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ショートショートに花束を 9巻

〈前書き〉

 前の巻までは専用マガジンにまとめてあります。

 阿刀田高のアンソロジー『ショートショートの花束』にちなんだタイトルで、定期的に過去に書いた掌編、ショートショート、短編をまとめて再掲しているのですが、今回で9巻目になります。途中からは10巻を目標にしていたので、後ひとつで目標達成となります。noteに来た頃、自分が小説を書くことになるとは思ってもなかったので、先日投稿した小説の数が80作品を超えていました(長い短いを問わず)。自分の作品をもっと好きになれたら、と読み返しながら思ったりする時もあったりするのですが、それでもはじめた頃よりもずっと自分の作品を好きになっている自分に気付いたりもする。その辺のことは、ここここに置いてありますので、もし良かったら。

 ではでは~前置きはこのくらいにして、作品に行きたいと思います。気になったものがあれば拾い読みしてもらえると嬉しいです。好きだった作品などがもしもあれば教えていただけると、書いた人(私)がすごく喜びます。



「その手を、繋げますか?」

 ねぇ手、繋いでみてよ。

 最後に聞いた彼女の声は、ぼくの耳の奥にこびりつき、今も離れずにいる。

 終わった夏を惜しむかのような残暑にうんざりしながら学校を出ようとするぼくを呼び止めほほ笑む彼女は、あの時からその未来を想像していたのだろうか。真意は彼女自身にしか分からず、それを聞くことはもう誰にも叶わない。

「海に、行かない?」

 ぼくたちの通っていた高校の近くには寂れた雰囲気の、夏の花火大会の時期にしか人の集まらない海水浴場があり、時季外れの誘いに戸惑いながらも、彼女の言葉に引きずられるようにして、ぼくたちは人の姿がまばらな夜の砂浜で、秋らしくないまだ残る暑さに身を浸していた。

「なんで、急に……」
「嫌だった?」
 と、かすかなほほ笑みを顔に貼り付ける彼女を見ながら、ぼくはそれが剥がれた先にある表情が気になって仕方なかった。それが怒りなのか悲しみなのか……すくなくともほほ笑みから想起できるような感情ではないと確信していた。

 彼女に誘われた時から、ある予感は抱いていた。伝えたいけれど、直接それを伝える勇気が出ないまま、過ぎていく時間にぼくは焦りを感じ始めていた。表情からぼくの内心を察したのか、彼女がくすり、と笑った。

「本当、分かりやすいよね……勘違いしてそうだから言っておくけど、彼のことは関係ないよ。でも昨日、別れたの。明日、誕生日だから、今日までにはすべてを終わらせておきたかったんだ。ねぇ、あなたと初めて会った時のこと覚えてる?」

「あんまり覚えてないけど、あいつと三人で話したのは覚えてる」

 嘘だった。その記憶は鮮明に残っている。彼とは中学の頃から同じ部活で苦楽を共にしていて、進学した高校も同じだったので、あまり使いたくない言葉ではあるけれど、親友という言葉を使ってもお互いに否定しないだろう関係だった。

「……覚えてるくせに」

 ぼそりとつぶやく彼女の見透かすような言葉に、思わず、どきり、とした。

「多少は……まぁ」

「はぁ」とちいさく溜息を吐いて、「まぁいいか。私、死のうと思ってるの……って言ったら、どうする?」

「十八だから?」

「ほら、やっぱり覚えてる。私とあなたが意気投合して、彼だけが首を傾げてた。あの話――」

 十八歳までに見える世界こそがすべてで、それ以降は惰性でしかない。そんなやりとりで意気投合するぼくたちに対して、彼だけは不思議そうな、そしてやがて不満そうな表情を浮かべていた。

 こういう感覚の似通い方があったからこそ、彼が不在の時でも、ぼくと彼女の間に交流する機会ができたのだろう。

 それでも彼女の恋人は、彼だ。

「本気?」
「冗談だよ」

 ゆるやかで暖かかったはずの夜風に、強さと冷たさが混じり、背すじの震えにつられて、肩がすこし上がった。「本当に?」
「もうすこし先にある光景も見てみたいし、ね」

「あいつにも同じこと言った?」
「なんで? 言わないよ。あなた、だから言ったの」

 何故、彼女は恋人だった彼ではなく、ぼくにそんなことを言ったのか。浅ましくも胸の内にかすかな優越感を広げていたぼくは、先を見ることをやめた彼女よりもずっと、先にある光景を見ようとしていなかったのだ。もっと後になって、ぼくはそのことにようやく気付く。

 周囲にひとの姿はほとんどなくなっていた。

 ぼくは逸らすことのない彼女の目に耐え切れず、視線を下へと向ける。一本の尽きた線香花火の残骸が棄てられている。

「あいつ、なんて言ってた?」
「泣いてた。これは馬鹿にしてるわけでもなんでもなく、本当に羨ましいな、って思う。私は誰かに感情を寄り添わせて泣く、なんて、絶対にできないから。私やあなたと違って、他者を慮ることのできる優しさがあって、それはどこまでも尊い。今でも間違いなく、好き。この感情は変わらない」

 感覚に噛み合わない部分がどれだけあろうとも、彼女が感情を深められる相手はいつまでも彼で、ぼくではありえないのだ。そしていつまでもぼくは、ただの同類なのだ。どれだけ彼女との間で、感覚を共有しようとも。

「だから、あなたを選んだ」
「どういう意味だよ」
「……分かってるくせに」彼女が、ぼくに向けて手を差し出した。「ねぇ一緒に行こうよ」

 ねぇ手、繋いでみてよ。

「嫌だ」
「そっか」と彼女は笑いながら溜息を吐いた。「嘘吐き。まぁでも……うん。そのほうがいいよ。そのほうが」

「ごめん」
「止めないんだ」
「止められたい?」
「止めたら、草葉の陰で呪い続けてやる」

 彼女が近寄り、顔の上半分をぼくの肩にぴたりと付けた。「理由は聞かないよ」

「うん」とその声はすこし掠れていた。

 地面に落ちていた線香花火は彼女に踏まれ覆われてしまったのか、ぼくの目にはもう映らない。

 顔を離した彼女が、「ごめん」と言った。「すこし濡れちゃったね」

「いいよ。別に」
「ねえ。本当にいいの。最後にもう一回聞くよ」

 そう言って彼女はもう一度、ぼくから距離を取り、その手を差し出した。

 ねぇ手、繋いでみてよ。

 ぼくを誘う気のないその手には、握り拳が作られていた。



「鳴かない猫に、あの日を想う」

「ねぇ。そろそろ聞いてもいいかな。ここに来た理由」と夫が私に聞いた。
 その言葉に私はどきりとする。
「いたんだ。いるなら、そう言ってよ」



 これはまだ私が少女と呼ばれる年齢だった頃の話だ。私は両親に連れられて、もう今となっては亡くなって久しい祖父母が暮らす山梨にある小さな集落を、年に二回ほど、訪れていた。父親の運転する車の後部座席に座って、窓越しに見た農道の周囲の景色は、幼い私にはとても味気なく、惹かれるものひとつなかったはずなのに、今となっては澄んだ風情のあるものに思えてくるから不思議だ。

 子供ながらに抱く祖父母の印象は好対照で、無口で厳格な祖父とおしゃべりで穏和な祖母は似合いの夫婦だったのだろう。だろう、と曖昧な言葉になってしまうのは、当時の私がふたりの関係を怖いと感じていたからだ。おしゃべりな祖母が祖父の前だと口数がすくなくなり、無口な祖父は祖母の前だと言葉数が多くなった。私の両親がわりとフラットに物を言い合う関係だったので、余計にその関係が冷えて見えたのかもしれない。

 祖父母がふたりで住む家屋は、薄暗く、外壁の塗装がところどころ剥げていることもあり、正直に言えば気の滅入るような雰囲気を全体的に漂わせていた。

 あれは祖父の死の一年前だったはずだ。

 外に干された洗濯物が風でぱたぱたと揺れる夏の暑い一日で、汗が拭っても拭っても額からつたい落ちてくるその暑さがやけに記憶に残っている。

 両親の話の断片から祖父が重い病気に罹っていることは知っていたが――それを肺がんと知るのは私が大人になった後の話だ――、まさか一年後にはもう会えなくなってしまうなんて想像さえしていなかった。

 普通に動いて、普通に生活している。それだけで、病気、と聞いていても、「あぁ全然、元気だ」と能天気に思えてしまうほど、当時の私にとって死はどこか遠いものだった。

 そもそもそれまで周囲の死を経験したことがなく、死、を身近な出来事として感じるすべがなかったのだ。

 あの時が最後になる、と知っていたら、もうすこし話してみたかった。すくなくともああいう別れ方は選択しなかったはずだ。

「勝手に入るな!」
 物置代わりにされている離れの小屋で、そう私は祖父に後ろから怒鳴られてしまい、そして大声を上げる祖父を見たのが初めてだったこともあり、恐怖だけでなく驚きも相まって、私は祖父から逃げるように、その場から離れてしまった。庭に着いたところで、息切れとともに悲しみが胸に込み上げてきた。

 なんで、あんなこと言われないといけないの……!

 もやもやとした悲しい気持ちを抱えると同時に、後ろめたいような気持ちも実はあった。

 祖父から直接言われたわけではないが、その年、祖母や両親から「お祖父ちゃんが使ってる離れの小屋には行っちゃだめだよ」と強く言われていたのだ。行くな、と言われると、余計に好奇心が強まって、ついつい中に入ってしまった。

 誰が悪いか、と言えば私が悪いに決まっている。
 だけどそこまで言われる筋合いはない、ちょっと中を覗いただけじゃん、と理不尽に感じてしまうのも、それはそれで素直な子供心だったのかもしれない。

「どうしたの? そんなところで――」
 と明らかに祖母と分かる声が頭上に聞こえて、見上げた私の顔の異変に気付いたのか、「うーん」と言った後、肩に掛けていたタオルを私の目もとに当てた。

「わっ」
「汗臭いけど、我慢してね」
「うん……」

 タオルを離しながら、「何があったの?」と祖母が聞く。いつもよりも優しい声音を意識するような祖母の言葉が自然と私の口を開かせた。

「実は――」

 うまく伝えられないもどかしさや約束を破った後ろめたさを含んでいるせいで、ひどくつっかえながらも、私が先ほどまでの祖父とのやりとりを伝えていると、その途中で祖母が、くすり、と笑った。

 ちょっと腹が立って祖母の顔を見ると、「ごめんね」と祖母が私の頭を撫でた。「ねぇ、ちょっとこっちおいで」

「何?」
「まぁいいからいいから」

 そう言って祖母に手を引かれながら、連れて行かれたのは二階にある祖母の自室だった。畳敷きのその部屋の本棚には難しそうな本がいっぱい並んでいて、文学少女だったという祖母らしい空間なのだが、そこに違和感を添えるように、ペットの飼い方の本が置かれていた。

「ねぇ――」
「実は、ここから屋根裏に行けるの。知ってた?」と私の疑問をさえぎるように、祖母が楽しそうに言った。祖母が細長い棒のようなものを持ってきて、天井にくっついた取っ手の部分に掛けて引くと、はしごが現れ、「ほら、すごいでしょ」と笑う。

 はしごを上っていく祖母に付き従うように、一歩、一歩、ゆっくりと足を上へと進めていく。みしり、と鳴る音が不安を誘い、祖母は平気なのだろうか、と不思議だった。

「悲しみが晴れるように、お祖母ちゃんがとっておきの秘密を教えてあげる」

 予想は付いていたけれど、屋根裏の秘密は、一匹の猫……黒猫だった。

 その猫は鳴き声ひとつ上げることなく、じっと初対面の私を見つめ、そのまなざしに、すこし緊張を覚えた。

「猫?」
「そう、いつの間にか屋根裏に勝手に住み着いててね。初めて見た時、思わず大声上げちゃったわよ」と朗らかな祖母の声が、私の心を落ち着かせていった。「追い出したくもなかったから、飼うことにしたの。この子ね。鳴かないんだ」
「お祖父ちゃんは知らないんだよね」
「もちろん。だからお祖父ちゃんには内緒」
「うん……」

 祖父が激しい動物嫌いだということは、父のエピソードを通して知っていた。父がまだ幼かった頃、捨て猫を拾って飼いたいと言うと――おそらく先ほどの私の比ではないくらいに――怒鳴られ、それから数日、まったく会話のない冷戦状態が続いたらしい。その捨て猫は結局父の同級生だった子が受け取り、やがて冷戦は時間によって自然と解消されたそうだ。

 そんな話を知っていたので、やはり猫の顔を見ながら祖父の顔がちらついた。

「……まっ、お祖父ちゃんも、なんとなく気付いていると思うけどね。いくら広い家でふたり暮らしだからって、本気で隠して飼うのはさすがに無理がある。不器用だからなんて言っていいか分からないだけ。きっと仕方ないって思ってるけど、それを私にどう伝えたらいいか分からないのよ。口下手だから。あなたのことも、そう」

「私のこと?」

「別にお祖父ちゃん約束を破ったから怒ったわけじゃない、と思う。あそこには鎌とか鋤とか色々と危ないものが置いてあって、今、整理中だから……。危ないって言いたかっただけなんだよ。これは自信ある。だってどれだけ一緒にいた、と思ってるの。ああ見えて、意外と分かりやすいんだから……ううん、それどころか、あんな分かりやすいひと、いないと思ってる」

 私にとって祖父は口数のすくない分かりにくいひとだった。だから祖母のその言葉がすんなりと腑に落ちたわけではないけれど、それでも祖母がこうやって祖父について語っている姿を見て、嬉しくなった。怖い雰囲気に思っていたふたりの関係が良好だったという手掛かりを見つけたような気がして……。

「大好きなんだね」
「お祖父ちゃんのこと?」私が頷くと、「うーん。大好きって言ってしまうのは、それはそれで負けたような気がするから癪に障る、というか、なんというかね」と苦笑いを浮かべて、私はその表情に首を傾げていた。私自身が想いを共有する他者との生活を経験した今なら、その関係が一言で片付けられないものだとよく分かる。

 黒猫がそんな私たちの姿を声ひとつ上げることなく眺め回した後、音も立てずに、ゆっくりと私たちのほうに近付き、祖母のあぐらの中心でつくられる小さな穴にすっぽりとはまった。その穏やかな表情は、柔らかそうな黒毛を撫でる祖母の手を気持ちよく受け入れているように見えた。

 その日、私は何度も祖父に謝ろうと試みたのだけれど、実際に謝罪の言葉が私の口から出ることはなかった。祖父を前にすると、怒鳴られた時のイメージがよみがえってきて、また、いつか、と思ってしまったのだ。

 そのいつかがやってくることはなかった。

 その翌年だった。

 祖父が死んだのは。祖父の死を聞いた時、最初に私の頭に浮かんだのは、祖母の悲しみに満ちた表情だった。

 だけど……、

 祖母が祖父の死をはっきりと認識できたかどうかは正直なところ分からない。その一年の間に祖母は認知症と診断され、それが急激に進んだこともあり、祖父よりも先に家を離れ、介護施設で祖父の死を聞かされたからだ。



 祖父の葬式を終えてすこし経った頃、無人となった家に最後に訪れたあの日、私は新たな飼い主さえも失ってしまった黒猫のことが気に掛かり、父にお願いして祖母の自室にある屋根裏のはしごを下ろしてもらった。

 だけどそこに猫の姿はなく、住んでいた形跡のみが残っていた。あの日にはそこに置かれていなかったはずの、猫の飼い方の本が埃まみれになっていた。その本を見ながら、猫を前に悪戦苦闘する祖父の姿が頭に浮かんだ。

 猫がいないのは当然かもしれない。
 よすがとするものを失っても自らの生は続けていかなければならない。それは猫の一生も、
 そして私の人生も――。

 帰り際の陽は橙に染まり、肉体的によりも精神的に疲れた身体を車の後部座席に乗せようとした時、猫の鳴き声を聞いた。

 その声のほうに思わず目を向けたけれど、そこに私が望んだものは何もなかった。

 それでも確かに鳴き声を聞いた。空耳かもしれないけれど、私が空耳という事実を信じていない以上、それは確かに、あった、のだ。そして、その鳴き声があの黒猫のものだ、とすくなくとも私だけは確信している。



「ねぇ。そろそろ聞いてもいいかな。ここに来た理由」と夫が私に聞いた。
 その言葉に私はどきりとする。
「いたんだ。もう、いるなら、そう言ってよ」

 二十年近く経って訪れたその場所に家が残されていることはもちろんなく、それはすでに知っていることだった。

「もう更地になっちゃったけど、この家についての記憶が一番薄いのは私だけど、覚えているのは、もう私だけになっちゃったから」

 そこには塗装の剥がれの目立つ一軒家がかつて確かにあった。無口な祖父がいて、おしゃべりな祖母がいて、夏の陽光に照らされたシャツがあり、私の涙を覆い隠したタオルの汗のにおいがあり、鳴き声ひとつ上げない猫の姿があった。

 もうそれらが今ある光景として形作られることはない。
 だけど残されたひとたちの中で、ふたたび形作っていける。記憶という形で作られるそれはあの頃とは違った姿をしているかもしれないけれど。気付くのが遅すぎたかもしれないけれど。

 それでも――。
 父も、母も、そして――――、

「あれ、もしかして昔ここにあった家のお孫さん? 間違いだったら、ごめんね。あっやっぱり合ってた? 良かったぁ。いやね。なんかお祖母ちゃんに似てすごく綺麗な子がいるから、もしかしたら、って思って。どうしたの、一人で

 にゃあ、と聞き覚えのある鳴き声を背後に受けながら、
 振り返ることはしなかった。その必要はない。

 過去を振り返ったのは、過酷な今に、静かにあらがうためでもある。

 それでも私の人生は続いていく。
 私は、こうやって歩いていく、と決めたのだから。



「【増補改稿版】二流には分からない」

 駅を下りた辺りから、こつ、こつ、と背後に聞こえる靴音には気付いていた。胸の内にこみ上げてくる怒りと不安が、溜息となって口から漏れる。

 あぁまた、あいつだ。

 私が足を止めるとそれに一拍遅れて、その後ろの音が鳴り止む。ふたたび足を動かすとそれに一拍遅れて、その音が鳴り始める。すこし足を速めると、明らかに音のテンポが速くなる。

 もうやめてよ……。
 暗くなった空には澱んだ雲と、それに混じるように半月が浮かんでいた。帰り道の寂れた商店街はほとんど営業時間を終え、死んだよう、という比喩表現がぴったりと来るような光景を形作っていた。その中にひとつだけ入り口の明かりの強さがやけに印象に残る店構えをした建物があった。店、と表現したが、看板もなく、本当にそこが店なのかどうかいまいち判断できない。

 足を止めることなく私は、ほんのわずかの間だけ、その店に思わず目を惹かれた。背後の音はいまだに鳴っているのにも関わらずとても呑気な行動だとは思うけれど……。

 建物の玄関窓には端の折れや破れの目立つ一枚の紙が貼ってあった。ゆっくりと読む暇はなかったが、

〈霊媒、除霊……etc 心霊相談、なんでも受け付けます〉

 と書いてあるのだけは、読み取ることができた。

 ただそれだけ、だった。ゆっくりと読んでいる暇もなくすこしだけ靴音が近くになった、と耳で感じ取ることのできるその音に意識が戻る。

 こつ、こつ。こつ、こつ、こつ。

 マンションの前まで着いたところで私は思い切ってその場で振り返った。相手が誰なのかはもうすでに見当はついていたし、それが外れていない自信もあった。

 予想通りあの男だった。

 私と男を挟んでひとつの花壇があり、植えられた人サイズほどある樹木越しに見えるその男は口の端を歪め、相手に不快感を与えるような笑みを浮かべていた。夜の闇に同化するような黒いフード付きのパーカーを着て、そのポケットに手を突っ込んでいた。

 マンションはもう近い。

 小走りに、マンションの中を目指す。私が玄関のオートロックドアの先に入り、閉めようとしたその時――、

 私は伸びてきたその大きな手に強く掴まれ、私は思わず悲鳴を上げた……つもりになっていただけで、実際にそれが声として口から出ることはなかった。



 時計を見ると、短針と長針が重なっていた。

 やっぱり……。
 真夜中の24時を告げる警告にも似た鐘の音が私の頭の中だけで鳴り響き、それと同時に素足の裏にひんやりとした冷たい感触を覚えて、思わず「ひっ」と情けない声が漏れる。

 いつものことだ。
 いつものことだが、いまだに慣れることはない。足元に目を向けると、灰褐色のフローリングに赤黒いしみのようなものが広がり、ぼんやりと人の顔らしきものを形作っていた。毎日ではなく、だけど真夜中を過ぎると頻繁に現れるその顔に、ここ数年、悩まされ続けてきた。気のせいだ、と思い込むことにして、一時はカーペットで覆い隠してみたりしたけれど、次は壁から、天井から、といたちごっこのように、また別の場所から現れるだけで解決策になることはなかった。

 住む場所まで変えても、その赤黒い顔は私を追い掛けてきた。

 最初は恐怖に怯えていることしかできなかったが、徐々に私の心の内に憎しみの色が帯びていくのを確かに感じていた。

 私はこの顔を知っている。
 死んでもなお、彼は私を苛ませる。

「ひっ」
 と先ほどよりも大きな驚きの声が思わず出てしまった。それは意識を向けていた先とは別の方向から来た驚きだった。背後から強く響いた、ぴんぽーん、という耳障りなインターフォンの音は神経が過敏になっている時にはどこまでも心臓に悪い。

 真夜中の来訪者。
 来客にしてはあまりにも非常識な時間だけれど、インターフォンのカメラ、その映像の先にいる顔を見て、私に安堵の気持ちが広がる。男女二人組の姿は私の待ち望んでいた相手で、実際にその顔を見るのは初めてだったが、電話で事前に知らされていた特徴から待ち人だと察するに十分だった。

「夜分、遅くにすみません」
「い、いえいえ」焦ったように言う声は思いの外、大きな声になってしまった。また隣の住人に文句を言われたくない、と慌てて声の音量を下げる。「ずっとお待ちしてました……!」
「入ってもいいでしょうか?」

 玄関のドアを開けて実際に見るふたりは、独特な雰囲気を纏っていた。女性の後ろを付き従うような短髪の男は鋭いまなざしを私に送っていたが、それは怒っているというよりはそれが元来の表情なのだろう。そう思わせるほど明らかに堅気の世界に馴染まないスーツ姿の男はすこし老けて見えるが、肌のつやから察するに、二十代の半ばを過ぎた私と大して年齢が変わらないくらいなのかもしれない。

 だけどそれ以上に独特な雰囲気を纏っているのは、女性のほうで、このひとこそが私が何よりも会いたいと願っていた相手だった。

「先生、来てくれてありがとうございます」

 置いた座布団の上に正座する彼女の姿を、私はじっと見つめてしまった。サングラスを掛けていて目元までは分からないが、女性の私から見てもはっと目を惹くほどの美しさ……。いや、というよりは、世俗的なものから距離を取った、人形を思わせる美しさ、と言ったほうが彼女を的確に言い表せている気がする。どこかに人間を表す部分を置き忘れてきたような……そんな本人に伝えれば怒って帰ってしまいそうな失礼なことを考えながらも、同時に彼女を飾る――私が一生かけても身に付けることができないような――貴金属、その無機物の煌びやかさが反対に人間を感じさせた。

「だいぶ待たせてしまいましたね。こんなに待たせるつもりはなかったんですが」

「いえいえ、もう来て頂けただけで。半年でも一年でも待つつもりでしたから」

 そんな私の言葉に先生の口の端が上がる。確かに一ヶ月くらい待ってしまったが、このくらいは珍しいことではない。特に彼女……先生はその界隈では知らない人はいない、と言われるほどの人物だった。

 先生。
 私が先生と呼ぶその人物は、学校の先生でもなければ、医者の先生でもなく、もちろん政治家でもない。

 しかし今の私にとってはもっとも〈先生〉として敬うべき人物だった。

 彼女は本名どころかそのパーソナルに関するすべてがトップシークレットの霊能者であり、電話の際に今彼女の後ろで沈黙を保つ付き人の男性から、先生、と呼ぶように義務付けられていた。そこには名前は一切明かさないという強い意志が表れているように感じられた。

 霊能者という存在が総じていかがわしく、さらに彼女がぼったくりと糾弾されても仕方ないほど高額な報酬を取ることも知っていた。知ったうえでなお私はわずかな可能性にすがるように彼女との接触を図った。

「指定されていた時間よりもちょっと遅くなってしまいましたが……」
「いえ、ちょうど良かったです――」
 と私は頭を下げる。その下でやはり赤黒い顔が今も変わらず私を見ていたが、ひとりではないからか、その恐怖が薄らぐ。ふたりはなんとも思わないのだろうか。やはり名ばかりで、この顔を感じ取ることができないのだろうか。

 そんな会話をしながらときおり後ろの付き人にも目を向ける。静けさを崩さない態度を取り続けているが、どうも私は好かれていないような気がする。

「実はマンションに近付いている内に、徐々に異様な雰囲気が増してくるのは肌で感じ取っていました。いえ本当のことを言えば電話の内容を彼から聞かされた時から、急がなければ、と思っていました。とはいえ先に関わってる仕事がそれなりにあったので……」

「本当に、お気になさらず」

「よく我慢しましたね。私には数年間もこの恐怖に曝されながら耐えてきたあなたの精神力が信じられない」

 その目は私にではなく、床へ、その顔へ、と向けられている。

 今までにも何人かの霊能力者、その中には彼女と同じくらい名のある人物もいたが、その顔をしっかりと把握できた者はひとりもいなかった。

「怖かった……」
 と思わず声を出してしまった私のほおに手が添えられる、その手のひらはすこしひんやりとしていて、だけど心地よく、指の先はちょうど目じりに当たっていた。

「泣かなくても大丈夫ですよ。よく頑張りましたね」抱きしめられている、と気付いたのは、抱きしめられてすこし経った後だった。そんな様子を見ても後ろの付き人は表情ひとつ変えない。後頭部を撫でられると、気持ちが落ち着いてくるのが分かった。「除霊ももちろん行いますが、私共は、依頼主の心のケアをそれ以上に大切に思っております」

 このひとは本物かもしれない……。

「先生はどこに彼がいるのか分かってるんですよね?」

「もちろん。その低い呪詛までしっかりと聞き取ることができますよ。建物じゃなくてあなた自身に貼り付きたくて仕方ないようですね。住居を変えたところで意味はなかったと思います」

 その言葉に、どきり、とする。

「マンション変えたこと言ってなかったのに」

「それを見抜くのが仕事ですから」私の身体から離れながら、先生がまたほほ笑む。離れていった心地よさの余韻が名残惜しい。「あなたへの執着心のみで現世に留まり続けていますね。厄介な相手に憑かれたものです」

「執着心……やっぱり恨まれてるんですね……」

 自分自身で呟きながら、それはそうだろう、と思った。
 私に憑き続ける彼は、私がこの世に生を受けてから私の出会った誰よりも、私を愛した男性なのだから。それは腹の立つほど一方的に。

「ただの彼の逆恨みに過ぎません。ね」
 とその声はそれまで沈黙を貫いていた付き人のものだった。

「ですかね」そのほほ笑みはさっきまでと違ってやや意味ありげにも見えた。「まぁまずは先日の話をもう一度聞かせてください。彼を通してすでに聞いてはいますが、あなたの口からしっかりと聞きたいのです」

「はい――」と私が話し始めようとすると、

「ただし――」と先生がその言葉をさえぎった。「嘘だけは吐かないでくださいね。私は幽霊の存在だけじゃなく、人の嘘だって見抜きます」

「分かりました」
 私は、あの日の光景に頭を浮かべる。



 始まりは五年近く前のことで、今ではその時の知識がなんら役に立つことのない中小企業の会社員だが、当時はそれなりに有名な大学の法学部に通う大学生で弁護士の青写真を描けるくらいには成績も良かった。

 その将来の計画が破綻したのは彼のせいだ、という思いは今もあった。そういう面でも彼に対する恨みは大きい。

 当時の私はミスコンに参加しないかと誘いが来ることもあり、自分で言うことではないが、客観的に言ってもそれなりに容姿が良く、多少そのことに鼻を掛けていたところがあったのは嘘偽らざる本音だ。周囲を見下して、どこか高嶺の花を気取り、「それの何が悪いのか?」という想いを隠そうともしなかった。今となってはひどい黒歴史だ。

 そんな中で出会ったのが、学校の中にいても風景と同化してしまって一切目立たないだろう地味な青年のI君だった。

 参加した合コンの数合わせとしてI君は居酒屋のテーブルの端にいて、どういうきっかけだったか覚えていないが、私から話しかけたのだ。酒に酔った勢いと当時の恥知らずさが合わさって、「いっちょ声でも掛けてやるか」なんて気持ちになったのかもしれない。今となっては当時の感情なんて覚えていないが、あの頃の私はそのくらいのことを平気でやりかねない人間だった。

「合コンに来るのなんて初めてだから」

 不慣れさを隠そうともしないその態度に好感を持った私は、結局それ以降ずっとI君とばかり話していた。ゲームとスポーツ観戦が趣味だという彼と意外と趣味が合い、純粋に楽しかったのだ。

 意気投合した私たちを周囲が囃し立て、その帰りは彼とふたりで、マンションまで送ってもらうような形になった。その時に連絡先を交換して、私たちは定期的に会うようになったけれど、私の認識はあくまでちょっと気の合う友達で、それ以上でも以下でもなかった。

 だから彼から付き合って欲しいと言われた時、
 断ることにためらいはなかった。

「何、勘違いしてるの? 私、付き合ってるひといるから」

 本当のことを言えば付き合っているひとはいなかったし、それどころかあの合コンの前にもやもやの残る失恋を経験していたので男友達が安易に近付いてくることを許していた部分もあった。なので申し訳ない気持ちもありつつ、I君にそう告げた。

 彼氏の存在なんてにおわせたことさえなかったし、すぐに納得はしてくれないだろうなぁ……、と思っていたが、

「うん。分かった。ごめん、変なこと言って」と意外にもすぐに納得してくれて逆に驚いてしまった。

 だけどそれは私の勘違いだった。

 次の日、すこしだけ話したい、と彼がマンションを訪れ、家に上げたくはないなと思って、マンションの前で話を聞いていると、彼に「友達関係はこのまま続けていけないかな」と言われ、正直、嫌だな、という気持ちが強かった。それは彼氏の不在がばれたくないというのもあったし、何よりも以前通りの付き合いは難しいと思ったからだ。

「ごめん。それは無理だと思う」

 そう答えた私に、「そう。そうだよね。困らせてごめん」とまた素直に彼は引き下がってくれた。安堵の溜息を吐き、I君の素直さに感謝したのはその日だけだった。

 私は彼という人間を勘違いしていたのだ。

 翌日から私は嫌がらせの電話や明らかな尾行……そんなストーカー被害を受けるようになった。ひどい時にはインターフォンの音を何度も押して、私が不安を殺してオートロックのドアまで近付くと姿を消している。そんな嫌がらせ延々と繰り返すこともあった。

 本当に最初だけは彼以外の人間を疑ったこともあるけれど、彼は自分が犯人であることを隠そうとしないどころか、誇示しようとしている雰囲気も感じ取れた。

 ぴんぽーん、ぴんぽーん……!

 元々嫌いだったインターフォンの音がこの出来事がきっかけで、吐き気を催すほどのものになった。最近はだいぶ落ち着いているが、いまだに唐突な音への精神的な負荷は他のひとに比べてかなり大きい。

 私自身この当時は品行方正な生活を送っていたとは言えず、警察沙汰にはしたくないという気持ちもあって、知り合いにお願いして直接注意してもらったが、収まったのはすこしの間だけだった。

 そしてあの日が――。



「大丈夫?」

 言葉のつっかえた私の背中を先生が優しく撫でさする。

「あ、ありがとうございます」
「話、続けられる?」

 先生の口調が先ほどまでよりも気さくなものになっていることに気付く。

「えぇ、大丈夫です。もうすぐ話も終わりなので。あの日も彼が追い掛けてくるのが分かって、私、とにかくオートロックのドアの先に逃げ込もうとしたんです。最近は彼の目が常軌を逸しているような感じを覚えていたので、もう警察に連絡することも躊躇しないくらいに考えていた時期です。逃げ込もうとした私の腕を掴んで、彼、言ったんです。『大丈夫。もう終わりだから』って。最初は意味が分かりませんでした。私、殺されるのかなって思うくらい不安を抱えていて……」

「ゆっくりで大丈夫だから」

 先生の声は優しいけれど、しっかりと言葉の先を促してくる。

「それからちょっとして、彼が、死んだんです」私は大きく息を吐いた

「どうやって入ったのかも分からない彼が、私の部屋で、ナイフで胸を突き立てて。それは警察からも自殺と断定されました。第一発見者は当然、私でした。断定されなくても、一目見てそれが自殺だと分かりましたけど……」

「そう」

「死んだ……最低かもしれないですけど、私、その事実で本当にほっとしたんです。あぁやっとこれで彼から解放されるって……」

「それがこいつなのね」先生が床に浮かぶ顔に近付くと、思いっきりその顔を踏みつける。もちろん彼の顔が痛みに歪むようなことはなく、表情は何ひとつ変わらない。「分かった。ありがとう。ちょっと気になることもあったから、確認したかったの? 大丈夫。除霊はあなたが思っているよりも簡単な作業だから。すぐに済む」

 すぐに済む……?
 本当だろうか……?
 今まであんなにも私を苦しめてきた彼を――。

 除霊は先生の言葉通り30分も掛かることなく終わってしまった。部屋から出されてしまった私はその場を自分の目で見ることはできなかったが、ふたたび部屋に入った時、あの赤黒い顔はどこにも見当たらなくなっていた。

「大体いつもこんなもの。一時間以上掛かることなんてまずないわ。まぁ自分でもかなり額を取っている自覚はあるから、法外だ! って喚くひとの気持ちも、ちょっとは分かるんだけどね」

 法外だとは思わなかった。

 この地獄のような日々から救ってくれたのだから感謝しかない。この感謝に比べれば、値段は微々たるものだ。

 マンションの駐車場で、高級外車に颯爽と乗り込む先生が車の中から、別れのジェスチャーを示すように軽く手を上げた。

 頭を下げた後、運転席に目を向けると、付き人の男はまだ無表情のままだった。表情の変化を一度も見ることのできなかった男が私をちらりと見た。その表情が意味する感情までは分からなかったけれど、そこには確かに感情の変化があった。

 部屋に戻る。そこに当然、あの赤黒い顔はない。



 大きく深呼吸をする。

 思わず笑みがこぼれる。もうあの顔に一喜一憂しなくて済むことが嬉しくて仕方ない。

 それにしても……、
 霊能力者に依頼するのは、これで何人目だっただろうか。もう忘れてしまった。今までの三流の奴らに比べれば、まだましだが、あの先生とやらも偉そうにしている割には、一流にはほど遠いな。

 そう……私がもっとも求めていたタイプの人間だ。

 何が『嘘だけは吐かないでくださいね。私は幽霊の存在だけじゃなく、人の嘘だって見抜きます』だ。本当に笑っちゃう。

 まぁすこしは疑ってたみたいだけど、私の嘘が何だったのか、最後まで分からなかったみたいだ。

 一流の皮しか被れなかった二流だよ。
 あれは。

 滑稽でしかない。

 だけど本当に都合が良かった。

 私の役に立つって意味じゃ、どこまでも一流だ。

 手のひらを見る。あの日付着した血の記憶が蘇る。

 自殺なんかじゃない。あいつは私が殺した。でも私が悪いわけじゃない。

 オートロックの先で私の腕を掴んできたあいつが、ナイフを出してきたから悪いんだ。『大丈夫。もう終わりだから』部屋にまで押し入ってきて、『心中しよう』そう言われたあの声までしっかりと耳に貼り付いて、離れない。

 死ぬなら勝手にひとりで死ねよ。こっちを巻き込むな。
 揉み合いになって、最後にナイフを手にしていたのは、私だった――。

 もちろん殺す気なんてなかった。殺意はひとつもなかった、と誓って言える。でも正当防衛だと認めてもらえる保証は何ひとつなく、こんな時に多少付けた法律知識は何の役にも立たない。何らかの罪を被ったとしても、情けはかけてもらえるだろうけれど、こんな奴のために欠片でも罰は受けたくない。

 自分の指紋を拭き取り、ナイフや死体の位置を変え、可能な限り自殺に見せられるように心掛けたけれど、私が持っているのはミステリ小説やドラマの知識程度で、細工は本当に簡単なものだった。

 諦めも混じっていたが、警察は自殺と判断した。

 あいつがストーカーで私がずっとその被害に遭っていたことと、彼の自宅から自身の死を仄めかす日記が出てきたことが大きかった。実際に私はその中身を確認していないが、私と心中したいという言葉は書かれていなかったらしい。

 すべてが私に運の向く形だったけれど、そもそも殺されそうになった時点であまりにも不運な境遇だったこと思い出して、なんとも言えない気持ちになる。

 さらに死んだ後も、奴の顔に苦しめられ続けるのだから。

 あの赤黒い顔を見るたびに、私にはその声までは聞こえないが、その表情が私に語りかけてくるのは、いつも、

『俺を殺したお前を許さない』

 という言葉だった。

 あの先生は呪詛まで聞き取れると言っていたが、本当にその声を聞いたのならぜひともなんと言っていたのか教えて欲しいものだ。

 本当に感謝しているよ、先生。

 私の根は小心だ。もしかしたら本当に能力のあるひとなら私の嘘に気付くかもしれない。実際、あの先生は気付き掛けていたようにも思える。そんなかすかな不安があったから、選ぶ相手は多少有名だったとしても、いつもいかがわしいひとばかりだった。

 これまでの奴らは、本当に能力がない三流ばかりだった。

 今回の先生こそ、私が数年間求め続けてきた、最高の、
 二流の人。

 思わずひとり笑いまで漏らしてしまった、そんな私の歓喜に水を差すように、一本の電話が鳴った。スマホの表示を見ると、知らない番号からだった。

「はい――」

 もしもし、と続けるつもりだった言葉をさえぎるように、低めの声が聞こえた。

「先生は、一流ですよ」
「えっ」

「先ほどまで一緒にいたひとの声まで、あなたは覚えられないのですか?」その声はあの付き人のものだった。「先生なら、いえ私でさえ、あなた程度の嘘なら簡単に見抜けます。あなたの良心を試したくて、もう一度、確認させてもらったのですが、残念ながら嘘を吐いた」

「な、何、言ってるのよ!」壁のほうから、がんっ、という大きな音が聞こえた。うるさい、という隣の住人の抗議なのだろうが、私は不安で声を潜めることもできなくなっていた。トラブルなど知ったことではない。「どういうつもり!」

「先生は最初、あなたに同情的だったんです。もともとは被害者なのだから、ちゃんと真実を話してくれたら、ちゃんと除霊してあげようって……。正義感、というよりは、あなたの真摯さ、誠実さを見たかったのです。依頼主に信頼が置けるかどうかの。それは私たちの業界において、とても大切なことですから……。だけどあなたは先生の気持ちを踏み躙った。とても残念で――」

 急に饒舌になった付き人の言葉を、途中からは何ひとつ聞いていなかった。

 ちゃんと除霊してあげよう……?

 足元に目を向けると、
 そこには前よりもはっきりと、そして伸ばしたように広がった赤黒いあいつの顔が、

 私の影を覆い尽していた。



「甘党と雪山と」

 ところで俺の彼女は甘党だ。ケーキ、パフェ、カステラに饅頭と、とにかく甘い物に目がないひとなんだが、とりわけ一番好きなのはチョコで、スナックバー型のお菓子を常備して、小腹が空くたびに食べている。彼女が食べている姿を見ていると、大体俺の表情は険しくなってくる。いや……甘い物が好きなのはいいんだが、限度というものがある。どう考えても不健康だ、というのを遠回しにやんわりと窘める俺に、「別に太らないんだし、いいじゃん」と口の端にチョコの痕を残しながら言う彼女に、内心ではちょっと可愛いなと思いながら、かなりきつめの〈甘い物禁止令〉を出したんだが、きっとそんな約束は破られるだろう、と思っていた。ただ、まさかあんな状況で知るとは思っていなかった。

 破られたことよりも、俺が何よりも驚いているのは、彼女の甘党に救われる日が来たことだ。



 事実は小説より奇なり、なんて言葉もあるが、こんな体験を味わうのは、もう二度とごめんだ。と言いたいが、そもそも俺たちに今後なんてあるんだろうか。ここは雪山の、見知らぬ山小屋。そう俺たちは今、雪山で遭難して救助を待っている状態だ。遭難した時点で死を覚悟していたんだが、猛吹雪の中、偶然見つけた山小屋には誰もおらず、俺たちはぴったりと身体を寄せ合いながら連絡さえも取れず、来る保証もない救助をひたすら待ち続けていた。

 ことの始まりは、彼女からの「スキーに行かない」という誘いだった。スキー好きの彼女は毎年、スキー場近くのペンションを利用して友達数人とスキー旅行をしていた。俺が誘われたのは初めてだった。俺の超インドアな性格を気遣ってくれていたのは知ってる。だからスキーに行くこと自体に気乗りはしなかったが、彼女から誘われずにいることに寂しさもあったので、やはり嬉しい気持ちも大きく、俺はふたつ返事で了承した。

 それがまさかこんな結果になるなんて……。

 山小屋に暖を取るものはなく、俺たちは身体を近付けることしかお互いを温める手段がなかった。

「ごめん」
 と俺の耳もとで彼女の謝る声は震えていた。唇が青紫に変色するほどの寒さのせいもあっただろうが、何よりも申し訳なさに満ちていた。

「なんで謝るんだよ……」
「だって……私がコース外に逸れちゃったから、こうなったわけだし。そもそも私が誘わけなれば」
「わざとじゃないんだから、気に病む必要はないよ」

 滑っている際中、突然の吹雪に見舞われ、俺たちはコース外の立ち入り禁止区域に入ってしまい、そのまま遭難してしまったのだ。どっちが先にその区域に入ったのかなんて責め合うものではないはずだが、彼女は、慣れから来る油断のあった自分が原因、と責任を感じているようだった。

 遭難した時点で俺は、死んだ、と思った。いつまでも吹雪は止まず、スキー用具は途中で捨て、俺たちは相手だけを見失わないようにしながらとにかく歩いたが、視界が悪く、何もない世界にふたりだけが取り残されたような感覚を抱いていた。歩いている先が正しいのかも分からない中で山小屋を見つけたのは奇跡みたいなものだが、幸運だと感じたのは一瞬だけだった。

「手、繋ごうか」
 そう俺は言った。言葉通りの甘さはそこにはなく、必要に駆られての言葉だった。俺たちはそれまでスキーグローブを付けたままだったが、お互いに外して、彼女の手の甲に手のひらを載せて、その後、ぎゅっと握ってみた。彼女と触れ合った手はかじかんで感覚を失ったままそれが変わることはなかった。もしかしたらすこしは温かいのかもしれないが、焼け石に水でしかない。

 火も明かりもなく、壁板がいくつも外れているこの小屋で俺たちはどれだけ生きていられるだろうか。電波の届かないスマホだけが唯一の明かりだった。

 空腹でお腹が鳴って、俺は溜息を吐く。

「ねぇ、私、さ。実はあなたに嘘を吐いてたことがあるの」
「急に……なんだよ」

「なんでしょう?」と無理して明るく装う彼女の口調と笑みに合わせるように、俺も無理して笑顔を作ってみる。ちゃんと笑えているだろうか。「気を紛らわせるためにも話し続けよう。そうだ……お互いこんな時だから、さ。後悔しないように、今まで隠していたこと言わない? ……あっ、今の後悔すること前提に話してたね。ごめんごめん。とりあえず。こんな時じゃなきゃ話せないことってあるでしょ」

「ま、まぁ」
 俺はひとつの隠し事を思い出し、彼女から目を逸らした。

「あるね。その顔は。まぁじゃあ、私から――実は」
 ……浮気か、まさか浮気なのか。

 俺が息を呑んだ後の答えは、「じゃじゃーん」と一本のスナックバー型のチョコだった。

 呑んだ俺の息を返せ。

「ごめんね。本気で健康のこと心配してるって分かってたから、最初は真面目に禁止令守ってたんだけど、どうしてもやめられなくて……」と彼女は本気で申し訳なさそうだ。

「別に、気にさえしてくれれば、それで」

「はい」彼女が袋の封を開けて、俺に差し出した。「さっきお腹鳴ってたでしょ。聞き逃さなかったよ」

「でも、お腹減ってるのはお互いさまだろ」
 と俺は、棒状のチョコの半分を折って、「これだけもらうね」と言った。

 ぱくりと放り込んだチョコを舌先で転がしていく。彼女の好むチョコはとても甘く、普段の俺なら意識的に避けるものだった。至福の時間はあまりにも短い。ゆっくりと溶けていくことを願いながら、思いの外、チョコの部分は早く溶け、名残惜しくなる。

「美味しい?」と彼女が、ふふ、と笑いながら、「そんなに泣かなくても、帰ったらいくらでも食べられるよ」

 言葉の意味が分からず、俺が戸惑っていると、彼女が人差し指で俺の目じりに触れた。そのひんやりとした彼女の指は、不思議と心地よかった。

「大丈夫」きっと俺たちはこれからもうまく行く。「だよ」それは言葉にはしなかった。

「それで、あなたの隠し事は、何ですか?」

「えっ」今、言葉にしない、と決めたばかりなのに……。「い、言わない。これは今、言っても意味ないことだから、帰ったら言うよ」

 彼女は「うぅ……私だけ……」と不満たらたらだったが、追及しようとはしなかった。だってこれは本当に今言ったって仕方のないことなんだから。

 結局俺たちはその翌日、宿泊していたペンションのオーナーから「帰ってきてないひとがいる。荷物は残ったままだし、この吹雪で帰ったとは思えない」という連絡で捜索していた山岳救助隊のひとに発見してもらい、一命を取り留めた。多少の凍傷はあったが、怪我もひどくなく、数日もすれば完全にいつも通りだった。

 そして俺は帰る直前、ペンションでの最後の朝食時、食堂で面と向かい合う彼女に問い質されていた。

「さぁ、吐きなさい。あの時、何を言おうとしていたのか?」
「だから帰ってから――」
 いや……仕方ない、俺は彼女の近くに寄り、耳打ちするように言葉を告げた。でも正式な言葉じゃない。最後に「もう一度、改めて言葉にするから」と添えて。実はもう用意はしているんだけどね。ここには、その輪っか、持って来なかったんだ。別の準備をしていてね。

 俺は彼女の目じりに人差し指で触れた。

 心落ち着かせるように彼女は目の前の湯気立つコーヒーを一口飲み、「苦いね。だけど温かい」と笑った。甘いだけじゃない人生を、これからもよろしくね。



「タイトルは、必要ですか?」

「今日、人生辞めてきた。だから、私、死体」


 言葉に独特なテンポを付けて、三年振りに会った彼女は私の部屋で仰向けになっていた。家主のいない部屋を我が物顔で利用するかつての同級生の姿に、驚きよりも先に、嬉しい溜息が出る。

 電灯の光の弱さに薄暗い雰囲気を残す空間で、彼女の赤く染まった髪は強く際立っていた。今、私たちのいる場所から海をひとつ隔てるほど遠く離れた女子高に一緒に通っていた頃、周囲からいつも「綺麗な黒髪だ」と褒められ続けた彼女の髪は見るだけで分かるほどに色も質感も変わり、ただあの頃よりも気軽にその頭に手を伸ばしたくなるような親しみやすさがあった。もちろんしないけど……。

「生きてたんだ」
「死んでる。今日からは、もう」
 と立ち上がった彼女がにやり、と笑う。あぁもう見ることができない、と思っていた彼女の笑顔に私はほっとした気持ちになる。

「変なこと言わないでよ」ぼやける視界をごまかすように、私も彼女と同じように笑みを作ってみた。その顔はうまく笑えているだろうか。

「ふふっ、きみ、は変わらないね」
 すこし低い声で、彼女はいつも私のことを、きみ、と呼んだ。電話越しに彼女の声を聴いて恋に落ちた後輩の女の子の話は我が母校の語り草になっていた。あの子がいまこの場にいたらどんな反応をするだろうか。泣くだろうか、それとも失神するだろうか。いやもしかしたら怒り出すかもしれない。なんで勝手にいなくなったんですか、と。

 あの子にいますぐ伝えたいような気もするし、彼女との時間を誰にも邪魔されずにこのまま独り占めしたい気もする。

「どこ、行ってたの……というか、そもそもだけど、どうやって部屋に入ったの」

「まぁまぁ。そんなにあせらないで」

 こちらの感情など知ったことでもない、というように、余裕を崩さない彼女との距離感に寂しさが募る。いつだって彼女は私のすこし先を歩いていて、手を伸ばしてもぎりぎり届かない位置にいるような感覚がもどかしかった。

「ちゃんと答えて」
「ごめんごめん。実はきみのお母さんから合鍵を借りたんだ。『もちろんあなたなら構わないわ』って、快諾してくれたよ」

 母の口調を真似る彼女の表情を見ながら怒りがわく。それは彼女に対してではなく、母に対してだった。

「ちょっとお母さんに電話してくる。普通、娘の合鍵をほいほいひとに渡したりする⁉」

 それに……なんで教えてくれなかったの。まだ生きてる、って。

 かつて、ひとりの女子高生が行方不明になった。都会の実状は体験していないので分からないが、田舎町の高校でそれは大事件だった。最初は家出と疑われ、家庭内暴力やラブホテルでの男性との密会、など、真偽不明の噂が飛び交い、私はできる限りその言葉に耳をふさいだ。言葉が実際に耳に入ってしまえば、信じてしまいそうで、それが何よりも嫌だった。しかしどれだけふさごうとも、漏れるように言葉は入ってきた。胸の内にひたひたと押し寄せてくる不安は、恐怖だった。

 最後に耳に入ってきたのは誘拐という噂だった。それ以降は誰も彼女のことを口にしなくなった。

 私たちのクラスでは、漠然とした死の気配と、それを口にしてはいけない、という雰囲気が漂っていた。

 誰かに殺されたのか、自ら死を選んだのか。そういうはっきりとした根拠があったわけではなく、なんとなく彼女なら……周囲にそう思わせる雰囲気を彼女は間違いなく持っていて、その感情がクラス内でほのかに共有されていたのだ。誰かがはっきりとそう口にしたわけでもないのに。

 窓の隙間から入り込んできた夜気の冷たさに、思わず素肌の出た肩を擦ると、
「寒い?」
 と彼女が聞いた。

「寒くないの?」

「全然、私は死体だから、寒いとか暑いとか、何も感じないの」
「っていうか、なんで窓開けたの?」

「最初から開いてたよ。昔から思ってたけど、本当、不用心だよね。ここは私たちの田舎とは違うんだよ。こんなんじゃ、私、安心してあの世に行けないよ」
「だから変な冗談やめてって」

「ごめんごめん。きみ、を見ると、どうしてもからかいたくなるんだ。特に久し振りに会ったもんだから」
「今まで、どこ行ってたの?」

「色々と行ったんだけど、あんまり覚えてない。場所が変わっても、私自身は何も変わってくれなかったから、どこも印象に残らなかった。ううん、それはすこし違うかもしれない。本当は私たちが過ごしたあの町への印象を超えるものが何も無かっただけ。悔しいけれど、やっぱりあそこは特別だったの」
「あそこが?」

 あの頃、私たちは田舎町への嫌悪を確かに抱いていた。もちろん彼女の内心を読むことなど私にできるはずがなく、それは想像でしかないが、確信はあった。

「本当に悔しいんだけどね……でもそれは土地が理由なんじゃない。……それは例えばあなた、とか? いつでもそこにいる、ひと、が理由なっているのかな?」
「なんで疑問形?」

「だって私自身よく分かってないから」彼女が、私に向けて片目をつむる。その仕草に、どきりとする「ねぇ修学旅行の夜のこと、覚えてる」

「何のこと」と私がとぼけると、
「分かってるくせに」と彼女が唇を突き出す。拗ねたように、そしてあの日を思い出させるように。「キスをそんな簡単に忘れるなんて……きみは、なんて悪い女の子なんだ」

 くすくす、と笑うその顔に、私は自分の顔を近付けようと距離を縮めると、彼女がそれを手で制した。

「ごめん――」
「やっぱり、悪いね、きみは。ひどい女の子だ。ちゃんと生きた女の子を好きになりなさい」ねぇ、と彼女が続ける。「私の人生にタイトルを付けてよ」

「タイトル?」
「一個の人生が終わって、私は、私という作品として形作られるの。だけどその人生を一語で表せるタイトルが私にはない。名前だけじゃ物足りない。何かひとつ私らしさを表せるものが欲しい」

「そんなもの、要らない。だって……まだ生きて、私に会いに来てくれたんだから」
「気付いて、言ってるでしょ。ねぇいつから気付いてたの?」

「何のこと」私は、またとぼけてみた。
「心配だったんだ。一応ね、初めて好きになった女の子だから」

「一応は余計。勝手に心配しないで。大丈夫。もう窓だって閉め忘れたりしない」
「ねぇ」
 と彼女が唇を突き出して、私の反応を待つ。そこに一抹の虚しさを抱きながら、私は彼女に近付き――――、

 夢から醒めたような、誰もいない空間だけが残った。

「寒い」

 さらに増した気のする夜気の冷たさに思わず出た声に、反応してくれる声はどこにもなかった。

 窓を閉め、ひとつ息を吐くと、スマホから着信音が鳴った。

「お母さん。どうしたの?」
「うん、あの、ね……」

 心なしか暗く、ちいさく、言い淀む口調だった。感情の整理を付けるために、時間が欲しかった。

「ねぇお母さん。合鍵って持ってる? 例えば、誰かが取りに来たりとかしなかった?」

「何、変なこと言ってるの……ちゃんと持ってるに決まってるじゃない。そんなことより……あの、ね。その……あの子のこと覚えてる? あなたのクラスメートだった」母は別に彼女と私の仲を知らない。彼女への想いをもしも知っていたとしたら、『覚えてる?』なんて聞けないだろう。よく考えたら、母が彼女に合鍵なんて渡すはずがないのだ。「行方不明になってた女の子……死体が見つかったんだって。死んだって……まだ断定はしてないらしいんだけど、もしかしたら殺され――」

「どうでもいいよ。そんなこと……」電話の際中に見つけた、敷かれたカーペットに絡まる一本の赤毛。それこそが私にとっての真実だ。

 私の心の中で、まだ確かに彼女は生きている。

 だからピリオドは打たないし、タイトルは無題のままだ。

                         (未完、永遠に)