

『好きです。あなたの歌声が……そしてあなたが』
 ふいにその言葉がよみがえる。

 Uさんはぼくよりも二歳年上の会社員で、優しい声音が印象的な女性だった。小さなライブハウスで、ぼくたちの曲のために足繁く通ってくれているのが分かり、お互いに声を交わすようになり、ぼくたちに初めてのファンという確かな実感を与えてくれた。音楽が好きだ、という彼女は自身も音楽活動をしている、と言っていたが、その内容をぼくたちには教えてくれなかった。

「そんなんじゃない」苛立って、すこし強い口調になってしまったことを後悔する。
「悪かったって」
 とSくんが苦笑いを浮かべた。

 ファンに手を出すやつは下の下という感覚が、間違いなくあの頃、ぼくたちの周囲で共有されていた。

 だからぼくは自分の感情を必死で振り払おうとしていた。

 ぼくたちがふたりで何度か会っていたことをSくんには言わなかった。言ったとしてもきっと彼はからかうだけで、怒りも軽蔑もしなかっただろう。だけど自分の安っぽいプライドがそれを許さなかった。

 ファンだからどうだ、とか関係なく、ぼくは彼女と一緒に過ごしてみたい。愛、という言葉を胸の内に浮かべないようにしながら、ぼくはそんなことをずっと考えていた。

 そして十九歳の誕生日を前日に控えた、夏の暑さが明るさを残す夜の公園で噴水のへりに彼女と並んで座りながら、彼女に伝える言葉を考えていた。

『初めてあなたの歌声を、その詞を聴いた時、私のために歌ってくれたように思えて仕方なかった』

 それは彼氏から別の男へと心変わりしていく女性の心情を、よく分からないなりに書いてみた曲だった。
「……ありがとう」

『好きです。あなたの歌声が……そしてあなたが』
 彼女はぼくの肩に頭を乗せ、そう囁くように言った。

「ぼくは――」
『だけど私には一緒に暮らしている相手がいるんだ』彼女が、ちいさく笑った『……ねぇ、もし、そう言ったら、どうする?』

「何、言って――」
『歌詞なら浮気相手が後ろから抱きしめてたね。最初にして唯一のチャンスだと思うけどなぁ』

 立ち上がって一度ほほ笑みかけた後、彼女が、ぼくに背を向けながら言った。

 ぼくはその場から動くことができなかった。

『ごめんね。困らせるわけでも、馬鹿にするわけでもなかったんだ。それだけは信じて欲しい』

 振り返ったその表情はどこまでも柔らかで、『じゃあね』と手を振ってぼくに背を向ける後ろ姿はどこまでも遠く感じられた。

 ぼくはその背中を、ただ見ていることしかできなかった。

 彼女との物語には、実はまだ続きがある。

 数年後、音楽活動を辞め元バンドマンという肩書きだけが残ったぼくは、過去の記憶にたまに浸りつつも、ほとんどは忘れ、結婚し食品メーカーの営業として闘う日々を送っていた。

 ある夜、テレビで音楽番組を見ているとぼくと地元が同じだという二人組のバンドが紹介されていた。二人の顔が映し出された瞬間、ぼくは思わず息を呑んだ。

 男女二人組の彼らを、ぼくは知っている。年齢を経ても、それがすぐに誰だか分かった。

 あの日ぼくの前から姿を消したUさんと、
 かつてぼくたちバンドの前から姿を消した元ギターだった。

 二人の間にほのかに漂う雰囲気に気付いたぼくは、
 ひどい息苦しさを覚えた。その渇きに耐えられず、膝を付くその姿を見ながら妻はどう思っただろうか。しかし言うわけにもいかない。

 これはぼくだけがひとり悩み苦しまなければならない問題なのだ。
 この時だけ、妻の存在を忘れて、ぼくは、かつてのぼくに戻っていた。

 夢ってなんだ……? 愛ってなんだ……?

 その真実がぼくにその言葉の意味を教えてくれることなく、迷った挙句に見つけたのは、体の約60%は水で出来ている、という“通説”への自覚だけだった。

 人間って、こんなにもカッサカサだったのか……。

                             (了)