見出し画像

そこにわたしはいなくても【エッセイ】

今日はちょっと小説を書く時のことについて語りたい、と思っているのですが、とはいえ私なんぞが何を偉そうに、という想いがないわけでもない。好きな小説を読んだ時の想いはためらわずに書くことができるのに、自分の小説の話になると、別段、キーボードを打つ指が重くなる。私にweb作家という肩書きは過分だと思うし、小説は書いているよりも読んでいるほうがやっぱり楽しい、と思っている面もあるからだ。まぁそれでもこのnoteという場で一年近く小説を書いてきて、小説を描くことの愉しさに気付かされた人間でもあり、もしも小説を書くことに興味があるけれど二の足を踏んでいるひとがいるなら、手招きしたいくらいだ。

と、まぁそれはさておき、

今回、急に語りたくなってしまったことは、以前にもすこし触れた記憶があるのだが、ときおり議論が活発になるイメージもある、

小説を書くのに体験は必要か?

ということについて。ちょっとここで私見を述べたくなってしまったので、すこし付き合ってくれる嬉しい。

最初に私の考えを述べるなら、

長所を増やす、という意味ではあったほうが良いのかもしれないが、無くたって別に構わなくて、あることが足枷になる場合もある。

例えば医療小説を書きたい、と思った時、医者(あるいは医療に携わる職業)として現場に携わったことのある者は最大のアドバンテージを持っていることになる。実際、「現役医師や元医師が描く」という触れ込みの小説は多数あるし、私の好きな医療小説を挙げても、海堂尊『チーム・バチスタの栄光』、久坂部羊『テロリストの処方』、渡辺淳一『白き手の報復』、帚木蓬生『閉鎖病棟』……といわゆる外野には分かりにくい世界のことを、時に虚構を織り交ぜながら現場にいた人間のリアルな眼差しで描かれるところに魅力があることは間違いないはずだ。

そういう意味では、リアルな雰囲気を体験として知っている、ということが、とてつもない長所であることは間違いない。

とは言っても勘違いしてはいけないのが、小説のすべてが体験から成り立っているわけではなく、基本的には想像や知識で補わなければいけない部分が大きい。

先ほどの医療小説の話を続けるのなら、例えば書きたい作品が医療過誤や病院内での殺人事件をテーマにした法廷ミステリを描きたいとして、医療の知識があることは利点になるが、それ以外の部分、取調室や法廷の裏側まで体験として知っているひとはほとんどいないはずだ。結局は想像や知識が大事になってくるわけで、上記で挙げたような作家さんたちは体験以外でも胡坐をかかないから評価されていることは読めばきっと分かるはずだ。

個人的には一個の小説の内で体験が活かされる部分、というのは、驚くほどすくないと思っている。体験をそのまま書けば、それは日記か手記か、書き方次第ではエッセイとなる。こういう話をすると私小説はどうなる、という疑問も出てくるのだが、門外漢なりに頭を悩ませてみるなら、おそらく私小説ほど実体験に胡坐をかかない想像と描写が必要なものはないのではないだろうか、と思ってしまう。自分事を小説という虚構の中に嵌め込むのだから。

これは別に職業に限ったことではなく、もっと身近なことでもそうだ。例えば、行ったことのない場所での暮らしを書いたり、恋愛経験なんかもそうだろう。経験が役立つことも多いかもしれないが、一人の人間が体験として知れることには限りがあり、身近なことにも想像で補わなければいけないことは多く、そして身近なことにこそ〈知っている〉ゆえの足枷があるような気がする。

まず知っていることに対して嘘を吐く、というのは意外と難しい。根っからの嘘吐きで、自然な嘘を吐くことに快楽を覚えるという人間なら話は別かもしれないが、嘘だらけの世界に嘘を加えるよりも、嘘の無い世界に嘘を加えるほうが難しい、とすくなくとも私は思っている。

第二に、というか、こちらのほうが足枷になる理由としては大きいと思うのだが、〈知っている〉ことに対しては自信があるからか、どうしても視野狭窄になりがち、というのが(これまで書いてきた感覚として)ある。自信がある言葉を後で客観的に鑑みると、ひどく視野が狭くなっていると気付く。そんな経験はないだろうか?

ジャンルに関わらず、体験はあくまで小説を形作る上でのひとつの要素でしかなく、大事なのは想像と知識なのではないか、というのが私の考えで、ただ体験していない部分に繊細になりすぎると余計に不自然になりそうな気がするので、

これからも知らない世界を書く時は堂々と書いていきたいな、という話でした~。よく知らない創作論について、知ったようにちょっと固い文章で書いてみたら疲れてしまいました~。

小説は読む人それぞれの中で優劣は決まってしまうものだ、と思っています。すべてが優れている、とは残念ながらならない場合が多いし、そして私の中にも優劣というものは存在します。ただ同時に、物語る(創る)、という行為は等しく尊いとも思っていて、優劣を競い合いたいひとにとってはまた別のベクトルがあると思うのでここでは語りませんが、趣味として小説を書きたいけれど二の足を踏んでいる、という方は、ぜひ一度小説を書いてみませんか?

こんな商業活動もしていなければなんら実績もない人間が偉そうに創作論を語って、気軽に小説を書く、そんな私を許してくれる(……? もしも怒ってたらごめんね、と心の中でひと謝り)周囲に恵まれ、noteでそんな愉しさを見つけてしまった私は、どうも、ね。ここで小説を書きたい、というひとを、もっとひきずりこみたいわけですよ。