【増補改稿版】しあわせの歌を口ずさむ


 窓越しに小雪がちらついている。この時期になると決まって思い出すのが、掠れているけれど、祖母らしいやわらかさを残す歌声だった。祖母が亡くなった四年前には、自分に妻がいる未来なんて想像すらできなかった。

「ねぇ、その歌、なんていうの? 洋楽なんて聞くんだ?」
 と、さっきまでパソコンの画面と格闘していた妻がぼくのほうに目を向けていることに驚く。最近は、株だ、ビジネスだ、とぼくにはさっぱり分からない趣味に没頭している。なんか似合わないなぁと妻に対してそんな風に思ったりすることもあるけれど、険悪になっても仕方ないので口には出さない。

 無意識に口ずさんでいたことにすこし恥ずかしくなりつつも、
「あ、いやタイトルは知らないんだけど……」と答えたぼくに、
 妻は「ふーん」と気のない返事をした。

 もともと深い意味があって聞いたのではないのだろう。妻はふたたびパソコンの画面へ、ぼくにはまったく分からないビジネスの世界へと意識を戻していく。

 今度は口に出さないようにしながら、運転席で耳をそばだてていたあのすこし掠れた歌声に、ぼくと祖母の秘密の遠出に、想いを馳せる。



 市内でひとり暮らすぼくのもとに、初めて祖母が訪ねてきたのは大学を卒業して最初の冬、突然のことに驚いていたぼくに向ける祖母の表情は何故か申し訳なさそうだった。

「元気にしてた?」

 すこし舌足らずでゆっくりとしゃべるいつもの祖母らしい口調にほっとする。「元気にしてた?」と言いたいのはこっちのほうだった。去年、祖父が死んだ時の落ち込みようは激しく、実家に帰るたびに暗い表情つづきだったので、ぼくのほうも心配していて、母とあまり折り合いが良くないこともあり、もしかして家出したのでは、という気持ちがないわけでもなかった。

「どうしたの、急に?」

「ごめんね。実は送ってほしいところがあるんだ」さらに急な申し出にぼくはただただ困惑していた。何故、ぼくなんだろう。母に頼めないのは分かるけれど、別に父だって免許は持っているし……と正直に思ったままの気持ちを伝えると、「うーん。さすがにお父さんを連れていくわけにはいかないし、お母さんに言ったら怒られそうだし……」
 と、父と母にはこのことを黙っていて欲しいと言われてしまった。

 そしてぼくは理由を教えてもらえないまま、祖母から渡された地図と、住所の書かれたメモを頼りに目的地を目指すことになった。マイペースだなぁ。祖母らしいと思うけれど、せっかちな母なんかは、のんびりとしたこの佇まいが許せないみたいだった。

「あれが祖母さんの魅力なんだけどなぁ」と祖父は母の態度に、よくぼやいていた。

 ぼくが小学生の頃は、よくふたりっきりで出掛けていて、クラスメートから、お前の祖父ちゃんと祖母ちゃん、この前見たよ、と言われて、気恥ずかしかった想い出がある。祖父母がふたりで外に出掛けている姿はぼくの周りではあまりなく、めずらしかったのだ。どこへ行っていたのか、と聞くと、大体、映画館、という答えが祖父から返ってきた。

 デートに行ってたの、と楽しそうに笑う祖母の言葉から逃げるように部屋へと戻っていく祖父の気恥ずかしさを隠す背中が好きだった。

 ぼくたちが目指したのは隣県の小さな町で、免許を取ったばかりで運転に不慣れだったこともあり、途中の急勾配な山道が不安で仕方なかった。ようやく辿りついた町は長閑、というか、寂しい感じがした。その町でひと際目立つ大きな一軒家がメモに書かれていた場所だった。

「へぇ、地元の名士が住む、って感じの家だね」
「そうね。なんか、らしいなー」普段ののんびりとした口調のままだけど、その中にわずかな緊張と不安が混じっているような気がした。「実は、私も初めて来るの……」

 ひとりで行きたい、と祖母に言われ、ぼくは車の中でただぼんやりと音楽を聴いていた。古い洋楽が鳴っている。詳しいわけではないけれど、洋楽が好きだった祖父の影響で、何人かのアーティストは知っていて、今流れているのもその中のひとりだった。祖母も祖父の影響で洋楽には詳しく、「お祖父ちゃんのせいで馬鹿みたいに詳しくなっちゃった」という言葉を何度聞いただろうか。

 祖母は思ったよりもすぐに戻ってきた。

 その表情は明らかに険しかった。温和な祖母っぽくない、というよりは、初めて見る祖母がそこにいるような感じがした。

 その帰り道、気まずい空気がずっと車内に漂っていたけれど、理由を聞くことはできなかった。自宅近くまで送ったその別れ際には、いつもの温和な祖母に戻っていた。

 翌年も、翌々年も、同じような時期に、同じように祖母がぼくのもとを訪ねてきた。その年だけ何かが違う、というような特別なことはなく、ただ祖母を両親も知らない場所へ送り迎えするだけ。その日の祖母の表情はいつも険しい。

 すこしだけ変化が現れたのは、祖母との恒例行事ができてから、四年目の冬だった。いまだに途中の道を全然覚えられないぼくと違って、祖母は道順を完璧に把握していて、ほとんど地図を使うことなく、口頭で案内してくれる祖母に頼りっぱなしだった。

 その年は、すこしだけ違った。

 帰り道の祖母の表情が和らいでいた。いやその言い方は正しくないのかもしれない。表情から険しさは取れていたけれど、何か違和感を覚えるような表情だった。今回こそ祖母に聞こうと思いながらも、結局、聞くことはできなかった。触れてはいけない。祖母の表情にはそう思わせる何かがあった。

 五年目の冬、明らかに変わった。

 もう五度目になると見慣れた気もしてくる大邸宅に入ったまま、祖母は一向に戻って来なかった。さすがに焦れてしまって、家の呼び鈴でも鳴らそうかな、と真剣に考え始めた頃、ようやく祖母が家を出てきた。

「ごめん、ごめん」

 そう言って朗らかに笑う祖母の表情はとてもたのしそうだった。帰り道の祖母は驚くほど口数が多く、ときおり嬉しそうに歌を口ずさんでいた。英語の歌詞だけれど、聞き馴染みはない。祖父と祖母が好きな洋楽なら大体知っているけれど、この曲は一度も聞いたことがなかった。

「ねぇ、いつも誰に会いに行ってるの?」

 今日こそは聞ける。帰りに寄った道の駅の駐車場で、ぼくはずっと気になっていた疑問を口にした。

 祖母はすこし悩んだ素振りをした後、
「今はひとりで暮らしている人なんだけど、死んだお祖父ちゃんの昔の恋人なんだ」と言った。
「恋人……なんでそんな人と会うの?」

 最初に口から出たのはそんな言葉だった。ぼくは気配りに長けた人間ではないけれど、さすがにこれは無神経だったかもしれない。

「彼女ね。顔に大きな傷があるの」
「傷……?」
「うん。私のせいで起きた事故が原因で」祖母が財布を開いて、一枚の写真を取り出す。色褪せた一枚の写真に、三人の姿が写っている。その内のふたりは明らかに祖父母だと分かる。もうひとりの女性が、祖母の会いに行っていたひとなのだろうか。三人の中でもひと際目立つ雰囲気の美しい女性……。ただ綺麗だけど、近寄りがたくて、すこし冷たい雰囲気だ。「彼女ね。私たちを恨んでるし、憎んでるの」

 転落事故がきっかけで頬にできた裂傷は、彼女の顔に今でも消えることなく残っている、と祖母は教えてくれた。周囲からは何度も整形手術を勧められているそうだが、頑なに拒んでいるらしい。

 事故や彼女の怪我について、祖母はそれ以上、何も教えてくれなかった。
「私たち、って……」
「うん。もちろん私とお祖父ちゃん」
「祖父ちゃんまで……、なんで?」
「私と結婚したから」
「お祖父ちゃんはその怪我が原因で……そのひとと別れたの?」

 こんなことを聞けば、祖母は傷付くに決まっている。それでも気付けばそんな言葉が口から出ていた。違う、と断言して欲しかったのだろう。

 だけど祖母は、
「違う……と言いたいけど、もしも怪我がなかったら、あの人の最期に寄り添っていたのは彼女なんじゃないか、と思わなかった日はない……わ」と答えた。

 当然の答えだった。祖母の立場だったら、そう答えるしかないに決まっている。結局、ぼくの言葉は、さらに祖母を傷付けただけだった。

「ごめん……」と謝るぼくの気持ちを汲んでくれたのだろう。

 祖母は首を横に振って、
「『彼女とのことは関係ない』ってお祖父ちゃんははっきり言ってくれたし、私はそれを信じてる。私、あの事故の後、ふたりとは会わない時期が続いたから、合わせる顔もなかったし……。だからお祖父ちゃんと再会した時には、お祖父ちゃんも彼女と離れてしまった後だったの」

「本心だった、と思うよ」ぼくは祖父の顔を頭に思い浮かべながら、そう言った。もちろん祖父の本心なんて分からない。だけどそうであって欲しい。ほとんどぼくの願いみたいなものだった。

「うん。私もそう思う」祖母は一度だけにこりとほほ笑んだ後、表情を曇らせた。「だけど彼女に信じてもらえる話じゃない。結婚してすこし経った頃だったかな。私のところに、頻繁に電話とか手紙が来るようになったの。あの事故わざとだったんじゃないか、結婚は私を馬鹿にするためか、って……でもすこし経つと、来なくなったから、もう面倒くさくなったのかなって思ってた」

「思ってた、って?」

「手紙が届いたの。お祖父ちゃんの葬式が終わってすこし経った頃だったかな。長い間会っていなかった彼女の今の住所が書かれた手紙。それまで知らなかったんだけど、お祖父ちゃんは毎年冬になると、彼女のもとへ謝罪に赴いていたらしいの。もう嫌がらせはやめてくれ、って。自分のことはいくらでも罵ってくれていいから、って」

 言い淀みながらもなんとか言葉を紡いでいく祖母を見ていられず、
「聞いたぼくがこんなこと言うのも変だけど、無理に言わなくてもいいよ」と伝えると、
 祖母は首を横に振り、
「大丈夫。言いたいから言わせて」
 と答えた。

「あの人が亡くなったんだから、今度はあなたに引き継いで欲しい。あなたにはその義務があるはずだ。一生、許さない。勝手に終わらせてたまるか、ってね。バス停から徒歩での距離がすごく遠いのもあって、誰かに運転を頼まないといけないな、と思ってたんだけど、さすがにお父さんやお母さんには言えなくてね」そう言って祖母が握らせてくれたのは一枚の封筒だった。「ごめんね。いつも迷惑かけて」

 中にはかなりの額のお金が入っていた。いつもガソリン代程度のお金は貰っていたけれど、さすがにこんな額を貰うわけにもいかない。

「いいよ。こんなに!」
 と返そうとするが、祖母は受け取ろうとせず、「まぁまぁいいから」と封筒を握ったぼくの手ごとポケットに突っ込む。

 確かにこんなことを父や母には頼みにくいだろう。というか正直に言えば、ぼくも嫌だ。恨みを持ち続ける相手に謝り続ける祖母の姿を想像するだけで、胃がきりきりとする。冷たい言い方だけど、無視すればいいのに、と思ってしまう。ぼくはその事故を知らない。だから勝手に言えるのかもしれないけれど……。

 家族、というフィルターがかかっていることは否定しない。

 それでもやはり腑に落ちない感覚を抱いてしまう。理解はできるけれど、納得はしたくない……そんな感覚。祖父母の人となりを知っていなければ、納得できたのだろうか。

 祖母の、緊張、不安、表情の険しさ……。その疑問はすべて解けた。
 だとすれば……、
 だとすれば何故、今日の祖母の表情はこんなにも晴れやかで、たのしそうなのだろう。

 祖母が、さっきまで口ずさんでいたあの歌をまた口ずさむ。
「今日ね。彼女の部屋で、この曲が流れたの?」
「なんて歌?」
「私も実はタイトルを知らないの……ううん。知りたくないの」
「どうして?」
「この歌、お祖父ちゃんが私と彼女に教えてくれたの。すこしだけ秘密を残して。ねぇ知りたい?」

 それから祖母はゆっくりと運転するぼくの横で、回想するように語ってくれた。それはたのしかった日々、先ほどまでとは色調の違うしあわせだった頃の記憶。あの日に戻りたいという未練がましさは感じられない。ただ胸に秘めていた愛おしさを淡々と小出しにして、さっぱりとしている。

 語られる日々のかすかなにおいさえ知らないぼくの脳裡にもくっきりと情景が浮かぶほど、なめらかな口調だった。

 女学生時代の同級生だった祖母と彼女は行動を共にすることが多く、祖母にとっては口に出すのは恥ずかしいけれど、唯一無二の親友という表現が一番正しく思えるような相手だったらしい。就職先も同じになり、月末になると手渡しの給料袋を携えて、まずはふたりで映画を観に行くのが日課になっていたそうだ。そこで偶然関わり合うようになったのが、その映画館に仕事をさぼって通い詰めていた祖父で、確かに祖父ならやりかねない。それぐらいの映画好きだった。祖母の話を聞きながら、昔、祖父に『エデンの東』について延々と語られ、観たこともないのにもうすでに何度も観たような感覚に陥ってしまった、ぼく自身の懐かしい記憶までよみがえってしまった。

「お似合いだった。仲睦まじいふたりの姿に疎外感を覚えたこともあるわ」

 こんなことを言っていても当時のふたりの関係は良好だったのだろう。祖母の表情を見ていれば、一目瞭然だった。

 祖父が、ふたり一緒に下宿先に誘ってくれたことが一度だけあったらしく、その日、今一番大好きな歌なんだ、と祖父が歌って聴かせてくれたのが、祖母の口ずさんでいたこの曲だったそうだ。

「これ、なんて曲? 多分私か彼女のどっちかがそう聞いたと思うんだけど、多分聞いたのは彼女だった、と思う」祖母はすこし寂しそうだった。「私は彼女よりも躊躇の多い人間だったから」

 また口ずさみはじめた祖母の歌声は祖母特有のすこし掠れた声を残しながらも、明瞭に、そして愛情がこもっていた。

「しあわせの歌」

「しあわせの歌?」

「うん。そう、しあわせの歌。お祖父ちゃん、そう言って笑ったの。本当のタイトルは教えてくれなかったけど、知らないままお祖父ちゃんのところへ行こうと思っているから、私にとってのこの曲のタイトルは永遠に『しあわせの歌』。どう綺麗な歌でしょ」

「なんか、らしいね」

「恥ずかしがり屋な癖に、気障だからね。ふふっ。お祖父ちゃんに向こうで会えたら、本当のタイトル教えてもらおうかな」

「それはまだ早すぎるよ」という言葉に、そうね、と祖母が頷く。

「今日さ。彼女とじっくり話し合ったの。出会ってから、今までのこと。実は去年、『私、もう永くない、と思う。だから来年からもう来なくていい』って言われたの。私が、どう思ったか分かる?」

「どう、って?」

「あぁもうこのひとと会わなくていいんだ。嬉しくて仕方なかった。ずっと私を苦しめてきたこの人と、ようやく会わなくてすむ。そんな風にしか思えなかった。最低な考えだと思う」

「そう考えるよ。誰だって。気にしなくても――」

「ううん」祖母は首を横に振って、その言葉をさえぎる。「そう言ってくれたとしても、やっぱり自分自身が許せないの。こんなにひどい自己嫌悪があるんだって、すごく自分が嫌いになった。昔はあんなに仲が良かったのに……一緒に暮らしたこともあるくらい。なのに完全に関係が切れることを喜んでいる自分がいるなんて。やっぱり悔しいし、嫌だった。だから今日、しっかり話そうって覚悟を決めたの」

「そうだったんだ……」

「今日、遅かったでしょ。戻ってくるの。嬉しかったこと、悲しかったこと、嫌だったこと、苦しかったこと……。今言った正直な気持ちも全部伝えた。途中、子どもみたいになって口喧嘩もした。言葉を突き合せれば解決するって思えるほど若くもないのに、ね。もちろんあの事故の話もした。学生の時から知っている仲だからこそ、子どもみたいな喧嘩で解決できるかもって思ったのかもしれないね。馬鹿みたいでしょ」そしたらね、と言った後、祖母がひとつ息を吐いた。「……音楽が聴こえてきたの。いいえ、彼女の部屋に入った時から音楽は聴こえていたの。彼女が昔から愛用しているラジカセから、色々な曲が小さめの音量で流れていた。ただそれまでは気にも留めていなかったの」

「うん……」

「あ、しあわせの歌……って口喧嘩中に言う言葉じゃないよね。自分でもなんで声に出しちゃったんだろう、って思うけど……。当然彼女に『急に何言ってるの!』ってすごい怒鳴られちゃった。でも彼女も、しあわせの歌っていう言葉、覚えてたみたい。『……そっか昔、みんなでそう呼んでたね』って。お互い落ち着いちゃってね。天国のお祖父ちゃんが……あぁお祖父ちゃんじゃあ天国行けないか」と祖父に想いを馳せたのか、祖母は、くすりと笑った。「まぁ天国に行こうが地獄に行こうが、大好きなお祖父ちゃんだったことは変わらないけどね……。うん草葉の陰から私たちの喧嘩を見ていたお祖父ちゃんが私たちの喧嘩を止めてくれたのかもしれないね。ふたりでそのまま聴き入っちゃってね。彼女は当然録音しているぐらいだから、本当のタイトルは知っていると思うんだけど、私にそれを教えようとはしなかった」

 祖母が歌うその曲はどこまでも優しく、祖父が〈しあわせの歌〉と言った意味がよく分かるような曲調だった。きっと祖父はこの曲が大好きで、そして彼女と祖母へのそれぞれの想いがあったからこそ、ぼくはこの曲を知らなかったのだろう。

「『しあわせの歌だね』って彼女が言ってくれて、『うん。しあわせの歌』って私が返したんだ。別に何ひとつしあわせを感じられるような状況じゃなかったのに、ね。曲が終わるとラジカセを止めて彼女が私に聞いたの?」

「何を?」

「『ねぇなんで顔の傷直さなかった、と思う?』って、……私がうまく言葉にできなくて黙ってたら、『内緒』って言われて、うん……」

「内緒、か……」

「お互い口論していることがばかばかしくなったんだろうね。それからはふたりで苦笑いを浮かべながら、ぽつぽつと昔話をしたんだけど……ちょっとだけあの頃に戻ったみたいだった。もちろん良い記憶ばっかりじゃなくてつらい記憶も多くて、今更あの頃に戻りたいなんてひとつも思わないんだけど……。でもやっぱり記憶を過去に戻すなら、彼女とじゃないと駄目なんだって、他の人では駄目なんだって、すごい実感した」ぼくは頷くことしかできなかった。「帰る時、『ねぇ、ありがとう。そしてごめん』って言われたんだ。ありがとうもごめんも、あの事故の後、初めて聞いた言葉だった。それで最後に言ったんだ。『寂しかったんだ』って」

 繋ぎとめる方法が彼女にはそれしか思い付かなかったのではないか。

 他人の本心を読み取るなんてできるはずがない。それも会ったことのない人の本心なんて。だからこれは想像しただけだ。合っている保証はない。だけどこの想像は外れていない気がする。

 そして祖母は、ふたたび歌い始める。その優しい曲と歌声に耳をそばだてながら、ぼくは実家を目指した。両親はぼくが祖母を送り迎えしていることなんて知らない。別に知られたところでいいじゃないか、と今までは思っていたけれど、今は絶対に知られたくない気分だった。家が見えてくる頃には、その歌声は止み、祖母は目を瞑っていた。

「もう着くよ」と声を掛けると、祖母が目を開け、ちいさく微笑んだ。「ありがとう。また来年も連れて行ってね」

 その翌年もぼくは祖母とともに彼女の家へと向かった。その帰り道でも祖母は〈しあわせの歌〉を口ずさんでいた。最近彼女の体調が良さそう、と祖母が嬉しそうに笑うくらいには、ふたりの関係は良くなっているようだった。でもぼくと祖母がその町を訪れたのは、それが最後だった。

 次の年の冬を待たずして、彼女が、そして続くように祖母が死んだ。もう〈しあわせの歌〉を知っているのは、ぼくだけになった。

 祖父母と彼女という三人だけの物語に、ほんのすこしだけぼくが関わった物語はこれで終わりだ。

 実はこの後、祖母の墓参りの時に出会った女性と、ぼくは結婚することになるんだけど……、それはこの物語の続きのようで、だけどぼくだけの独立した物語のような気もするから多くは語らないことにする。

 毎年、小雪がちらつき始めるころになると、ぼくは祖母と会ったこともない祖母の親友のことを思い出す。誰にも言うことのないぼくだけが胸に抱える、ぼくの人生にとってはちいさいけれど、とても大切な想い出だ。



 かしゃん、という大きな音に驚き、ぼくの意識は回想から現実へと戻される。「あぁもう!」と妻が溜息を吐いている。どうやら洗い物の終わったお椀を落としてしまったようだ。プラスチック製だったので割れている様子はなく、危なくないことにまずほっとする。

 だいぶ物思いにふけってしまっていたみたいだ。

 机の上のノートパソコンは閉じられている。

 ぼくは立ち上がると、お椀を片手に「むぅ」と難しい、けれど愛嬌のある表情を浮かべている妻に近付き、その身体を抱きしめた。

「いきなり、どうしたの?」
 と妻が驚いたように言った。

「あぁ、いや、急にこうしたいな、って」

「何それ」
 と妻がくすりと笑った。

「さっきの歌、なんだけどね」
「あぁ、さっきの洋楽? ちょっと古そうな」
「古そうな、は余計。うん。その歌。タイトルは知らないんだけど、ぼくに〈しあわせの歌〉って、ある人が教えてくれたんだ」

 こんなこと言われても困るかな……。
 だけど共有してもらいたくなったんだ。もうぼくしか知らない。これからはぼくたちだけが知っている。

〈しあわせの歌〉

 紆余曲折はきっとある。ひどい亀裂が入ることだってあるかもしれない。だけど人間関係、本当にうまく行きたいと思うひととは、絶対にうまくいく。

 不確か。あまりにも不確かで、脆そうな想いだけど……。

 あのふたりのことを思い出すと、どうしても信じたくなるんだ。

 振り返った妻は、きょとんとした表情を浮かべている。きっとぼくが、思いの外、真剣そうな顔をしていたからだろう。

                            (了)

〈あとがき(?)書きました〉