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僕が見た怪物たち1997-2018(完全版)【約65000字】


「プロローグ」


 無人となったまま放置され、いわゆる廃屋と呼ばれる状態になった建物が農村部では増加していて、それが問題になっている、と先日テレビのドキュメンタリーで紹介されていたが、その例に漏れず、久し振りに訪れたかつて僕の暮らしていた家も取り壊されることなく、そこに残っている。老朽化して、いつ倒壊してもおかしくなさそうなその姿を見ていると、この場所にひとが住んでいた、という事実が嘘だったかのように思えてくる。

 この地を離れて、もう二十年以上の月日が経っているが、あれ以降、どれだけこの建物は家屋としての役割を果たしていたのだろうか。

 僕がちいさく溜め息をつくと、

「そこ、近付かないほうがいいですよ」

 と、背後から低めの声が聞こえた。まさか声を掛けられるとも思っていなかったので驚きのまま振り返ると、穏やかな笑みを浮かべたすこし筋肉質な男性が立っていた。もうすぐ夏という暑い時期のせいだろう、彼の顔のいたるところに汗の粒が浮かんでいる。

「あぁ、すみません。不法侵入とか、そういうつもりはなかったんです」

「いや別にそんな心配では……。それにまぁ、入ったところで、誰も通報なんてしないですよ」

「うん……? あぁ確かに危ないですもんね。どっちにしても、申し訳ない」

「あぁ、いや、実はそれも違うんです。……うーん、こんなことを急に言うと、変なひとに思われるかもしれませんが……、その家、呪われてるんです。取り壊しの工事の予定も一度はあったんですが、不審な事故が何度も続いて中止になってしまって」

「呪われてる、ですか……?」

「こんな話、まぁすぐには信じられないかもしれませんが……この家、ね。もともと三人家族が住んでいまして、息子さんは私と同い年でクラスメートでしたけど、小学生の時に突然いなくなっちゃって。その頃、村に不審者のおじさんが出没している、って話もあって、もしかしたら誘拐されて殺されてしまったんじゃ、なんて噂もありましたよ。ご両親も首を吊られ……あっ、これは息子さんの行方不明の話と直接的な関係はなくて、かなり後になってからの話なんですけど、市内を拠点にしていた、もう教祖が捕まって解体してしまってるんですけど、その宗教団体の名を借りた詐欺グループの標的にされて背負った借金に苦しんで、ね……」

 僕は、その言葉を聞きながら衝撃を受けていた。

 両親が詐欺によって背負った借金を苦に自殺していた、という事実にも、もちろん驚きはあったが、もう関わらなくなって久しく、縁が切れた両親の死に対してそこまで哀しみを抱くことはできなかった。僕が衝撃を受け、興味を惹かれたのはそんなことよりも、目の前の男性が、かつてのクラスメート、ということだった。

 そう言われると、見覚えがあるような気もしてくる。

「……あの、不躾なんですが、お名前を教えてもらえませんか?」

「はぁ、名前、ですか? 別に構いませんが、大木、と言います」

 大木。僕はその名前を知っているし、はっきりと覚えている。一瞬、自分の名を明かす考えもよぎったが、それはどちらにとっても良いこととは思えない。

 偶然……? 本当に、偶然なのだろうか……?

 ふと僕の頭に浮かんだのは、先生、の顔だった。だけどこんなことにまで彼女の力が及ぶわけはないし、これは単なる偶然に違いない。それでも疑心暗鬼に囚われるように、彼女の姿が頭に浮かぶほどに、僕は先生に縛られているのだ。そのことに気付いて、弱気の虫が顔を出す。

 あぁ、駄目だ……。気持ちで負けてはいけない。

 僕がこの地にふたたび訪れたのは、彼女との訣別のためなのだから。



 第一話「死にゆく者の祈り、2002」


 年齢のせいではないはずだが、最近はひどく記憶が曖昧で困ってしまう。

 そもそもこの住所を知ったのは、いつだったか、それさえもはっきりとしない。

 どうやってここまで来たのかはよく覚えていないのだが、気付くと私は見慣れぬ商店街の見知らぬ建物の前に立っていた。二階建てのそこには特に看板もなく、外観からは普通の家屋にしか思えず、引き戸になっている玄関のドアに貼られた紙がなければ、何を営んでいるか分からないまま通り過ぎてしまっていたことだろう。

〈人生の苦しみから心霊の悩みまで、あらゆる相談お受けします〉

 という怪しい文言の後には店舗名もなく、その下には電話番号が書かれている。もう亡くなってしまったが、かつての友人の恵美ならこういう場所の存在を面白がっただろう。不思議な雰囲気だ。ただ、普段の私だったら、たとえ興味を持ったとしても、こんなうさんくさくて、危険なにおいのする建物に入らなかったはずだ。

 私は一葉の写真を握るその右手にちいさく力を込める。私にはもう時間がないかもしれない。

 時代を感じさせるその建物には呼び鈴らしきものは付いていなくて、とりあえずノックしようと握りこぶしをつくった手の甲でドアを叩こうとしたが、それは空振りに終わってしまった。私が手首を振るのと同時に、ドアが開いたからだ。

「こんにちは。お客様ですか?」

 私を出迎えたのは、幼さの残る声だった。

「あ、うん。きみはこの家の子?」

「ここで、先生の助手をさせてもらっているコウと言います」

 中学生くらいだろうか。こんなちいさな子が助手……?

 もしかしたらコウと名乗る彼は、その彼の言う、先生……彼女の息子さんかもしれない。店番を任されているとか、きっと、そんな感じだろう。

「きょうは、その先生、いるかな?」

「はい。もちろんです。では、上がってください」

 丁寧な言葉遣いだが、礼儀正しい、というよりは、感情を殺したようなしゃべりかたをする少年だ。口調は柔らかいが、どこか冷めている。私が一番苦手とするタイプだ。異性同性関係なく、こういうひとはどうも好きになれない。いつも一緒のグループにいた咲なんかはまさにそういうタイプだった。素っ気なくて感情が読めなくて、でもその態度が私のことをすこし見下しているように感じられる。実際にそう言われたわけではないが、私にはそう見えて仕方がなかった。

 そんな咲も、もう亡くなってしまった。一緒に旅行した時はあんなに元気だったのに……。

 少年が私に案内してくれたのは、〈カウンセリングルーム〉と書かれた看板が吊り下げられている部屋で、入るとそこには私が求めていたひとがいた。顔を見るのは人生で二度目だが、いまはサングラスをしていて素顔は分からない。

 椅子に座って、先生と机を挟んで向き合う私を見届けると、少年は、ぺこり、と深く頭を下げて、部屋から出て行く。

「初めまして……じゃなかったよね……、えぇっと、以前どこで会ったかしら」

「以前、長崎に友達と旅行した時、ガイドをしてもらったんですけど、覚えていないですか?」

 私が、そう言うと、彼女がちいさく口の端を上げた。

「あぁ思い出した。そうだった、そうだった。それで今日は何のご用?」

 何年か前、いつも一緒にいた四人グループで旅行した際、たまたま目的地に向かう電車の中で隣り合わせたのが先生で、その不思議な雰囲気が妙に私たちの興味を惹き、そのまま旅先でも行動を共にすることになったのだ。実はその時に彼女の名前は聞いていなくて、ただ周囲からは、先生、と呼ばれている、と彼女自身が言っていて、私たちも旅の間、先生、と彼女のことを呼んでいた。

 私の存在はひとつの職では収まりきらないの。まったく自慢げに感じない口調で、自慢としか思えないことを言った彼女は、その時、私たちに名刺を渡してくれて……あぁそうだ、そこに住所が書いてあったんだ。名刺には〈相談請負人〉と本気か冗談か分からないような肩書きが付けられていたが、彼女がその名刺を配りながら、カウンセラーや占い師、霊能者やら探偵なんかも兼ねている、なんて言っていて、そんなに手を広げたら全部が中途半端になるだけなんじゃないか、と思ってしまったが、でもあの時の霊能者という言葉が頭に残っていたからこそ、私はここを訪ねようと思ったのだろう。私たちのグループでもっとも、恋多き女、というあのちょっと古くさいフレーズの似合う女性だった早苗は、占い師、というワードに惹かれたのか、彼女に厚かましくも無料で恋占いをせがんで、一喜一憂していた。そんな早苗も、もう……。

「実は私、死ぬかもしれないんです」

 私は手に持っていた写真を彼女に差し出す。

 そこには私も含めて四人の女性が写っている。恵美、咲、早苗、そして私の四人が集まって、あの日、長崎で撮ったものだ。

 あの旅行からまだ大した期間も経っていないのに、私以外の三人が、異常とも言える死に方をしている。こんな偶然が本当にあるだろうか。

 私たちは呪われているのかもしれない。

 だとしたら次は最後、……私の番だ。



 私たち四人はかつて同じ高校に通っていた。

 長崎への四人旅行は、卒業してから久し振りに集まらないか、という話をきっかけに、じゃあせっかくなら旅行でも、と早苗が計画したものだった。旅行の計画を話した時、あんたたち相変わらず仲が良いわね、と呆れたように言っていたのは、誰だっただろうか……、確か同じ高校に通っていた双子の姉だったはずだ。姉と私の見た目は、瓜二つとまではいかないがすごく似ている。ただ性格は対照的で、私はひとりだとすぐ不安になるし、いつも誰かの後ろにくっついているタイプで、反対に、姉はひとりで何でもこなしていて、誰かといる時は、よく周りから頼られていた。同い年でも、私にとって、姉は憧れだった。

 自分を変えよう、と思ったのは、大学に入ってからだ。

 大学デビューなんて言い方は、自分の冴えない過去を認めるみたいで、ちょっと嫌だが、かなり無理して新たな自分を作り込んだのは事実だ。

『ねぇ、早苗から旅行に誘われてるんだけど、一緒に行かない?』

 と恵美から電話が来たのは、大学三年の秋頃だっただろうか。

 恵美は高校だけでなく中学も一緒で、グループの中ではもっとも付き合いの古い相手だった。彼女はオカルトとか幽霊とか、そういった類の話が好きな女の子で、まぁでも私たちが中学、高校くらいの頃はノストラダムスの大予言を前にして、テレビでオカルト番組がよく放送されていたこともあって、そういう生徒は決してめずらしくなかった気がする。

 恵美は悪い子ではないのだが、思い込んだら一直線で、周りが見えなくなるところがあった。

 久し振りの恵美の声に、私は安堵とわずらわしさの混じった感情を抱いた。

 大学生活を送る中で、私はいつも気を張っていた。だから旧知の間柄である恵美の声は私を隠し立てのいらないあの頃に戻してくれたが、自分を変えようと敢えて捨てた関係がまた近付いてくるのは、どうもわずらわしい。

「……うん。良いよ」

 ほんのわずか悩んだのち、私がそう答えると、

『良かったぁ、断られたらどうしよう、思ったよ。渚はもう都会の女だからね』

 冗談めかした口調だった。渚は私の名前だ。恵美が、渚、と呼ぶ時のイントネーションは他のひとと違っていて、私は初めて会った頃からそこに小馬鹿にしたような色を感じ取っていた。

 何が、断られたらどうしよう、だ。断られるなんて思ってもいなかったくせに。

 姉にもそう思われていたように、私たちは周囲からとても仲が良いと思われていた。

 恵美との通話を終えると、またすぐに電話の音が鳴った。恵美だと決め付けて取った受話器から聞こえてきた声に、私は慌ててしまった。ちゃんと着信の登録名を見てから、出るんだった。

「ごめん。急に。もしかして寝てた。声がちょっと怒っている感じだったけど」

「ううん。そんなことないよ」

 声の主は、現在の恋人で、そして彼は私の最後の恋人になる予定だ。

 彼は業界のことを知らない人間でも、聞けば大抵はその名を知っている電機メーカーの社長の息子で、大学を卒業したら、その会社に縁故採用されるだろう、と言われている。周りもそう噂していたし、本人もそのつもりでいることを自分で口にしていた。彼は小説を書いていて、分かりやすい文学青年を気取っているところもあり、卒業したら一切書かない、在学中に芥川賞でも取ってやるぜ、なんて公言していたが、たぶんそれは無理だろう、というのが実際に作品を読んだ私の正直な感想だった。

 社長の息子、というステータスに惹かれて交際しているのだろう、と陰で言われていることは知っていた。彼は決して見てくれが良いわけでもなく、才能や知性に溢れているような雰囲気に対して、首を傾げてしまう部分があまりにも多かったからだ。ただ私は彼と付き合いはじめるまで、彼の家族のことなんてひとつも知らなかった。

 彼には才能がない。そんな才能を持たない人間が苦しんでもがいている姿に、私はどうしようもなく惹かれてしまうのだ。周囲には理解されないだろうし、プライドの高い彼には絶対に知られてはいけない私の本心だ。

 とはいえ……、

 もともとは結婚のことなんてまったく頭になかったが、交際の後のその先まで考えるようになったきっかけは、彼のステータスを知って、だったのだが……。

「それなら良いんだけど……」

「さっき高校の頃の友達から電話が来て、長話になっちゃったから、すこし疲れてただけ」

「へぇ、きみの友達……確か和歌山の田舎って言ってた、っけ?」

「そうよく覚えてたね。本当に何もない田舎。大嫌いだった」

「でも、離れても連絡を取り合える友達がいるなんていいじゃないか。僕にはそんな相手、誰もいないよ」

「都会でうまくいってない人間を見つけて、馬鹿にしたいだけよ、きっと」

「ありゃ、もしかして仲の悪い相手だった?」

「嫌い。あの田舎と同じくらい」



「死ぬ、というのは、穏やかな話じゃないね」

 掛けていたサングラスを外して私を見る先生の眉間には、かすかにしわが寄っている。

 机の上に置かれた写真の先には長崎のハウステンボスの風景があり、私たち四人の姿があった。ハウステンボスを旅行先に選んだのは確か早苗だと言っていたはずだ。早苗が以前に付き合っていた男性と長崎のハウステンボスに行く約束したまま、結局それが叶わなかったので、その嫌な名残りを払拭するために長崎を選んだんじゃないか、と恵美が私とふたりの時に、からかうような口調で言っていた。

「先生はあの時の私たちを見て、どう思いましたか?」

「答えてあげたい気持ちはあるけど、正直なところ覚えていないのよね。短い時間の話だったし」

「まぁ、そうですよね。よく周りから私たちは、仲良しグループと言われていました。ただ本当はそんなに仲も良くなかった……。だからあの日、私たちは先生と別れた後、その夜だったかな、旅行先のホテルで大喧嘩になったんです。きっかけはなんだったか、私自身、しっかりと覚えているわけじゃないんですけど……。私、実は最初から乗り気じゃなくて、なんか不吉な予感も抱いてました。その予感って、たぶん当たってたんです。私はあの旅行を終えてから、三人とはほとんど会っていません。恵美と一度会っただけで、でもその時は喧嘩のことなんて話せる状況じゃなくて。謝りたい気持ちはあるんです」

「んっ……? 人生相談だったの? 謝りたい気持ちがあるなら、謝るのが一番だと思うかな、私は。それとあなたの死にどんな関係があるの?」

「いえ、そうじゃないんです。もう会いたくても、誰とも会えないんです。だって三人とも死んでしまったんですから」

「死んだ、と?」

 私は事前に用意していた新聞記事と週刊誌の切り抜きを取り出すと、机の上にそれを並べる。その途中に、先ほどのコウと名乗った助手の青年が戻ってきて、私と先生の前に水色の液体の入ったグラスを置く。口に含むと、それは味から判断する限り紅茶のようだった。ただ私は紅茶の類に詳しいわけでもないので、種類や名前はさっぱり分からない。ただなんとなく高級なものなんだろうな、というのは想像がつく。

「美味しい?」

「は、はい。紅茶に詳しいわけじゃないですけど、これ、かなり高級な感じが」

 申し訳なさを含めて私が言うと、先生が首を横に振る。

「大丈夫、気にしなくていいのよ。私はお金に困っていないから」と先生がひとによっては憤慨しそうなことを何気ない口調で言った。「紅茶はリラックスにちょうどいいからね。そういうものに、ちょっとしたお金を惜しんではいけないのよ。それで話を戻すけど、この新聞とかの切り抜きは?」

「私が集めたものです。例えばこれを見てください――」

「あっ、ちょっと待って、いつも最初に聞くことを忘れていた……。あなたの家族構成を聞いてもいいかしら」

「家族構成……ですか?」

「いえ、ね。心霊相談にしても人生相談にしても、やっぱり家族って、切り離せないものだから。それが良いものか悪いものか、そのどちらにしても、ね」

「そう……、なんですね。いまはひとり暮らしですけど、実家には父と母、あと双子の姉がいます」

「双子の、ね。あぁごめんね。じゃあ話を戻そう。じゃあ今度こそ切り抜きについて教えてもらってもいい?」

 その切り抜きは週刊誌の一部だ。和歌山のローカルタレントが絞殺された、という文章が載っている。被害者の名前は清水咲……もちろん彼女は同じグループにいた咲のことだ。彼女は高校時代から地元でタレント活動をしていて、週刊誌の文章には、地元では有名な、と誇張された表現が使われているが、咲は別に有名でもなんでもなかったし、高校の頃も仕事が多忙で学校に来られなくなるなんてことはなく皆勤賞だった記憶がある。

 長崎に行った時、ちょうどそのタレント活動の話が出て、ようやく彼女がタレントだったことを思い出したくらいだった。

 ただ本人は自分が他のひとよりも秀でた、選ばれた人間だ、と強く意識しているようなところがあり、言葉遣いは丁寧で、はっきりとそう口にするわけではないものの、周囲をどこか見下している雰囲気を外に放っていた。

 自宅へ帰る途中、夜闇の中で突然襲われた咲は首を絞められて殺されてしまった。あの旅行から三か月後のことで、犯人はいまだに捕まっていない。その週刊誌に書いてある情報によると、彼女には恋人だった地元テレビ局のアナウンサーがいて、別れ話がもつれた上での出来事だったのではないか、と警察に疑われていたらしい。とはいえ証拠がなく、逮捕されることはなかったみたいだ。

「ふむ……じゃあ、残りのふたつの記事も、そういうことよね」

 私は頷く。

 次に私は新聞記事の切り抜きを指差す。〈篠塚市女性刺殺事件〉と書かれたその事件の被害女性の名前は大倉早苗となっている。篠塚市は和歌山県の地名で、そこには私たちの通っていた高校がある。

「早苗は仕事が終わって帰宅の途中に背中を刺されたそうです」

「この記事には、捜索中、ってなっているけれど、そのあと犯人が捕まったり……はしてないのよね」

 聞くまでもないか……という表情で先生が頷いている。

「咲の次が、早苗でした。だから不安になったのもあって、早苗とその頃にもまだ付き合いのあった学生時代の知り合いを頼って、私、事件のことを聞き回ったんです。あくまで噂の域は出ませんけど、疑われていたのは早苗のストーカーをしていた男だったみたいです」

 私はすこし嘘をついた。

 実際に私がその早苗の知り合いたちから聞いた話によると、ストーカー、というか、相手にしつこく付き纏っていたのは早苗のほうだったらしい。そのトラブルの果てに、反対に彼女が刺された、というのが、早苗の周囲が想像する事の顛末だったみたいだが、話の中にでてくる早苗の評判があまりに悪すぎて、真に受け過ぎないほうがいいと思っていた。嘘のように思える話で、わざわざ彼女の名誉を貶める必要はないだろうし、それに私の知る生前の早苗はいつも男性関係が派手で、恨まれる姿のほうが想像が付きやすかった。

「ふぅん。でも、まぁ……その男は犯人ではなかった、と」

「アリバイがあったそうですよ。通り魔だったのかもしれませんね」

「切り抜きはこれで終わりだけど……」

「最後はこんなに大きく報じられる死ではありませんでしたから」

「教えて」

 早苗の死について聞き回っていた時、最後に会いに行ったのは恵美だった。私も不安は大きかったが、恵美の怯えはそれ以上だった。私の顔を見た瞬間、死ぬのが怖い、と泣き出して、疑心暗鬼になっているのか私からつねに距離を取ろうとしていたのを覚えている。

 こんな短い間に同じグループにいた人間が、ふたりも死んでいるのだから、それは当然の反応に思えたが、私は恵美のそんな姿を見ながら、変な感情になってしまった。学生の頃、恵美はいつもノストラダムスの大予言でみんな死ぬんだから人生なんてどうでもいいじゃないみたいなことを言っていて、その世紀末を過ぎても生きていたんだから、なんで生にしがみつこうとしているんだろう、と不思議な気持ちを抱いてしまったのだ。

 そんな恵美も、そのあとすぐに死んでしまった。

「転落死だったそうです。不審死、と言ったらいいんでしょうか。これだけはまだ自殺なのか殺人なのかも分かっていません。でもふたりが亡くなったあとに恵美と会っているんですが、あんなに死に怯えていた恵美が自ら死を選ぶでしょうか?」

「私はその恵美ちゃんの怯える姿を見ていないから、なんとも言えないけれどね」

 そして最後に残ったのが、私だ。

 半年くらいしか経っていないはずだ。あの旅行からその短い期間に、私たち四人グループの内、三人がいなくなってしまうなんて……。

「助けてください」

「誰を、助ければいいのかしら?」

 先生の声音は静かだった。

「何を言って……だって私たち四人の内の三人が死んでしまっているんですよ。どう考えたって、次は私、としか……」

「何を言ってるの?」

「何、って……」

 私は先生の言葉に怖くなって目を逸らすと、その視線の先には助手の少年がいる。その瞳の奥に私を哀れむような色がある。

 やめろ……、そんな目で私を見るな……。

「四人とも、もう死んでいるんだから。救われるべき人間は、その写真の中にはいないのよ。まだ思い出せないの?」

「やめて……」

「三人が死んで、現世にしがみつく理由がまだあなたにある? 本当に姉を大切に想うなら、早くお姉さんの中から出て行きなさい。自由にしてあげなさい。救えるのは、あなただけよ」



「ベッドに寝かせてきました。多分、当面は起きないんじゃないでしょうか?」

「そう……。力仕事ありがとう。コウ。あなたもだいぶ頼りになってきたじゃない」

 先生が僕の言葉に、にこやかにほほ笑む。その笑顔がどうも苦手な僕は、さっきまで先生と彼女が対面していた机の上に目を向け、先生の顔は絶対に見ない。

「この新聞と週刊誌の切り抜きはどうしましょうか?」

「何、言ってるの。ゴミは捨てるに決まっているじゃない」

「いや……でも……、あ、いえ、そうですね。それにしても、先生はいつから気付いていたんですか? あのひとが、渚さんではない、って……」

「最初から違和感はあったね。私の力を舐めちゃだめよ」

「すみません……」

 まるで何でも屋のように、いくつもの役割、職業を兼ねているからか、先生はうさんくさい人間と思われがちだが、ひとつひとつの能力は本物である。気軽に疑える先生をよく知らないひとたちが羨ましい。長く間近で見てきた僕には、もう疑いたくても疑うことができない。

「大好きな家族に憑くなんて、渚ちゃんもそんなひどいことはやめてあげればいいのに」

「あれ、大好き、なんて言ってました?」

「旅行が一緒になった時、渚ちゃん、お姉ちゃんに憧れている、って言ってたからね」

「よく覚えていますね。さっきは記憶が曖昧な振りをしていたんですか?」

「まぁね。私は記憶力には自信があるの。渚ちゃんのほうは、本当に記憶が曖昧になっていたみたいだけど、彼女たちに会ったのは、たった一年前のことだから。まぁでも実を言うと、本当に渚ちゃんに姉がいるのか、もしかしたら私の記憶違いかもしれない、って、ほんのちょっと不安な部分もあったから、念のために家族構成を聞いたりして、それで確信したの」

「彼女に、何があったんでしょうか?」

「最初に死んで悪霊となった渚ちゃんが残りの三人を死に追いやったのだから、まぁあの三人が、渚ちゃんを殺したんでしょうね」

「でも、仲の良いグループだったんですよね?」

「あぁそうか、コウはちょうど紅茶を取りに行っていたから知らないだろうけど、渚ちゃんの霊……お姉さんなのか渚ちゃんなのか混同しちゃうから、そういう言い方にするね。渚ちゃんの霊自身も認めていたよ。仲が良いわけじゃない、って。私が会った時の印象も、上辺だけ仲が良いグループ、って感じだった。導火線に火が点くのを待つような関係、というかね。いつ爆発してもおかしくないような」

「旅行先で、ひと……それも、たとえ関係が良好ではないにしろ、一応は友達になる相手を殺すような出来事って、いったいどんなことがあったんでしょうか?」

「ひとがひとを殺す理由なんて、他人が聞けばたいしたことのないものばかりよ。それは、ね。コウ。あなたもよく分かっているはずでしょ」先生が意地の悪い表情を僕に向ける。僕が何も答えずにいると、彼女はくすりと笑って、話を続ける。「ごめんごめん。まぁなんとなく想像は付くけど、つまらない理由よ。想像が付かないなら知る必要もないこと。まぁでも今回の一番の被害者は渚ちゃんのお姉さんね、間違いなく。本人の知らぬところで加害者になってしまう、というのは本当に可哀想だ、と思う」

「ということは、やっぱり実行犯、というか、実際に殺人に手を染めたのは渚さんのお姉さんなんですね」

「幽霊そのものは人の首を絞めたり、刺したり、あるいは突き落したりはできないから、ね。だとしたら犯人はお姉さんの肉体を操った渚ちゃんと考えるのが妥当かな」

 先生はそこで話を終わらせるつもりだったのか、ふぅ、とひとつ息を吐いたが、僕としてはまだまだ腑に落ちないところは多い。

「なんで、お姉さんの肉体に憑いたのでしょうか?」

「まだ続けるの? そんなの、本人しか分からないに決まっているでしょ。どうしたの急に探偵にでもなりたくなった?」

「探偵になりたい、と思ったことはないですが、探偵助手の役目を担うことはありそうですからね。先生の推測を教えてください」

「さっき頼りになってきた、って言ったけど、前言撤回。生意気、のほうが適切ね。最近、どんどん生意気になっていくね。それに中学生の子たちと同じ年齢とは思えないくらいに大人びてきたし……」

「学校も行かず、先生とばかり一緒にいたら嫌でもこうなります。同じ先生でも、学校の先生とは違って、毒のあることしか教えてくれませんからね」

 さっきの意地悪への仕返しを込めた冗談に、先生は楽しそうに笑った。

「本当に生意気だ。……まぁ行方を消した妹の消息を追う姉の執着心と悪霊になった妹の復讐心がシンクロしたんじゃないかな。離れて暮らしている、とはいえ、可愛い妹と長く連絡が取れなければ、必死に探すだろうしね。彼女たち姉妹の仲の良さまで私は知らないけれど、もしかしたら意外と復讐には姉自身の想いも重なっているのかもしれない。可愛い妹の復讐心が自分の肉体と心に宿って、それで霊に乗っ取られやすくなっていた、みたいなね」

「最後にひとつ……、渚さんの霊にひとを殺した自覚はあったんでしょうか? どうもそんなふうには見えませんでした」

「もちろん気付いてなかったでしょうね。気付いていたら、ここに来るわけないでしょ。除霊してください、って言ってるようなものよ。いや消える瞬間にもしかしたら思い出したかもしれないけれど、そればっかりは推測もできない。残念ながら、ね」

「そもそも、なんでここに――」

「はい、最後の質問はもう終わったはずよ」

 と僕の言葉をさえぎって、先生が部屋から出て行く。

 偶然、旅行先で一緒になった先生は、もしかしたら彼女たちの間に流れる雰囲気に気付いて、そっと背中を押したんじゃないだろうか。人間には理性がある。その理性を払うような言葉を囁いたのではないだろうか。僕の知る先生は、そういうことを平気でする人間だ。

 悪魔が、殺せ、と耳打ちするようなイメージがふいに浮かぶ。

 やめておこう……。どうせ先生が真実を教えてくれるはずなんてないのだから、考えるだけ無駄だ。


 その夜、僕は夢を見た。目まぐるしく場面は切り換わり、それはひとりの人間が死にいたる過程を表していた。


「私、いまの彼氏と結婚しようと思ってるの」「ねぇ渚の奴のあの話……社長の息子と結婚する、って……、しかもあんな有名な」「馬鹿にした言い方だったよね」「うん。絶対に私たちのこと見下してた。私たちがあまり彼氏とうまくいってない、って聞いた途端、あんな話するなんて」「早苗……、別に渚だって悪気があったわけじゃ」「悪気しかないよ、あんなの」「恵美まで……」「正直に言ってよ、咲。あんな小馬鹿にした顔で彼氏の自慢してきて、むかつかなかった?」「それは……」「知ってるからね。あんただって、そんなふうに言ってるけど、高校の時、自分をよく見せるために、渚をそばに置いてたこと。事務所のオーディション、渚を無理やり一緒に参加させてたのも知ってるよ。引き立て役にされた、って――」「それ、渚が言ったの?」「まぁ、ね」「あいつ、黙ってろ、って言ったのに」「ほら、本性、表した」「あいつはそういうやつなのよ」「自分をわざと一番下に見せておいて、陰では私たちを馬鹿にしていたのよ」「初対面のあの先生なんて、たった数時間しかいなかったのに、あなたたち仲悪いの、なんて聞いてきたくらいだからね。あいつがいない時の私たちはそんなことないのに、あいつがその輪に入ると、いつもそう」「私たち三人は仲良いよね?」「もちろん」「悪いのは、全部あいつ。あいつさえいなければ、私たち三人はうまく行く」「ねぇ、どうするの。早苗」「もちろん決まってる。調子に乗った下っ端の末路なんてね」「それ、って……」「そんな不安そうな顔はしないで、咲。大丈夫、絶対に失敗なんかしない」「でも、いくら嫌いだから、って……」「でも、さぁ」「何よ、恵美」「こんな話聞いちゃって、逃げられると本当に思ってるの? 同じ目に遭っちゃうかもしれないよ」「いや、別に逃げるなんて……」「本当に大丈夫、大丈夫だからね、咲。絶対にばれないから」「……分かった」「準備、できたよ」「ねぇ恵美」「何よ。もう咲がすることなんて何もないんだから、後はゆっくりと待ってたらいいよ」「恵美、って私たちと違ってさ、中学の時から渚と一緒にいたわけじゃない。なのに、……いいの?」「何が? 一緒にいたけど、ずっと嫌いだったからね。ほら、いまも私、笑顔でしょ。嬉しくて仕方ない」「ねぇ、早苗。私、もうこれが終わったら、恵美とは関わりたくないな」「私も、同じ気持ち。あれは、ちょっと……」(ん…。うん……ここ、どこ。わっ。土。何、これ。身体が動かない。あれ、なんで恵美、そんなに高いところにいるの。やめてっ、土を落とさないで。なんでなんで、そんなことするの。なんで、笑ってるの。早苗まで。やめて。声が出ない。う。苦し、苦しい。咲、なんで悲しそうな顔してるの? そんな顔するくらいなら、助けてよ……助けろよ。なんで、なんでよ。……許、さ、な、い。お前たち、絶対に許さない、から……)



 第二話「怪物のいた村、1997」


 その女性は、はじめて会った時から、先生、と呼ばれていた。

 本名を知っているひとはほとんどおらず、長い月日を仕事仲間として一緒に過ごした僕でさえ、その名前を知ったのは、だいぶ後になってからだった。

 彼女は老いとは無縁なのかな。先生を指してそう言ったのは、先生とも交流があった、いまは亡き僕の友人だが、関わりがすくないひとなら分からないくらいの変化にも、これだけ一緒に長くいれば、すぐに気付けるようになる。重ねた年齢は、先生の精巧な人形を思わせる顔にも間違いなく表れていた。

 初めて先生と会ったのは、1997年の秋頃のことで、僕は田舎の寂れた村に住む少年だった。

 生まれは東京だったが、物心が付いた時にはその村にいたので、東京が出生地であることのほうがしっくりとこない。

 福井県栗殻村という人口が1000人にも満たない小さな海沿いの村に、先生が何の用で訪れていたのかはいまだに知らないが、僕は母から先生のことを占い師と紹介されたので、最初の頃はそう信じて疑いもしなかった。

 両親が嘘をついたわけではなく、先生の職業が占い師である、という言葉は何も間違ってはいない。ただ、占い師である、ということは、先生について語るうえで必要なほんの一部でしかなく、それだけでは足りなさすぎる。カウンセラー、占い師、探偵、奇術師、超能力者、霊媒師……多くの資質を兼ね備えていて、つねにその場に合った役割を演じることができる先生にとって、すべてがそうであるとも言えるし、すべてが違うとも言えるのだから。

 先生が最初に僕に放った言葉を、いまだに覚えている。

 当時、小学生だった僕が家に帰ると、居間に先生だけがいて、じっと見つめられた僕はその別の誰かでは置き換えることもできないような美しさに思わず息を呑み、そんな気持ちを知ってか知らずか、目を逸らすこともなく、僕の頬に手を当てて、

 呟くように、

「憎しみは心の奥底に秘めておきなさい」

 と言ったのだ。

 その言葉を聞いて、僕は会って間もないこのひとには何をやっても敵わないのだ、と本能的に悟ってしまった。

 これは小学生の頃に母から聞かされたのだが、僕は物心つく前の幼い頃から、手の掛からない子どもだったらしい。もちろん僕自身はその時期のことをまったく覚えていなくて、どれだけ掘り返しても見つからない記憶なので、らしい、と付けるしかないのだが、その母の評価にはとても腑に落ちるところがある。周りの顔色をうかがってばかりいる小学生だった僕の性格が、それよりもさらに幼い頃や生まれつきのものだったとしても、驚くような話ではないだろう。

 そんな他人を気遣う姿は周囲から気弱だと思われたかもしれない。実際に気弱な性格だったことは間違いないが、そう見える多くの人間にも粗暴だったり、悪辣な一面がある。僕だけが例外なんてことはない。その奥底に秘めたものが、ある日いきなり噴出するのではないか、と僕自身、怯えているところがあった。

 初対面の相手にそれを見透かされたような気がしたのだ……。

 僕は、先生が栗殻村に滞在している短い間に、その怒り、憎しみを爆発させてしまうのだが、その出来事を語るうえでも、僕自身についてもっと詳しく話す必要がある……、とはいえ僕は先生ほど恵まれた記憶力を持っているわけではないので、自然と記憶はぼやけたり、美化されたりしていることだろう。本当のあの頃の僕たちの会話はもっと無茶苦茶で、こんなにも大人びてはいなかったはずだが、そのくらいは許して欲しい。

 人間、なのだから。



 行動範囲の限られている多くの小学生にとって、家と学校だけが世界である、とまでは言わないが、知らないことを知ることさえもできない非常に狭い世間での生活を強いられている場合が多いのは間違いないだろう。すくなくとも僕はそうだったし、その世界を一緒に過ごしたクラスメートたちも僕にはそう見えた。

 だから学校というのは、良くも悪くも特別で、それがつらかったら最悪だ。

 その環境がつらかったら逃げればいいんだよ。簡単な話だ。

 そう言っていたのは誰だっただろうか。先生だった気もするし、友人の小説家だったかもしれないし、知り合いでさえもなく、テレビ番組か何かで見ただけのような気もする。

 学校に嫌気が差したら逃げればいい。

 言葉だけが記憶の中に残っているそれが間違っているとは思わないが、正しいとも感じない。小さな世界から大きな世界へと誘ってくれる誰かがいなければ、そもそも逃げることができないからだ。もしも独力で世界から逃れるすべがあるとすれば、それは、死、くらいだろうか。

 その頃の僕は学校に嫌気が差していて、つまり僕は世界を憎んでいた。

 僕の通っていた栗殻小学校は全校生徒を合わせても100人足らずで規模が小さく、村に小学校はひとつしかなかった。容易に場所を変えられる環境ではなかった。そんな小さな小学校では、当然クラス替えが行われることもなく、見たくない顔を視界に入れながら毎日を過ごしていかなければならないのだ。

「どうしたの、その顔?」

「転んだんだ」

「転んで、そんな顔になる?」

「なったんだから、仕方ないだろ」

「ふぅん」

 母親と何度そんな会話になっただろうか。もちろん母は僕の言動を嘘だ、と気付いていたはずだが、最後まで素っ気ない態度を取り続けた。これは決して母が僕に無関心だったわけではなく、そう反応するしかなかったのではないか、と思っている。もちろん母の本心は分からず、いまとなっては聞くこともできないほど疎遠になってしまったので、推測するしかできないのだが……。母のほうも自分の置かれた状況に抗うのに必死で、僕の問題を背負い込める精神ではなかったはずだし、自分の抱える問題が僕の問題を引き起こしているのでは、という不安や恐怖もあったかもしれない。

 敵意。蔑視。嫉妬。

 子どもの世界で起きる問題のすべては、大人の世界でも起こることだ。苦しんでいるおとなに苦しい、と助けを求めることはできない、と子どもながらに漠然と僕はそんな想いを抱いていたように思う。

 年齢の割に冷めた思考だとは思うが、諦めに近い気持ちもあったのかもしれない。いまになって思い返してみると、それが一番しっくりとくる。

 閉鎖的な場所では、多数の憎しみや怒りがひとつの対象に集まることが、ときに娯楽になったりする場合がある。

 いまとなっては、まるで他人事のように語ってしまえるが、はっきりと言葉にすれば、僕はいじめられていた。

 罵声を浴びせられたこともあれば、小突かれたり蹴られたりも、もちろんあった。それもじゅうぶんに痛いし苦しい。でも慣れは、そのうちにもっともっと、と刺激を欲しがりだして、ズボンを脱がされて隠されたこともあったし箒でチャンバラと称してこめかみのあたりを強く撲られたこともある。

 そして何よりも強烈な印象に残っているのが、あの水責めの一件だ。語らなくて済むなら語りたくないが、先生を、そして僕を語るのなら、やはり避けては通れない。



 あの日、放課後にクラスメート三人からトイレに呼び出されたのが、はじまりだった。

 彼らはいわゆる主犯グループと呼べる存在で、その三人は同級生の中でも特に体格が良かった。この時の僕たちは小学校五年生だったが、彼らは六年の先輩たちからも怖がられていた印象がある。洗面所の前に僕は立たされ、排水溝の部分にノートを破って丸めた紙が無理やり詰められているせいで、溢れ出しそうなほどの水が洗面器に溜まっていた。内のふたりに後ろから身体を固定された僕は、残ったひとりに後頭部を掴まれると張った水の中に顔を押し付けられ、どれだけもがいても、僕を押すその手は離れてくれず、意識は失う寸前だった、と思う、もう抵抗もできないような状態になった頃にようやく空気が鼻と口に入り出し、ふらふらになった僕を見ながら、三人が笑っていた。

「殺したら、犯罪になっちまうからな」

 と言ったのは、僕の頭を押し付けていた三人組のリーダー格である岩肩剛だった。殺さなくても、この行為は犯罪以外の何ものでもない。それでも残念ながら、喧嘩、嫌がらせ、いじめ……と法の手の届かない形に名前が変えられていき、注意や警告に留められてしまうのが、学校という空間の怖いところだ。

 僕はこの三人を恨んでいて、特に岩肩に関しては自らの手で殺してやらなければ気が済まないほどに憎んでいた。

 他にも僕への攻撃に加担している生徒はいたが、他の生徒には、実はそれほど恨みや憎しみを抱いていなくて、それは時間を経たいまだからそう思う、というわけではなくて、当時からその三人以外への怒りは薄かった。

 これはただの持論でしかなく別に周りから理解してもらおうとも思っていないが、最初から、いじめる者、いじめられる者、という役割を持って生まれてくる場合なんてほとんどなくて、その環境や関係に応じて、その場での役割が変化していくものだ、と僕は考えている。誰かにいじめられていた者が、どこかで別の誰かをいじめている、なんて、そんなのめずらしくもない話だ。

 いや……これもはっきり言ってしまおう。僕自身もかつて別のいじめに加担していたことがある。

 復讐心を募らせれば募らせるほど、僕は怖くなった。

 同じぐらいの憎しみが僕にも降りかかってくるのではないか、と。その不安と恐怖が噴き上がりそうになる怒りをなんとか鎮めてくれている気さえした。

 でも岩肩たち三人に関してだけは話が別だ。限度を超えている。

 死んでほしい、なんていう感情では足りない。感情の奥底で強まっていく火が、ばちばちと音を立てて爆ぜながら、外へ、外へ、と叫んでいた。理性という水がガソリンにでも変わった時、僕は彼らを実際に殺してしまうかもしれない……、という、その想像は恐怖であり、仄暗い愉しみでもあった。

 僕は僕以外の人間の内心なんて知らない。だけどこれは本当に僕だけの特殊な考えなのだろうか。

 先生、と出会ったのは、そんな水責めの一件から二週間ほど経った頃だった。

 そんな状況の中での出会いだったからこそ、

「憎しみは心の奥底に秘めておきなさい」

 という言葉は鮮烈な印象として僕の記憶に強く残った。

 すこしでも時期がずれていたとしたら、ここまで感情を揺さぶられることはなかったはずだ。僕の頬に手を当てながらそう呟き、僕をじっと見つめる先生はあの時、何を考えていたのだろうか。

 僕たちの出会いは特別だった。すくなくとも僕はそう思っている。

 そして先生にも初対面の時から、他とは違う何らかの想いを抱いていて欲しい、と考えてしまうのは自然な感情のはずだ。ただ、僕たちが当時のことを話す機会はいまのところはまだ訪れていない。

 先生の言葉に反して、僕の第一声はごくごくありふれたものだった。

「あの……、あなたは?」

「私? あなたに名前を教えるのはまだ早いかな。とりあえず、私のことを多くのひとは、先生、と呼ぶ。だからあなたも、先生、と呼びなさい」

 先生の本名を知ったいまも、僕は彼女のことを先生と呼んでいる。名前を呼ぶ、という行為が、彼女の絶対に踏み込んではいけない領域に足を入れることになる気がして、その覚悟がまだ付かないからだ。

 いまでも考えてしまうことがある。もしも僕が先生と出会っていなかったら、あの日、誰も死ななかったのではないか、と。いや、先生はあの事件に直接的な関係があったわけではないのだが……。

 先生はそうなる未来をすでに知っていたうえで、敢えて僕に、

「憎しみは心の奥底に秘めておきなさい」

 と言ったのかもしれない、なんて、そんな想像が頭に付いて離れない。

 考え過ぎだとも思うが、それでも、いやだからこそ先生のあの時の本心を知りたくなってしまう。まぁもしかしたら、考え過ぎだよ、私の能力はそこまで人間離れしてない、とそんな言葉を先生の口から聞きたいだけなのかもしれない。



 その頃はまだ知らなかったことではあるが、先生はいくつかの業界において名の通ったひとだ。

 間近で彼女の仕事ぶりを見てきた僕が、いまとなって不思議に思うのは、なぜ彼女が、北陸にある田舎の寒村を訪ねてきたのか、ということだった。先生はフットワークの軽い人間なので、おかしい、とまでは言わないが、こんな旅行者を惹きつける観光的魅力もなく、先生の依頼者になりそうなひともほとんどいなさそうな場所よりも、どんな目的であれ、もっと先に行くところがあるだろう、と思ってしまうのだ。まぁ仕事で偶然この辺りに来ていて、母と親交を深めたのをきっかけに家に招かれた、と考えるのが、もっとも自然だろうか。

 先生は、相手、場所、状況によってつねに自身の役割を変えるが、母にとっての、先生、は最初から最後まで占い師だったはずだ。母は自身の悩みを親身になって聞いてくれるひとに依存しやすい傾向があり、そんな母が先生と親密な関係になってしまうのは自然なことに思えたが、そういうところこそ母が周囲から嫌われていた一番の原因だったに違いない。

 先生は人知を超えた力を持っている。

 さすがに長く一緒にいると、先生の持つ能力が本物である、と分かってくるが、それでも一般的に言えば先生はおそろしくうさんくさい人物であり、まだ子どもであった僕でさえ最初から無条件に先生の力を信じ込んだわけではなく、懐疑的に思っていた時期はそれなりにある。

 でも母はすこしの対話で、先生を妄信するような態度を取っていた。

 先生と僕がふたりだけ、という違和感しかない空間の気まずさを破るように家に帰ってきた母の先生を見る目と、明らかに上下関係の見えるふたりの会話のやり取りにも感じたし、そもそも大して関わりの深くない相手を自宅にひとり残して出掛けてしまえる態度なんて、相手を信じ切っていなければ取れないものだ。

 こういう母が、僕は大嫌いだったし、すべてと言うつもりはないが、僕が周囲から攻撃される一因になっているのは間違いないように当時から感じていて、本当にやめて欲しい、と思っていた。

 先生とのことはいったん置いておくにしても、例えば母は市内の、もう名称も忘れてしまったが、なんたら教、という感じのいわゆる新興宗教、それもかなりいかがわしい雰囲気の団体での活動に熱心だった。先生のパートナーとして働く現在の僕の仕事もじゅうぶんにいかがわしいので、ひとのことを言えた義理ではない、と分かっているが、母の話を聞く限り、どう考えても詐欺に引っ掛かっているだけにしか思えなかった。父とはこの件でよく喧嘩になっていたのも知っている。

 当時は地下鉄サリン事件が起こって、そんなに時間も経っていない頃だったので、母の活動に対する周囲の目は特に冷たかった。

 母は周囲から受ける嫌がらせの原因を、余所者、特に都会の出身だから、と考えているようだった。もちろん閉鎖的な環境では余所者であることが嫌われる原因にはなりやすいし、きっかけは間違いなくそうだったのだろう。だけど、それはただのきっかけのひとつでしかない、と思っている。

 あそこの子とは仲良くしちゃだめよ……。

 実際にそんな言葉があったのかどうかは知らないが、嫌われる、というのはたったひとりに降りかかるばかりではなく、近しいひとにも繋がっていくものだ。

 だから僕は母の行動を憎んでいたし、母が変わることを願っていたが、僕が母と過ごした間に、それが叶うことはなかった。

 そして変わったのは母ではなく、僕だった。



 どんなに憂鬱でも学校は急になくならない。たまに校舎が爆発して消し飛ぶ夢を見ながら、目覚めとともに、がっかりすることもあった。

 水責めの一件以降は、さすがに岩肩たち三人もやり過ぎてしまった、と感じたのか、もちろん彼らの本心など僕には分からないし、知りたくもないが、鳴りは潜めていた。急にふと日常を取り戻して落ち着くこの感覚は過去に何度か経験があり、だから僕は何ひとつ安心できなかった。他者を傷付ける行為が日常的になると、そのうちに異常に満ちていた日常に慣れだし、それがさらなる過激さに繋がっていく。その過激さはだんだんと増していくが、どこかの段階で歯止めの掛かる瞬間がある。やり過ぎてしまった、という後悔や不安が顔を出すのかもしれないし、あるいはすべてがどうでも良くなったように冷めてしまうのかもしれない。

 この静けさは、気軽に安心してはいけないものだ、と僕はその時点で過去の体験から知っていた。

 すこし時間が経つと、また彼らの嫌がらせ熱は再燃する。

 先生と初めて会った日から、二週間ほど経っていた。水責めの一件からは一ヶ月近く経っていたわけで、確かにいまの彼らは鳴りを潜めているが、そんな一時の平穏で僕の憎しみは消えない。それどころか、あんなひどいことまでしておいて、見た目には何事もなかったかのように振る舞える彼らの様子に、僕の中にある憎しみは強まる一方だった。

 その過程で何度も、

「憎しみは心の奥底に秘めておきなさい」

 という先生の言葉が頭に浮かんだ。

 でもそれは僕の怒りや憎しみを減らすためではなく、その逆、背中を押す役割を果たしていたように思う。

 僕が先生と初めて会った日から半月が経つその間、先生が僕の家に頻繁に訪れていることは母の口を通して知っていたのだが、僕が先生と顔を合わせたのは、あの初対面の一度だけだった。

 もう一度、会いたい……。

 彼女の存在には、僕を変えてくれる何かがあるような気がした。なぜそんな風に思ったのかはうまく言葉にできないのだが、彼女の印象がそれほどに強烈だったことは間違いない。そしてふたたび彼女と出会ったのは、僕の家ではなく、家までの帰り道の途中で、彼女と一緒にいたのは岩肩だった。

 僕はふたりの姿を見て、とっさに隠れたくなったが、時すでに遅し、というか、

「あらっ、こんにちは――」

 と先生が僕の姿に気付き、その声で僕の存在を認識した岩肩が僕に冷たいまなざしを向けていた。

「こんにちは……」

 岩肩が近くにいるので、どうも緊張感を覚えてしまい、僕の挨拶の言葉はひどく音量の小さいものになってしまった。岩肩はそれが気に入らなかったのか、わざとらしい舌打ちをして、ふんっ、と僕と先生に背を向けて遠ざかっていった。

「あらら、怒っちゃったね」

 あらら、というわりに困惑ひとつしていないような口調で先生が言った。

「いいの?」

「何が?」

「だってしゃべってたんじゃ……」

「もう話は終わったみたいなものだったから、大丈夫」

「岩肩くんと知り合いだったの?」

「いやぁ、今日初めて見た子だね。あの子は面白いね。見どころがある、というか、そういう意味では、あなたにすこし似ているところがあるかもしれないね――」

「そんなことない」

 とさえぎるように、僕は先生の言葉を否定した。その言葉に、僕はふたつの意味で嫌な気持ちになり、ひとつの意味ですこしだけ嬉しい気持ちになった。

 見どころがある、と岩肩を評価していることと、その岩肩に似ていると思われたことは不愉快だったが、ただ彼女の言葉は、僕にもなんらかの見どころを感じている、という意味にも取れる言い方だったので、それは純粋に嬉しかった。

「ごめんごめん」僕の反撥する言葉に、先生は謝る気のない謝罪を二度繰り返す。「私は仕事の合間を使って、ちょっと探しもの……、というか探している相手がいるの。まぁその一環としてあの子には声を掛けていたんだけど、やきもちを妬かせてしまったかな」

「違う」と返した僕の顔は赤くなっていただろう。それを隠すために、僕はすぐに言葉を続けた。「どんなひとを探してるの?」

「怪物。私は怪物をずっと探しているの」

「怪物……?」

「そう、怪物。もしも見つけたら、私に教えてね」

 そう言って先生が、ふふ、と意味ありげに笑って、じゃあね、と僕に別れを告げた。

 その時の僕にはまったく意味の分からないものだった。最初に、怪物、という言葉を聞いて僕の頭に浮かんだイメージは、当時テレビで偶然見たビッグフットの姿だった。インチキなのか本物なのか、と口論しているクラスメートがいたのを覚えていて、僕自身は本物だったら夢があって楽しいなぁくらいに思っていた怪しさ満点の獣こそ、まさに、怪物、という呼び方にふさわしい存在に思えた。ただもちろんいまとなっては先生の言う怪物が、そんなUMAの類でないことなど知っている。もっと身近で、怖いもので、僕はこの後すぐに先生の求める怪物と対峙することになる。

 三日後の、それもこの日のように学校からの帰り道だった。



 岩肩が休みで、その日は朝から穏やかだった。

 リーダーの岩肩がおとなしいと自然と三人組の残りの二人も静かになり、僕にとっては落ち着いた環境だったにも関わらず、岩肩の休みを知ってから、何故か胸のざわつきを抑えることができなかった。

 委員会の仕事があって、放課後にすこし残っていたこともあり、学校が終わって外に出ると、まだ夜、と言える時間ではなかったが、細かな降り続く雨が景色を薄暗くしていた。

「三日前、みんなが帰るくらいの時間に、急に変なおじさんに話しかけられた女子生徒がいたそうです。別の学年の子で、特に何かされたわけではないとのことですが、とはいえ、いつ、誰が、危ない目に遭うか分かりません。学校が終わったら特に理由もなく残らずに、ひとりでの下校はなるべくしないようにお願いします」

 と、ホームルーム時に担任の先生が普段よりも感情を殺した口調で言っていた。残念ながら僕には一緒に帰る相手なんていなくて、クリーム色のレインコートを身に纏って、ひとり家までの道のりをぼんやりと歩いていた。

 こんな雨の日に変なおじさんに話し掛けられたら、どうしよう……?

 変質者だって僕なんかは狙わないだろう、とは思いつつ、すこし強まりだした雨に重くなる足取りと、思ったよりもはやい勢いで暗さが増していく空の景色を見ていると、不安な気持ちが顔を出し、無理にでも誰かに、一緒に帰ろう、と頼めば良かったな、と思ってしまった。

 変なおじさんがどんな外見をしているのかはまったく分からないのだが、不審者の話を聞いた時、僕は何故か三日前の先生から聞いた話を思い出していた。この、先生、というのは、もちろん担任の先生のことではない。ひどくややこしいのは分かっているし、確かにいまの僕は先生のフルネームを知っている。それでも、先生に本名を当て嵌めることが、どうもしっくりとこないのだ。

 怪物……、と先生が表現した存在の正体も僕が知っていたわけではないが、同じ時期に聞いてしまったせいで、僕は勝手に怪物と不審者を繋げて考えていた。だから僕の想像する不審者は、その頃にちょうどびくびくしながらも見入っていたジェイソンやレザーフェイスみたいな人間離れした凶悪殺人鬼のイメージだった。

 そんなことを考えながら歩いていると、ふと背後に違和感を覚えて、後ろを振り返ってみたが、そこには誰もいなかった。

 まぁ、いるわけないか……、

 と怖がっている自分に情けなくなりながら、また歩きはじめ、そしてふたたび違和感を覚えたのは、ほんの数分後、帰り道の途中にある公園の前を通り過ぎようとした時だった。

 ぱちゃぱちゃぱちゃ、と背後から駆けるような足音が聞こえ、慌てて振り返ろうとした僕の頭に強烈な痛みが走った。

「殺してやる――」

 意識を手放す瞬間、僕の耳に届いたのは声変わりもまだ終えていないような幼さの残る声だった。

 気付くと僕は公園のトイレの壁に背を付け、座らされていた。

「起きたか」

 と、見上げた先で岩肩が笑みを浮かべていた。



 酷薄な笑みを浮かべて僕を見下ろす岩肩の表情は、いままで想像してきたどんな怪物よりも僕に怪物を思わせた。彼は頭の中に描いていたどんな怪物よりも、小柄だったにも関わらず、巨大な化け物よりもずっと恐ろしかった。

「俺が怖い?」

「え、あ」

 と僕の口からは漏れるような音しか出てこなくて、首を横に振るしかできなかった。

「答えろよ……。いっつも、お前はそうだよな。俺の前だと、びくびくして。なぁ初めて話したの、覚えてる? 確か一年の時だよ。友達を作る自由時間でさ、俺が友達になろう、って手を出したら、すごい冷たい目で見てきて、どっかに行ったんだよな。お前みたいなやつが、俺に話し掛けるな、って感じだったよな。覚えてる?」

「お、覚えてない」

 そんなこと、あっただろうか、という以前に一年生の時の自由時間なんて何も覚えていなかった。

「そうだよ。やられたほうはいつまでも覚えてるもんさ。たとえばこの前の水のやつだって俺たちはたぶんすぐに忘れるけど、お前はずっと覚えてるだろう? それと同じだよ」本当にこれは岩肩なのだろうか、と思うほど、その時の彼は大人びて見えた。「あの頃、誰よりも偉そうにしてたのは、お前だったよな。三年くらいまではお前はいつも誰かを攻撃する側だった。俺は身長もでかかったから、標的にはならなかったけど、特に大木なんか――」

「やめてくれ!」

 僕のクラスにはひとり、不登校になっている生徒がいる。

「別にあれはお前だけが原因じゃないさ。でも、さ……。立場が変わった瞬間、いままでのことはなかったことにする。それって、ずるくないか。俺もお前も、大木も、立場が変わった瞬間、前の立場のことを忘れるか、忘れた振りをするんだ。卑怯だよな。俺にも腹が立つが、お前にはもっと腹が立つ。あぁ殺してやりたい、って」

 本当にあれは岩肩自身の言葉だったのだろうか。まるで誰かに操られていて、どこかで聞いた受け売りをそのまま口にしているようだった。

 誰か?

 それは、きっと……。

 なんとか立ち上がろうとする僕に、

 岩肩が飛び掛かってきて、レインコートごと僕の首を掴んだ彼の両手に絞められ、激痛とともに全身が熱くなる。その手に込められた力の強さに、僕は死の恐怖を感じた。怖い怖い怖い。それは水責めなんかとは比べものにならない。その手は明らかに僕を殺すために動いていて、どんどん力は強まっていく。

 嫌だ、死にたくない……。

「い、いわ、岩肩……!」

 嫌だ、嫌だ。……死ぬくらいなら。

 殺して……殺してやる――!

 僕は岩肩の股間めがけて、思いっ切り足を振り上げる。靴の先が掠めた程度でさほど痛みはなかったはずだが、予想外の反撃に彼の手の力が弱まったのに気付いて、僕は岩肩の顔面……目の辺りを思いっきり殴った。顔を手で押さえる岩肩を見ながら、自分の中に残る冷静な部分が、逃げるにはこれでじゅうぶんだ、と告げていたが、そんな冷静さなど、ほとんどわずかしかなく、僕の感情を支配する怒りと憎しみに抗えるようなものではなかった。殺せ殺せ殺せ。

 僕は岩肩の髪を掴むと、洗面所の鏡に向かって、彼の頭部を叩きつけた。

 鈍い音が響き、岩肩だったものが倒れ込む。

 だったもの、とその時点で判断してしまっていいほど、生きている気配がなかった。

 ひとはひとが思うよりも簡単に死ぬ。人間は勝手に自分だけは死なない、と思っているから、自然と他者もしぶとく生きられるものだ、と勘違いしてしまうが、死ぬときなんて、恐ろしく呆気ない。先生のそばで死が隣り合わせになった世界に身を置いた僕には、当たり前のことでしかないが、この時の僕はその事実が信じられなかった。

 殺しちゃった……。

 それが内心の呟きだったか、本当に口から出ていたかさえ分からない。死んだことが分かった瞬間、冷静さが増していき、現実的な恐怖に支配されるようになる。レインコートからは雨雫が垂れ、額からは汗がとめどなく流れ落ちてくる。

 僕はその場から逃げ出した。家を目指して、とにかく走った。その途中、僕は道端を歩くひとりの少年とすれ違った、それは久し振りに見る大木のような気がしたが、その場から逃げることにも精一杯で、顔をじろじろ見る余裕なんてひとつもなく、さらに雨の降る中、レインコートのフードをまぶかに被った状態では、どうもはっきりとしない。

 ただそれが誰にせよ、僕はすれ違いざま、その少年に、

 人殺し、

 と言われた気がして振り返ると、そこにはもう誰もいなかった。多分、幻覚で、幻聴だ。僕が人殺しだって、誰もまだ知るはずがないのだから。

「人殺し」

 と、僕は僕自身に呟いてみた。

 母が来るまで僕は、ただいま、も言わず、汚れたレインコートも脱がずに玄関で突っ立っているままだった。僕の顔を見た母は驚いた表情を浮かべていて、鏡を確認していないから分からないが、想像する限りよっぽどひどい顔をしていたのだろう。

「どうしたの?」

「何もないよ。本当に何も。ただ、転んだだけだよ」

 いつも通りの母への返事だ。だけど僕の声はいつもと違って、震えていた。



 その日を終えると、それまでの日常が崩れ、地続きではない非日常の明日が待ち構えていると思っていた。

 だけど翌朝になっても、僕の家に警察が訪ねてくることはなかった。いつもと同じように、母が、おはよう、と言って、父はもう仕事に出ていて、窓越しに見える家の前の通りには、足早に、学校や仕事へと向かうひとの姿がぽつぽつとある。

 何も変わらない、朝だ。

 いや昨夜の遅く僕が眠るまで降り続けていた雨は、すでに上がっていて、僕を見下ろす太陽はいつもより鮮やかに見えた。とても綺麗な空は昨日の出来事を嘘のように思わせるが、もちろんそんな都合の良いことはない。

 太陽は僕のためにあるのではなく、僕の想いや状況など関係なく、美しい時は美しい。

 僕は確かに岩肩を殺した、とこの手が覚えている。外へ行くのが怖い。学校が怖い。目に入る人間、すべてが怖い。いつもと同じ日常はもう壊れる時を待っているだけで、あとはそれがどのタイミングで訪れるか、という話でしかない。いっそ早くその瞬間が来てくれ、と思いながらも、自分から罪を家族に告白する度胸もなく、ただ待つことしかできなかった。

 その瞬間がやってきたのは、学校に着いてすぐのことだ。

 だけど僕を迎えた非日常は想像していたよりも、もっと歪なものだった。

「岩肩が行方不明になった、らしい」

 教室に入ると、岩肩の話題で持ち切りになっていて、だけどそれは岩肩が死んだ、という話ではなかった。行方不明になった、と聞かされた時、僕は自分の頭がおかしくなったのか、とまず自分自身の頭を疑い、次に考えたのが、彼が実は生きていた、という可能性だが、あの様子で生きているとは思えないし、仮に生きていたとしても病院に行くか、途中でまた倒れるか、僕に復讐しに来るか……、どんな形にしても行方不明にはならないだろう。

 トイレの死体がまだ見つかっていないのか、とも思ったが、この時間まで誰も公園のトイレを利用しないなんてあるだろうか。朝に、あそこを利用しているひとは意外と多い。僕は敢えていつもの通学路を避けて、公園を通らずにきたのだが、それを後悔するほど、いまの公園の様子が気になりはじめた。

 放課後になっても、僕を、人殺し、と糾弾する声はひとつもないままだった。

 僕は学校が終わると、誰よりも早く教室を出て、僕は岩肩を殺したあのトイレに向かう。公園には親子連れが二組、ベンチの辺りでのんびりと話しているだけだった。

 男子トイレに入ると、そこには誰もいなかった。死体もない。

「どうしたの?」

 と僕の肩が叩かれ、心臓がびくりと強く音を立てた。

 先生、だった。

「どうして……、ここ男子トイレ……」

 無理やり絞り出した声は震えていた。

「死体なら、私がもう片付けた」

 と先生は何でもないことのように僕に言って、ちいさく口の端を上げた。

「なんで……」

「なんで? でも私が片付けないと捕まってたでしょ。捕まりたかったのかな?」

 僕は首を横に振ることしかできなかった。なんで、彼女が僕の罪を知っている。なんで、彼女が死体を片付けた。なんで、トイレに僕が来るのと同じタイミングで現れることができた。この、なんで、には色々な意味が含まれていたが、先生を前にして具体的に説明する余裕なんて僕にはなかった。

「まぁ説明してあげるから、ちょっと付いてきなさいな」



 先生に連れられて、入った時とは反対の出入り口から公園の外に出ると、そこには黒いワゴン車が停めてあり、先生がまず運転席に乗り込むと、あなたも乗りなさい、と言うように運転席から僕に手招きをした。助手席のドアを開けて中に入ると、車内にただよう甘いにおいに僕は気持ち悪くなってしまった。

「吐かないでね」不快感で口に手を当てた僕に、彼女がそう言った。「このにおいは、あなたが原因なんだから」

「それって……」

「車に死体を乗せれば、そりゃ、臭くもなる。死の残り香が誰かに気付かれるようなことが万が一にでもあったら大変だもの」

「岩肩は……」

「川に捨てた」と、先生がその時の僕には本気か冗談か分からないような口調で言う。「物になってしまった以上、不要ならば取る手段はそれしかない、と思わない? 彼だ、と私は考えていたのだけれど、あなた、だったのね」

 車がゆっくりと動き出す。僕はこれからどこへ行くのだろうか、と不安に思いながら、逃げようという気持ちにはならなかった。それは彼女の威圧的な雰囲気に呑まれていたのもあるが、何よりも僕は先生以上に、この地から逃れたい、とずっと思っていたからだ。

「どういう意味?」

「言ったでしょ。私は、怪物、を探してる、って。彼のほうに素質を感じていたけれど、怪物になったのは、あなたのほうだった」

「怪物……。僕は怪物なんかじゃ」

「何を言ってるの? あなたはもう人間じゃなくて、怪物よ。だってあなたは理性を失ったのだから。ほら、昨日のことを思い返してみなさい。人を殺した時、あなたは人間だった? いいえ違うわ。人を殺したいのと、実際に殺すのはまったく違うことで、なんでひとが殺意から殺人にいたらないか、というと、それは理性があるからよ。人間は本質的に理性の皮を被った怪物で、ほとんどの人間は死ぬまで皮を脱ぎ捨てることなく死んでいくけれど、たまにね……その皮を自ら剥ぎ取っちゃうひともいるし、後は脱ぎたくて仕方なくなっている人間もいる。あの岩肩くん、って子も脱ぎたいけど脱げずにもがいている気がしたから、そっと背中を押してあげようと思ってね」早口でしゃべる彼女の言葉はほとんど理解できなかったが、ただ分からないながらも彼女の言葉を不愉快だと感じ取ることはできた。「不満そうね。それは自分が怪物って言われたから? それとも私があの子をけしかけたこと? まぁ好きに恨みなさいな。ただ私が背中を押すのは、悪意からじゃなくて、そのほうが幸せだと思うから。人間でいられる者と人間でいられない者が共に生きるなんて、無理な話でしかないのだから、早めに気付かせてあげたほうがいいの。お互いのためにも、ね」

「僕は、人間だ」

「いいえ怪物よ。残念ながら人間は、あんな風にひとを殺さない。あなた自身が一番よく分かっているはずよ」僕はあの時、留まる機会があったにも関わらず、岩肩を殺した。僕自身が誰よりも知っている。「もうあなたは人間ではいられない。死体は私が処分したから、罪に問われることは確かにないし、私は別に誰かに話す気もない。この一件を無かったことにして人間の振りを続けようとするのは自由よ。そう選択するなら、私は口を噤んでいてあげる。だけど……」

 あぁそうだ……。

「僕は……」

「もう自分の正体に気付くと、駄目よね」

 僕の、怪物の心を見透かすように、彼女が言った。もう僕は、僕自身の心に嘘をつくことができない。僕は人を殺した。そしてまた同じことがあった時、また僕は人を殺すかもしれない。一度の過ちは未来に、絶対、を作れなくなる。

「どうしたら……?」

「私はこのまま村を出るつもりよ。あなたは自分で選べばいい。このまま私と来てもいいし、車から降りても構わない」

 すこしずつスピードを上げていく車が、僕の家から遠ざかり、嫌気が差していた村を飛び出そうとしていた。なのに新たな世界へと向かっていくようなわくわくした気持ちはひとかけらもない。

「なんで、こんなことしているの?」

「趣味と……人助け。もう怪物でいるしかないのに、それでもまだ人間であることにしがみつこう、と苦しんでいるひとを見るとね。耐えられなくなるの。あなたは人間社会では生きられないんだから、いっそ怪物になってしまいなさい、って助けてあげたくなる」

 本当だろうか? そう思いながらも、僕の返事はすでに決まっていた。

「一緒に行きます」

 先生が向かっている場所さえも分からない。でも僕の存在を受け入れてくれる、と僕が信じられるのは、彼女しかいないのだ。この危ういひとしか、僕はよすがにするものがなく、そしてそれが二十年以上続いた、というのは間違いのない事実だ。

「じゃあ行きましょうか。あっ、あといままで使っていた名前は捨ててもらうね。新しく生まれ変わるんだから。名前は、コウ、で良い?」

「大丈夫。……でも、なんで?」

「怪物になれずに死んだ息子の名前よ」

 そして僕は、彼女の助手となった。

 この時はまだ先生が何をしている人間かはっきりと分かっていなかったし、長い月日が流れたいまも、実のところたいして知っているとは言えないほどに彼女は謎めいた存在として在り続けている。



 第三話「二流には分からない、2012」


 暑い。

 それまで冷房が効き過ぎて、寒いくらいの室内にいたからか、余計にそう感じてしまう。夏の夜気は生温く不快で、すでにささくれ立っていたあたしの負の感情はさらに増していく。

 こんな寂れたような雑居ビルに通い詰める姿なんて知り合いには絶対に見られたくないし、もしもここで何をやっているかばれてしまったら、あたしはそのひとから距離を取るだろう。もう話してやるもんか。ほとんどのひとはたぶん知られたところで、別に気にしないよ、なんて言ってくれるだろうけれど、あたし自身のプライドが許さない。

 それも全部あいつのせいだ。

『ゆっくりと、あなたの話したいことを私に言ってくれればいいの。ただ嘘はつかないこと。嘘が真になるじゃないけれど、自分でついた嘘が自らの心を苛んでいくことがあるから、それはあなたのためにも良くない』

 インターネット上の知り合いを通じて、そのカウンセラーのことを知ったのは半年ほど前だった。それまで通っていたカウンセリングルームの先生は悪いひととは思わないものの相性が合わず、場所を変えたかったあたしは、精神的にもだいぶ参っていたこともあって、怪しい雰囲気は承知のうえで、一部では有名な人物らしい、そのカウンセラーを頼ってみることにしたのだ。

 カウンセラーとしてそれはどうなんだろうか、と思うほど、隠しきれない威圧的な雰囲気を持ちながらも、ただ声音は耳に心地よく心を落ち着かせてくれて、相槌のうまさもあり、話しやすい相手だった。うっかり全部を打ち明けてしまいたくなりそうな気持ちになってしまう。

 見上げると濁りを混ぜたような藍色の雲の先に半月が浮かんでいる。

 駅を下りて、家路につく足取りは重い。いや……大丈夫だ。もう最近はあいつの姿を見ていない。さすがにあそこまで言えば、あいつだって諦めるはずだ。

 いつも帰り道に通る商店街はそのほとんどが営業時間を終えて、死んだよう、と表現がぴったりと当てはまる景色を形作っていた。

 こつ、こつ……。こつ、こつ……。

 あたしを怯えさせ続ける音が背後に聞こえる。もうそれだけで相手が誰だか分かるほどに聞き馴染みのある足音になってしまった。

 こつ、こつ……。こつこつ。こつこつこつ。

 不安定に鳴る靴音が、すこしずつ近付いてくる。縮まってくる距離に、あたしの不安と緊張は増していく。

 あたしは足を止めず、振り返ることもせず、そんな足音など存在しないような振りをしながら、自宅のマンションを目指す。

 いつまでも消えないその靴音のストレスは、はけ口もなく、胃の奥に怒りとなって溜まる一方だった。

 普段よりもその道のりはずっと長く感じられて、自宅の前まで着いた時には、ようやくか……、という気持ちになった。そこであたしは、後ろを振り向こう、と決めた。一矢報いてやる、ほどの覚悟を持った行動ではなく、靴音の主がまず間違いなくあたしの想像通りだとしても、一目見てはっきりとさせておきたい、と思ったのだ。

「誰!」

 意識した大きめの声とともにあたしが振り向くと、予想していた通りの人物がいた。街灯に照らされたその男は笑っている。笑っている、と言っても、ただ口の端を歪めているだけの、相手に不快感を与えるような粘っこい表情だ。彼が着ていたのは初めて会った時と同じ、夜の闇に同化しそうな黒いフード付きのパーカーで、そのポケットに手を突っ込みながら、何も言わずにじっとあたしの顔を見つめている。

 確認は終わった。今までの行動パターンを考えれば、マンションに入ってしまえば、彼は帰るはずだ。これからどうするかはマンションに入ってから考えよう。

 小走りにマンションの中に足を踏み入れ、オートロックになっている玄関を開けようとした、何かが手首を掴んだ。それは手だった。誰の手か、なんて考えるまでもない。

 あたしは思わず悲鳴を上げた……つもりになっていただけで、恐怖のあまり声が実際に口から外に放たれることはなかった。



 時計の短針と長針が重なった時、あたしの頭の中で警告にも似た鐘の音が鳴る。

 足もとを見ると、ひっ、と情けない声が漏れる。毎日ではないが、頻繁に現れるそいつに、あたしはいまだに慣れることができずにいる。足もとに目を向けると、薄暗い部屋に茶褐色のフローリングという場所でも目立つ赤黒いしみのようなものが、人の顔らしき形を作っていた。その顔をあたしは知っている。夜中のたった数時間程度のことだが、一度見てしまうと、そいつが消えるまでの時間は数日間の出来事ようにも感じてしまう。

 真夜中零時を過ぎると現れるそいつに、ここ数年、あたしは悩まされ続けてきた。

 この顔は、あたしの人生の汚点だ。

 気のせいだ、と思い込もうとした時期もあった。カーペットでその部分を覆い隠して、そんなしみなど存在しないもののように扱ってみたこともあったが、一時しのぎにしかならず、次は壁に、次は天井に、と結局そいつはあたしの視界のどこかに入り込んできて、解決策にならないと知り、そういった対策はもうやめてしまった。

 耐え切れず住む場所を変えても、そいつは追い掛けてきた。そのしみが狙うのはあたしであり、住む場所がどこかなど、どうでもいいに違いない。あたしはそれを知っているからこそ、落胆こそあったが驚きはすくなかった。

 恐怖はいつまでも変わらずにあったものの、その恐怖と同じくらいに、そいつに対する憎しみが日に日に強まっていく自身の心の内にも気付いている。

 だってあたしはこの顔を知っている。

 なんであたしばっかりこんな目に遭わなければいけないの……。死んでもなお、彼はあたしの心を苛んでいく。

 真夜中の来訪を告げるインターフォンの音が鳴り、突然の、予想もしていなかった音に、あたしの口から思わず、ひっ、というさっきと同じ声が、さっきよりも大きな声で出てしまった。ぴんぽーん、と高く響くこの音が本当に嫌いだ。あたしはドアホンのモニターから来訪者の片割れの顔を確認して、安堵とともにオートロックのドアを開ける。そして玄関のドアの前でいまから来るふたり組を待つことにした。

 ひとりは顔さえも知らない相手なので、やはり緊張してしまう。

「あら、そんな部屋の前で待っていなくてもいいのに」

「いえ、そんな。ずっとお待ちしていました」

 実際は母親と息子くらいに年齢が離れているはずだが、外見からは姉弟ほどにしか変わらないように見える男女のふたり組は、独特な雰囲気を纏っていた。男性のほうはあたしとそれほど年齢も変わらないような見た目で、この若い男とはすでに何度か会っていて顔は知っていたのだが、ふたりが揃った状態で見ると、より不思議な印象を抱いてしまう。

「ごめんね。事前に連絡もなく、急に来て。どうしても嫌な予感がしたものだから。近くを通った時に嫌な予感がして」

「そちらのコウさんから、急に行くことがあるかもしれない、と聞いていたので大丈夫です」

 でも電話一本くらい事前に……、というのが本音だった。もし不在だったらどうするつもりだったら、諦めて帰るつもりだったのだろうか。

 真夜中に不似合いなサングラスを掛けたその女性の背後に立つ、若い男がちいさく頭を下げる。長髪の彼の本名を、あたしは知らないのだが、彼が初めて会った時にコウと呼んで欲しい、と言っていたので、それに従うことにしていた。本名ではない、という含みを持たせた名乗り方だったので、おそらく偽名だろう。コウさんが鋭いまなざしをあたしに送っている。怒っているわけではなく、それが元々の表情なのだろう。

「まぁ、とりあえず入っても大丈夫?」

 この女性こそあたしが求めていた相手なのだが、彼女のことをあたしは言葉のうえでしか知らず、実際にその顔を見るのは初めてのはずなのに、声には聞き覚えがあった。

「先生、来てくれてありがとうございます」

 置いた座布団のうえに正座する、先生、の姿を、あたしがじっと見つめていると、

「どうしたの? そんなに見つめられると、照れる」

 と、先生が薄い笑みを浮かべた。

 先生、と呼ぶことは、先日コウさんと会った時に厳命されていた。

 先生。
 
 あたしが先生と呼ぶそのひとは、教師でもなければ医者でもなく、もちろん政治家でもない。ただ、いまのあたしにとってはそのどれよりも、先生、として敬うべき相手だった。とは言っても、何をしている人間か、というと、これも一言で説明するのが難しく、カウンセラー、占い師、霊能者、探偵……など、ひとつの役割ではなく、ひとりで多くの役割を兼ねながら、その多くの界隈で、それなりに名を馳せている女性だった。

「あ、すみません……。こんな綺麗なひと、初めて見た、と思って」

 それはお世辞ではなく本音だった。サングラスを掛けていて目元までは分からないが、女性のあたしから見てもはっと目を惹くほどの美しさは、一度見てしまうともう忘れられない、と思ってしまうほどに印象的だった。その美しさは、世俗的なものから距離を取ったような人形を思わせるもので、そんなことを本人に伝えれば怒ってしまうだろうことをあたしは考えてしまっていた。ただ先生は多くの貴金属を身に纏っていて、その無機物が放つ煌びやかさが、何故か反対にそのひとを人間のように思わせてくれる。

「あら? 初めて?」

「違うんですか……?」

「あぁそうか、これで分かる?」

 と、先生が掛けていたサングラスを外して、あたしを見る。

 そのひとをあたしは知っている。

 数年前、あたしが大学生だった頃にお世話になったカウンセラーの先生だ。その時はサングラスもしていなくて、派手な格好をしていなかったのですぐには気付けなかったが、サングラスを取った彼女の顔は、あの時のまま、見間違えようもない。

「先生……。急に行かなくなってしまって、すみません」

「いえ、そういうひとはめずらしくないから、気にしなくて大丈夫」

 あの時、カウンセリングの先生として相談に乗ってもらっていた人物が、いまは霊能者としてあたしの目の前にいる。それは不思議な感覚だった。その時は鈴木だったか佐藤だったか、そんな風に名乗っていたはずだが、それはきっと偽名なのだろう。あれが本当の名前ならば、いまさら隠す必要はないし、気付いていないあたしに面識があることを伝えたりしないだろう。

 あたしが相談に行かなくなった理由はひとつ、行く必要がなくなったからだ。

 彼の死によって……。



 知り合いだった、という事実に、話すうえでの安心感は覚えたものの、重要なのは、先生が霊能者として本当に頼りになる人物かどうか、ということだ。本物なのかどうか。先生が詐欺師と糾弾されてもおかしくないほど高額な報酬を取ることは除霊を頼む前から知っていて、実際、窓口代わりとして何度か事前にやり取りを交わしていたコウさんから提示された金額を見た時には、詐欺師と思われるのも仕方のないような額に驚いてしまった。いままでに何人かの霊能者に頼ってきたが、その中で、もっとも高かった。

 先生は多忙なので除霊の時にしか会えない。そんな風に聞かされながら、先生、なんて実は存在しないのでは、と不安に思っていたところもある。成功報酬しか要らない、と言われていなかったら、途中で断っていたはずだ。

 もうひとつ理由があるとしたら、オカルト系雑誌の編集者をしていた知り合いから教えてもらった、というのも大きい。彼女は、それなりに業界に精通しているので、変なひとは紹介しないだろう、とも思ったのだ。姉が無類のオカルト好きだった影響で心霊関係に興味を持った、という人物なのだが、その子の年齢の離れた姉は不審な死を遂げているらしく、その死の原因をいまも探っている、と聞いたことがある。そういう子の前にこそ、幽霊も現れてあげればいいのに……。

 いつもより信頼はできそう。……でも、やっぱり疑ってしまう。

 だっていまも下を向けば、そいつがにやけた顔であたしを見ているのに、先生が気にする素振りはひとつもないのだから。ふたりは本当に何も感じないのだろうか。やっぱり、この先生も名ばかりの存在なのか。

 先生と話しながらも、あたしはときおり後ろのコウさんに目を向ける。静けさを保ったままだが、どうもあたしは彼から好かれていないような気がする。

「実は、マンションに近付くうちに、嫌な気がどんどんと高まっていくのには気付いていたの。いえ、実は事前に彼を通じて話を聞かされた時から急いだほうがいいかもしれない、という思いはあったのだけれど、私のほうも抱えている仕事が溜まっていたもので……」

「いえ、そんな」

「よく我慢しましたね。長い間、こんな恐怖に曝されながらも耐えてきたあなたの精神力が私には信じられないくらい」

 そう言った先生の目は、あたしではなく、床へと、そしてそいつの顔へと向けられていた。

 いままでお願いした霊能者の中には、彼女と同じくらい名のある人物もその顔の位置を指し示せるひとさえも稀だった。

 あっ、このひとは本物かもしれない。信用できるかもしれない。

 そう思った途端、

「怖かった……」

 あたしは情けなく言葉を漏らしていた。

 先生があたしに近付く。先生の伸ばされた手が、あたしの頬に触れる。その手のひらはひんやりとしていて、だけど心地よく、指のお腹の部分があたしの目じりを撫でた。

「泣かなくても大丈夫。よく頑張りましたね」

「ありがとうございます……」

「除霊ももちろん行いますが、私どもは、依頼主の心のケアをそれ以上に大切に思っています。何より私はカウンセラーでもありますから、ね」

 抱きしめられている、と気付いたのは、抱きしめられてすこし経ったあとだった。先生の手があたしの頭を触り、それがとても心地よかった。まるで幼い頃に戻ったかのように心が落ち着いていく。そんなあたしたちの姿を見ながら、コウさんは表情ひとつ変えない。

「先生は、彼がどこにいるか分かっているんですよね?」

「もちろん。その低い怨嗟の声まではっきりと聞き取ることができる。引っ越しても追い掛けてくる、と聞いたけれど――」そこで先生は背後のコウさんをちらりと見た。あたしがコウさんに話したことはすべて事前に聞いているのだろう。「彼にとって、建物なんてどうでもいいんでしょうね。夜中の部屋が一番あなたとふたりきりになれる、と思って、そうしているのかもしれない。理由までは本人にしか分からないことだし、残念ながら彼の真意まで聞き取ることはできないけど、ね。とにかく重要なのは、あなたへの執着心のみで現世に留まり続けている、ということ。まったく厄介な相手に」

 先生の温もりがあたしから離れていき、それがとても名残り惜しい。

「執着心……、やっぱりあたしは恨まれているんですね」

 それはそうだろう。

 あたしに憑き続けるそいつはあたしの人生で、誰よりもあたしを愛した男だ、と断言できる。腹の立つほど一方的なその愛は、あたしにとって迷惑以外の何物でもなかった。

「ただの逆恨み。そうですよね?」

 それは、いままで沈黙を貫いていたコウさんの言葉だ。

「は、はい……」

「まぁ、とりあえずコウが聞いたことは私の耳にもちろん入っているけれど、もう一度、ちゃんとあなたの口から聞きたいな。伝聞と直接聞くので、印象もまったく変わってくるから」

 まだ床に染み付くそいつはあたしたちを見ながら歪んだ笑みを浮かべていて、本音を言えば急いでこっちを何とかして欲しいのだけれど、先生はこういう相手に慣れているのか気にした風もなかった。

「分かりました……」

「あぁ、ただ嘘だけはつかないでね。私は幽霊の存在だけじゃなく、ひとの嘘だって見抜きますし、私はこの仕事において一番大事なのはお互いの信頼関係だと思っているの。ごめんね。正直、私の覚えているカウンセリングに来ていた時のあなたって、本心を隠しがちな子、って印象だったから。たとえ何を聞いてもあなたを責めたりしないから、お願いね」

 あたしはその言葉にどきりとしつつも、頷き、

「嘘はつきませんし、全部ちゃんと話します」

 と答えた。

 あたしはカウンセリングの時に隠していたことも含めて先生に伝えようと、あの日の光景を頭に浮かべる。



 いまではその頃の知識がなんら役に立たない中小企業で働く会社員でしかないけれど、当時のあたしは弁護士の青写真も描けるくらいには優秀な、それなりに名の知れた大学の法学部に通う女子大生だった。

 才色兼備、として周囲から羨望や嫉妬の目を向けられ、当時は多少そのことを鼻に掛けているような人間だった。周囲を見下して、どこか高嶺の花を気取り、それを自覚していながら、何が悪いの、と開き直っていたあの頃の自分ほどひた隠しにしたい黒歴史はない。井の中の蛙、という言葉があるけれど、こういう状態の時、上には上がそこら中にいるのに、その上には、まったく気付かなくなる。

 ひどい勘違いした過去のあたし自身こそ、人生で一番嫌いな人間だった。

 彼と出会ったのは、そんな時期だ。もし彼と出会えたことで良かった点を無理にでも探すならば、目立つことへの恐怖で、過去の自分の嫌な感じを自覚できたことだろう。

 彼は、学校の中にいてもその景色の一部と化してしまうような地味な青年で、井坂くん、という名前だった。

 どうしても、と頼まれて気乗りはしなかったけれど参加した合コンで、同じくあまり楽しんでいるように見えない姿で居酒屋のテーブルの端に座っていたのが井坂くんで、明らかに数合わせと分かる雰囲気を隠そうともせずその場にいた彼に話し掛けたきっかけまでは覚えていないけれど、酒に酔った勢いと当時の傲慢さが合わさって、いっちょこいつで楽しんでやるか、なんて気持ちになったのかもしれない。いまとなっては当時の感情なんてほとんど覚えていないけれど、あの頃のあたしはそのくらいのことを平気でやりかねない人間だった。

「合コンなんて来るの、初めてだから……」

 あたしに話し掛けられると、ぎこちなく笑みを浮かべたその表情が、馴れ馴れしく近付いてくる他の男よりも好感が持てて、それに趣味がゲームとスポーツ観戦ということで、偶然趣味が同じだったこともあり、彼との会話は純粋に楽しかった。

 結局その合コンの間はほとんど井坂くんとばかりしゃべって、他の男性陣は明らかに不愉快そうだったけれど、逆に意気投合している私たちの姿を見て喜んだのはあたし以外の女性たちで、きっとライバルが減ると思ったのだろう、囃し立てられたあたしたちは会の途中で抜けるようにふたりで一緒に帰ることになってしまった。

 自宅のマンションまで送ってもらう帰り道で、あたしは彼と連絡先を交換して、定期的に会うようになったのだけれど、あたしにとって彼はあくまでもちょっと気の合う友達で、それ以上でも以下でもなかった。

「付き合って欲しい」

「何、勘違いしてるの? あたし、付き合ってるひといるから」

 彼にそう言われた時、断ることへのためらいはなかった。当時、あたしは誰とも付き合ってはなかったので、この断りの文句には嘘が混じっているのだけれど、この言い方をすれば彼も粘りづらくなるだろう、と思ったのだ。申し訳ないな、という気持ちはあった。でも、できる限り冷たい口調を心掛けた。

 とはいえ、いままで彼氏の存在をにおわせたことなんて一度もなかったので、すぐには納得してくれないだろう、と不安もあったのだけれど、

「うん。分かった。ごめん、変なこと言って」

 と意外にも簡単に納得されて、拍子抜けしてしまった。友達関係を続ける中で、彼はちょっと執着心が強そうだ、と感じている部分もあったので、その態度にすごくほっとしたのを覚えている。

 でも、悪夢のはじまりは、そこからだった。

「友達関係は続けていけないかな……」

 翌日の夜だった。急に連絡もなく彼が訪ねてきて、インターフォン越しに、そう言ったのだ。きのうの物分かりの良い態度もあって、不用心にも玄関の戸を開けてしまったあたしは彼の瞳の奥に宿った狂気をかいま見てしまい、部屋には絶対に上げてはいけない、と本能的に悟った。

「無理だよ。そんなの」

 部屋の前で彼と向かい合いながら、何かあった時は隣人に聞こえるくらいの大声を出そうと思っていたが、さすがにそんな事態になることはなく、彼は、

「そう。そうだよね。ごめん」

 と、また素直に引き下がる。だけど今度はひとつも安心できず、言葉とは裏腹に引き下がる気の一切感じられない歪んだ表情がただただ怖かった。

 それ以降、あたしは彼から無言電話や明らかな尾行という嫌がらせを日常的に受けるようになった。それをすることで彼に何の得があるのだろうか、と考えたところで、きっとあたしに理解できるようなものではないはずだ。ストーカーとはそういうものだ、と割り切って対応したほうが精神的にずっと楽で、警察に行くことをほのめかすと、いったん彼はあたしに近付くのをやめたのだけれど、それも一時だけのことで、また彼はあたしの目の前に現れ、前よりも行為はひどくなる。あたしの心はおかしくなりそうだった。夜中に何度もインターフォンを押されて、確認しようとすると、その姿が消えている、というのを繰り返される、なんていう嫌がらせもあった。

 ぴんぽーん……、ぴんぽーん……!

 もともと好きではなかったインターフォンの音が吐き気を催すほど嫌いになったのは、間違いなくこの出来事がきっかけで、最近はだいぶ落ち着いてきたけれど、いまだに唐突な音に対する精神的な負荷は他のひとに比べてかなり大きい。

 警察には頼りたくなかった。

 この時期のあたしは決して品行方正な生活をしていたとは言えなかったし、それにあたしの知り合いで同じような被害に遭っていた子が、警察に相談したら説教されるだけでまともに相手をしてもらえなかった、と怒っていた記憶があって警察への不信感もあった。悩んだ末に、あたしは知り合いの男性にお願いして、かなり強めに直接注意してもらったのだけれど……、

 またそれも、収まったのはすこしの間だけだった。

 あれは先生のカウンセリングの後だったはずだ。

 あの日が訪れて、あたしは――。



 そこまで話したところで、あたしは言葉がつっかえてしまい、そんなあたしの背中を先生がさすってくれた。ここまで踏み込んで誰かに話したのは、初めてかもしれない。あの日々のことを思い返すだけでもぐったりとしてしまうのに、今回は口にして外に出さなければならない。言葉にすることでより鮮明になった記憶に、あたしは想像以上の緊張と不安を感じていたみたいだ。

「大丈夫?」

「は、はい。ありがとうございます。大丈夫です。すみません」

「一気にしゃべったから、疲れてしまったのかな? ……話は続けられそう?」

「もうすこしで終わるので、問題ないです」

「じゃあ、ゆっくりでいいから」

「はい……あの日です。先生とのカウンセリングが終わったあとでした。帰りの途中から、彼に尾行されていることには気付いていました」

「最後に私のところに来た日?」

「はい。もうさすがにあたしを狙ったりはしないだろう、と思っていたんですけど……。友達に頼んであそこまで言ってもらったのに……」言ってもらっただけじゃない……。あそこまでやってもらったのだから……。でもそんなこと他人には言えない。「彼、家まで付いてきて……。オートロックの扉を急いで開けて、その先に逃げ込もうとした時に、腕を掴まれてしまって……。慌てて大声で叫ぼうとしたんですけど、そしたら今度は腕を掴んでいないほうの手であたしの口を塞いできて。大丈夫。もう終わりだから。もうすこしだけ我慢して、って、耳もとで彼が言ったんです。殺される、って思いました……。でもなんでか分からないんですけど、彼があたしから手を離して、逃げていったんです。なんで逃げたのかも分かりませんし、彼のその言葉の意味も分かりませんでした。ただあの言葉は、あたしのことを殺すぞ、っていう予告だったんじゃないか。そんな風に思えて」

「確かに、ね。でも……、なんで彼は逃げたのかしら」

 あたしではなく、床の顔を見ながら、先生が言った。物言わぬそいつが何かを答えてくれることはない。あたしの背中にひと筋の汗がつたう。

「さぁ……、それはあたしにも……。えぇ、っと、それで……」

「気にしないで、ゆっくりで大丈夫だから」

 先生の声音は優しい色をしていたけれど、しっかりと先を促してくる。

 あたしは、大きく息を吐く。

「彼が死んだのは、それからすぐのことです」

「……急ね。とても」

「あたしにとっても急でしたから。その一件があった数日後だったと思いますが、彼があたしの部屋で死んでいたんです。彼が、どうやって侵入したのかも知りません。ナイフで胸を突き立てて。警察は自殺と判断しました。第一発見者は当然あたしだったので、警察からは根掘り葉掘り聞かれてしまいましたが……」

「そう、その結果として生まれたのが、こいつなのね」

「嫌な言い方なのは分かっているんですけど、あたし、彼が死んで、本当にほっとしたんです。あぁ、やっと解放される、って……。でも甘かったですね。これであたしの話は終わりです」

「分かった。ありがとう。色々と話してくれて。気になることもあったから、確認したくて。大丈夫、この程度のやつなら、簡単に消せるから心配しないで。すぐに済む」

 すぐに済む……?

 その言葉を素直に信じてもいいのだろうか。その疑いは実際に先生の力を目の当たりにするなかで、徐々に消え去っていく。先生が床の赤黒いしみに手を乗せると、部屋中に悲鳴のような音が響いた。隣人からクレームが来そうなくらいの音だけど、きっとこの顔が見えているあたしたちにしか聞こえないのだろう。それから五分くらいだろうか、その部分はフローリングの茶褐色を取り戻し、もうそこにしみはない。

 簡単に消せる、という言葉通り、あっけなく終わってしまい、あたしは拍子抜けしたような気分になってしまった。

「大体いつもこんなものかな」

「あ、ありがとうございます!」

「三十分をこえることなんて、まず、ないかな。いつもすぐ終わるの。まぁ自分でもかなりの額を取っている自覚はあるから、法外だって喚くひとの気持ちも分かるんだけどね。結構いるのよ、そういうひと」

 法外なんて、欠片も思わない。

 地獄のような日々から救ってくれたことに対する感謝しかない。この嬉しさから比べれば、値段など微々たるものだ。

「じゃあね」

 駐車場でふたりを見送る際、高級外車の助手席に乗り込んだ先生が窓をすこし開けて言った。そして言葉とともにジェスチャーを示すように片手を上げる。

 あたしが頭を下げた瞬間、ちいさな溜め息が聞こえた。えっ、と思って顔を上げた時には、もう車は動き始めていて、気のせい、と結論付けることしかできなかった。

 部屋に戻る。

 当然そこに、赤黒い顔はない。



 大きく深呼吸する。

 鏡を見れば、きっとあたしは満面の笑みを浮かべていることだろう。もうあの顔に一喜一憂しなくていい。

 それにしても……、

 こんなにもうまくいくなんて思わなかった。霊能者に依頼するのはこれで何人目だったか、もうはっきりとは覚えていない。いままで頼んできた奴らが総じて三流だとすれば、先生は二流程度だろう。偉そうな雰囲気だったけれど、一流にはほど遠いな。だって……。

 まぁあたしのとってはこれ以上ないほど、好都合な相手なわけだし、文句はひとつもない。そう……、あの二流の先生こそ、あたしが求め続けてきた相手だ。

 何が、ひとの嘘だって見抜きます、だ。あぁ駄目だ、本当に笑いが止まらない。まぁ、すこしは疑っていたみたいだけど、真相に辿り着けなれば、一緒だ。残念だったね、先生。

 あんたは一流の皮を被った二流でしかなかった、ってことだよ。本当に感謝はしているんだけど、それでもやっぱり見ていて滑稽だったね。

 あぁ、先生にもし一流なところがあるとしたら、まぁ……、あたしの役に立つ、って意味じゃ、どこまでも一流だ。

 手のひらにはまだ、真っ赤に染められた血の記憶が残っている。

 あいつは自殺なんかしていない。自殺するような人間なんかじゃない。あいつはあたしが殺した。でもあたしは悪くない。悪くない悪くない悪くない。絶対に悪くない。

『大丈夫。もう終わりだから。もうすこしだけ我慢して』

 あの日、オートロックのドア先に逃げ込もうとしたあたしの手を掴んで、あいつはそう言った。あたしを自分の身体のそばに強く引き寄せて、あいつの震える手で揺れるナイフが青白くきらめいていた。首筋に当てられた時の、あのひんやりとした感覚はいまも残っている。騒がないでね、と穏やかな口調であたしの耳もとに囁いて、凶器と狂気に脅されたあたしは、部屋に入ろうとするあいつを拒絶できなかった。

 心中しよう。

 と言われた時、あたしは絶対に嫌だと思い、その場で必死にもがき……。

 揉み合いになって、最後に血塗られたナイフを手にしていたのは、あたしだった。

 死ぬなら勝手にひとりで死ねよ。こっちを巻き込むな。

 もちろん殺す気があっての行動じゃなかった。殺意はひとつもなかった、と誓って言える。だけど事実としてあたしの殺した死体が目の前にあり、それが正当防衛だと信じてもらえる保証は何ひとつなく、こんな時に多少付けた半端な法律知識は役に立たない。自首したら状況が状況だけに、仮に正当防衛が認められなかったとしても、情けをかけてもらえるだろうか。

 ……嫌だ。

 こんな奴のために、欠片でも罰は受けたくない。

 ナイフの柄とか、揉み合った時に付着しただろう指紋で気づいた部分は拭き取り、ナイフや死体の位置を変え、可能な限り自殺に見えるように心掛けたけれど、あたしが死体に対して持っている知識はミステリ小説やドラマ程度で、細工は本当に簡単なものでしかなかった。

 誤魔化せる自信はなく、諦めの気持ちも大きかったけれど、あいつの死は自殺と判断された。

 あいつがストーカーであたしが被害者、という事実に加えて、あいつの自宅から自殺をほのめかす内容の日記が出てきたことも大きい。

 すべてがあたしに運の向く形だったわけだけど、そもそも、殺されそうになった時点でひどく不運なのだから、それを思い出すと、何とも言えないような気持ちになってしまう。さらに死んだあとも、幽霊となって憑き纏われ続けるのだから。

 あの赤黒いしみとなった顔を見るたびに、あたしは何も言わないその顔から声なき声を聞く。幻聴ではないだろう。表情はときに声よりもおしゃべりになる。

『人殺し。俺は絶対にお前を許さない……』

 先生は怨嗟の声まで聞き取れるなんて言っていたけれど、本当にあいつの声を聞いたのなら教えて欲しいものだ。

 ありがとう、最高だよ。二流の先生。

 どこまでもあたしは相手選びに慎重だった。万が一にもあたしの罪が露見してしまうことがあってはいけない。絶対にばれたくない。本当に能力のあるひと、勘の良いひと、鋭いひとならば、あたしの嘘にもしかしたら気付くかもしれない。だから自然と選ぶ霊能者は名が知れつつも、人格的に難のよく見える人間ばかりになった。金にがめつい、なんて、まさにそうだ。そういう相手ならば仮に犯罪の事実に気付いてしまったとしても、向こうにも後ろ暗いところがあるだろうから、正義感から警察に、とはならない可能性が高いからだ。

 だけど、これまでの奴らは、本当に能力のない三流ばかりだった。

 今回こそあたしがこれまで求め続けてきた、

 理想の、二流のひと。

 あたしの歓喜に水を差すように、スマホの着信音が鳴り、表示された番号を見ると、知らない番号だった。

「はい――」

『あなたごときが、調子に乗らないでね』

 もしもし、と続けようとした言葉は、相手の言葉によってさえぎられる。

 低めの男性の声だ。誰……?

「何を……」

『この一言は、先生からの伝言です。嘘はいけません。先生なら、いえ助手の自分でさえ、あなた程度の嘘なら見抜けます。あなたの良心を試したくて、もう一度、確認させてもらったのですが、残念ながらまた嘘をついた。それもひどく信頼を裏切るような嘘を。最初に会った時、言いましたよね。依頼人との間に信頼関係をきちんと築けているか、というのは、この業界、そして先生にとって、何よりも大切なことですから。もちろん正義感なんて我々には欠片もありませんよ。そんなものより、真摯さや誠実さを見たかったのです。初めて会った時点で、あなたの嘘には気付きました。それでも……、もともとあなたは被害者ですから、真実を話してくれたら、ちゃんと除霊してあげよう、って先生が言ってくれたんです。あなたの口から真実が聞けることを祈っていたんですが、残念です……個人的にも……本当に残念です……』

 これがあのコウさんだろうか、と思うほど、饒舌な語りだった。口を挟む隙もない。でも話の途中からその言葉をさえぎる気持ちを失っていた。彼の言葉がどうでもよくなるほど、別のことに気を取られていたからだ。

 ちゃんと除霊してあげよう……?

 あぁ……、いる……。だけど、いままでとは違う……。

 赤黒いあいつの顔は際限なく広がっていき、あたしの影を、そしてあたしを呑み込んでいく。



 第四話「物語から消える時、2016」


 ここ数年、睡魔の訪れが以前に比べて、とても早くなった。

 いまでは原稿に手を付けはじめる時にはすでにあくびが出ていて、ほとんど進まないまま眠りに落ち、気付けば翌朝を迎えていることも、めずらしくない。月の三割くらいはほぼ徹夜で、その執筆ペースに驚かれていた頃が懐かしい。焦りはあるのに、肉体は自分の思うように動いてはくれず、ただ時だけが淡々と過ぎ去っていく。時間さえあれば、なんていうのは言い訳だ。たぶんもうすこし時間があったところで、俺はこの物語を完結させられないだろう。

 こんこん、とドアをノックする音はいつもの妻らしくないすこし強めな音で、俺が背後を振り返りながら、

「どうした?」

 とドア越しに声を掛けると、失礼します、と妻のものではない男性の声が聞こえてきた。

 まだドア越しにある久し振りの顔が、見るよりも先に頭に浮かぶ。あぁ……、本当に、めずらしい客人だ。部屋に入ってきた、十年以上も古い付き合いのある友人の姿に、俺はすこしのあいだ、それまでの眠気を忘れてしまった。

「久し振りだね」

「すみません勝手に。奥様から、会っても問題ない、と聞いたので……」

「もちろん、きみならいつでも大歓迎だよ」

「でも執筆作業中だったんですね」彼が、俺の机の上を見ながら言う。「すみません。先生の邪魔をするつもりはなかったんです」

「誰からも、先生、と言われるのは気恥ずかしくて仕方ないが、きみから先生と言われると、特に違和感しか覚えないね。きみの先生は、あのひとだけ、だろ。きみに会うのは何年振りだろうか。何か用事があって来たんだろう、コウくん?」

「そうですね……。では以前のように志賀さんと呼ばせていただきます。えぇ、確かに話したいことはありました。ただ……、それもそうなんですが早めに会っておかないと、もう会えなくなる……、そんな気持ちもあって。……理由は僕にも、はっきりとは分からなくて、ただの嫌な予感と言いますか、虫の知らせ、みたいなものなんですけど……」

 さすが俺とは違って本当に、先生、と呼ばれるべき人間の助手だ。一緒にいるだけで、勘も鋭くなってくるのかもしれない。

「先生は元気にしてるのかい?」

「志賀さんが最後に会った時と、何も変わらないですよ」

「そうか……」

「それで、きょう来たのは、先生のことで、なんです」

「まぁ俺のところに、久し振りにきみが訪ねてくる理由なんて、それくらいしかないだろうからな」

「僕は、先生から離れたい、と思っています」

「……驚いた。きみと先生は一蓮托生だと思っていたが」

「僕もそうなると思っていましたが、すこしずつ先生のことが分からなく……いえ、最初から分かっていなかったんですが、特に最近、先生のいままでの行動や言動に違和感を覚えるようになってきたんです。……あの、志賀さんは先生の息子さんの顔を見たことがありますか?」

「ないよ。そもそも子どもがいることも知らなかったよ。でも、それがどうしたんだい?」

「――似てるんです」

「きみに?」

 彼は肯定も否定もせず、ほほ笑みだけを俺に向け、その表情は先生の表情によく似て、彼こそが本当の息子のようにさえ思えてくる。

「ここが解消しないと限り、僕は先生と一緒にいてはいけない。そんなふうに思うんです。それに……」

「それに?」

「先生への違和感がきっかけになったのは事実ですが、純粋に僕は僕だけの人生を歩んでみたい、って思うようになってきて……。たとえそれが、どんなに苦しいものであっても」

「きみが決めたことなら、俺は応援するよ」でも……。彼のその新たな姿を、俺が見ることはないだろう。とても残念ではあるけれど、仕方のない話だ。「……はじめてきみたちに会った時のことを覚えているかい?」

「えぇ、あんなに強烈な依頼を忘れることできないですよ。先生にとっても特別な依頼だったからこそ、僕たちは定期的に会うことになりましたし、ね」

「そのおかげで、きみという年齢が二十も離れた、俺にとっては唯一と言ってもいいくらいの友人を得たわけだから、あの一件も悪いことばかりじゃなかったのかな」

「奥様も、もう落ち着かれている感じでしたね」

「あぁ、とても嬉しいよ。……まぁ話を戻すが、長く一緒にいると、大なり小なり相手に何かを思うことはあるものさ。俺にとってはそれが妻になるし、きみにとってはそれが先生になる。考えて、きみなりの答えを見つけるといい」

「志賀さんにとって、奥様……光希さんは、どういう存在ですか?」

 志賀光希……妻は……、俺にとって妻は、彼女はどんな存在なのだろう。

「いまだによく分からない。不思議な存在だよ。いま恋愛小説を書いてるんだけどね。別に光希をモデルにしたわけじゃないのに、書いているうちに、自然と作中のヒロインが彼女に似ていくんだ。そういうのに気付くと、良いところも悪いところも、どこまでも俺の人生に根付いているんだな、と思ったりもする」

 すこしだけ雑談をしたのち、彼は帰っていった。帰る間際、彼は不安そうなまなざしで、俺に、また会えますか、と聞いてきて、俺もほほ笑みだけを返すことにした。

 自分の人生にはそれほど後悔もしていない。だってさほど期待もしていなかったから。

 心残りがあるとしたら、光希のことだ。

 俺はどうせ先の進まない原稿のデータを保存してパソコンの電源を落とし、一通の手紙を書くことにした。



【文芸雑誌「星白」2016年7月号「作家・志賀恵聖追悼特集」著者紹介文より】

 彼のデビュー作『虚構の中に舞う』の衝撃を、いまも忘れられずにいる。

 まずは筆者のことを知らない読者のために、簡単に自己紹介させてもらうと、筆者は志賀恵聖と同年デビューの売れない作家である。親密な交流があったかと言うと、ほとんどなく、そもそも彼は作家同士での交流に興味はなかったのではないだろうか。筆者に白羽の矢が立ったのは、同じ時期にデビューした、ただそれだけだ。

 彼の作品に初めて触れたのは、今からちょうど二十年前の夏だ。自分の最初の著書が書店に並ぶ。そのことにうきうきしながら書店の文芸新刊棚に行くと、そこには明らかに自分の著作よりも強烈に目を惹く小説が平積みになっていた。本に呼ばれる、という感覚がある。まさにあれがそんな感覚で、自分の初めての新刊よりもその本が気になり、購入して帰ったその日暮れの頃から翌日の明け方まで徹夜で読み耽り、感嘆の息を漏らすことしかできなかった。それが『虚構の中に舞う』だった。

 この作品は作者自身の生い立ちが語られることからはじまり、すべてが順風満帆にいっていた高校時代に比べて、大学時代の人間関係に、あるいは就職してからは職場の劣悪な環境に悩み苦しむ……、そんなどこにでもあるような自伝的な青春小説か、と思ってしまう前半なのだが、途中から明らかにおかしくなる。やがて作者と同名の語り手が自分を苦しめてきた周囲の人間を殺して回るスプラッター小説を書きはじめるのだが、そのうちに現実と虚構の区別が付かなくなって、現実でも殺人に手を染めてしまう、という感じで歪に展開し、それをどこまでも静謐な文体で綴って、それが強烈に残るのだ。殺害された登場人物には現実にモデルがいた、というのだから驚きだ。これを読んでいる志賀の愛読者なら知っている、と思うが、彼の著作の主要人物には大抵、モデルがいる。

 彼がこの作品を二十代前半で書き、いや二十代前半という若さだけが持ちうる恐れ知らずな輝きだったのかもしれない。それを知った筆者の心は嫉妬よりも絶望を感じた。こういう小説を本物と呼ぶのか、とそんな気持ちになったのを覚えている。

 この作品は、毀誉褒貶含めて、かなり話題になった。だから多くのひとが彼の次作を待ち望んでいたし、筆者もそのひとりだったのだが、デビューから二作目まで沈黙していた期間は思いのほか長く、二作目が出版されたのは『虚構の中に舞う』の毀誉褒貶を読者が忘れつつある頃だった。とても端正なミステリだったが、かつてあった毒や棘をすべて失ったような内容で、それがすこし残念だったのを覚えている。

 二作目以降の彼の作品は、そのほぼすべてが優れていて、商業的にも成功を収めた、と言っても問題ないはずだ。だが、筆者はあのデビュー作の頃の彼がいつか戻ってくると、ずっと待ち望んでいた。そう思っていたのは、筆者だけではないだろう。

 彼の死によって、それが永遠に叶わぬことが残念だ。



 先生ほどではないが、このひとも、昔と比べて外見があまり変わらない。

 志賀さんの葬儀から一ヶ月近くが経ち、奥さんである光希さんの顔を見るのも、それ以来だった。広い一軒家にひとりだと精神的な苦しみもさらに大きくなってしまうのかもしれない。もう以前のような一戸建てに夫婦で暮らすような生活ではなく、現在は別宅として借りたアパートにひとりで住んでいるそうだ。

「きょうも、ありがとうございます」

 消え入りそうなちいさな声で、光希さんが言った。きょうも、という言い方なのは、先生のほうはこまめに光希さんのもとを訪れていたからだ。僕も知ったのはつい最近のことなのだが、生前の志賀さんから頼まれていたそうだ。自分の死後の光希が心配で仕方ない、気に掛けてやってくれないか、と。新たな生活の環境を整えたのも先生のようで、確かに光希さんひとりだと、そういったところも気に掛ける必要があるかもしれない。

 どこかぼんやりとした子、ね。

 僕と先生が最初に光希さんと顔を合わせた時、先生がそう言って溜め息をついたのを覚えている。まるで小学生くらいの子どもに言うような口調だったが、実際の光希さんの年齢はそこまで先生と離れているわけではない。先生が言うように、僕から見ても、光希さんは、ぼんやりとして危なっかしい印象があった。

 妻の心に巣食う闇を払ってくれ、もし無理ならば、妻を殺してくれ。

 志賀さんから初めて依頼を受けた時の言葉が脳裏によみがえる。志賀さんにとっての光希さんは、光希さんにとっての志賀さんは、どんな存在だったのだろうか。ふとそんな考えが浮かぶ。

「どうしたの? そんなにおでこにしわを寄せて」

「あっ、いえ、ちょっと考え事をしていました。すみません……」

 先生のほうにしか意識が向いていないと思っていた光希さんの目が、気付けば僕に向いていて、慌てて言葉を返す。

「ごめんね。失礼な助手で」

「いえいえ、気にしなくて大丈夫ですよ」

 と、光希さんがほほ笑む。光希さんとは僕を介さずにいままで会っていたわけで、何故、先生はきょうに限って僕を誘ったのか、とそんな疑問はあったが、まぁぶつけたところで先生は答えてくれないだろう。ただ理由はどうあれ、ここに来るまでずっと不安だった。もしかしたら志賀さんが死んで以降、最初に会った頃の光希さんに逆戻りした状態になっているのではないか、と思っていたからだ。先生が何度も足を運んで、闇を払ったあの日々が繰り返されているのではないか、と。

 でも……、

「あの……、先生、いつも来てくれて本当に嬉しいです。でも私も子どもではないですから、一ヶ月もあれば、気持ちもさすがに落ち着いてきます。これ以上、ご迷惑もおかけできないので、お忙しいでしょうし、無理に来ていただかなくても……」

 やり取りをしている限り、光希さんの精神状態は安定しているように思えた。

「そうね……こうやって話していても、だいぶ元気になったのが分かるね。嬉しいよ」

 先生が光希さんの頬に手を当てながら、言った。

「これも全部、先生のおかげです」

「本人の意志がなければ、いくら私に能力があっても、どうにもならないことよ。そう言えば、彼の本は読んでる?」

 先生が目を向けたのは、積み上げられた七、八冊の書籍だった。すべてハードカバーで、作者名は、志賀恵聖、になっている。光希さんが志賀さんの本を読んでる、ということに僕は違和感を覚えた。

 妻は絶対に俺の作品は読まないし、俺も妻には絶対に読ませないんだ。確か以前、志賀さんがそんなことを言っていた覚えがあり、その理由を志賀さん本人に尋ねたことがあったからだ。

 違和感が表情に出ていたのだろう、光希さんがうすく笑みを浮かべた。

「あぁ、彼から聞いていたのね。私が彼の本を絶対に読まない、って。うん、そうね。彼が生きている間に、私が彼の本を読んだことは一度もない。彼は、自分の顔を知っているひとに自作が読まれるのをすごく嫌っていたのも知っているし、私も彼の隠れた思考を彼の作品を通して気付いてしまった時、いままでと同じように接することができるかどうか不安だったから。でも彼が死んでちょっとしてから、先生が薦めてくれてね」

「もう彼はいないんだから、気遣う必要はないでしょ?」

 先生の問い掛けは、光希さんではなく、僕に向けられていた。

 特別な用事なんてない。ただ会いに行ってすこししゃべるだけ。そう先生から聞かされていた通り、別に先生と光希さんとの会話に仕事を思わせる雰囲気はなく、金銭のやり取りがある様子もなかった。第一、もしお金が動くならば僕に何か一言あるはずだ。一応、僕はまだ助手であり、同居人だ。

 まぁもしかしたら生前の志賀さんからこっそりとお金を貰っていた、という可能性もあるが……、さすがにそれは考え過ぎだろうか。志賀さん夫妻と先生と、僕、この四人の関係は仕事がきっかけではあるが、仕事上の付き合いが終わっても関係が続いていて、僕たちの普段を考えれば、それはとてもめずらしい。先生にとっても、友人に会いに行く、というような気持ちがあったのではないだろうか。

 光希さんの住むアパートを出て、僕は車の中で先生を待っていた。車に乗る直前、忘れ物をした、と言って、光希さんの部屋に戻ってしまったのだ。意外と時間が掛かっているが、見つからないのだろうか。

「ごめん、ごめん」

 と、先生が助手席のドアを開けて、乗り込んでくる。

「光希さん、元気そうでしたね。志賀さんの心配が杞憂に終わって良かったです」

「そうかしら? 私には彼女の心の先に、漆黒の闇が見えたけれど」

「でも、昔のように憔悴しきった感じもなかったですし……」

「あなたもまだまだね。心の闇の濃度は外見だけで判断できるものではないのよ」

「すみません……」

「いまの彼女は、かつてのあなたに似ている」

「どういう意味ですか?」

「怪物、よ」

 先生はまだ、怪物に囚われているのだろうか。それとも僕が目の前にいるから、敢えてそう言っているのだろうか。



〈個人ブログ「現代の都市伝説を追え」――【或る作家の死】項より(前半)〉

 それは作家の呪いか。

 今回紹介する現代の都市伝説は、つい最近話題になったばかりなので、作家の実名も込みで多くのひとが知っている話だと思います。とはいえ、事態が収束してからまだ日が浅く、実際に死者も多く出ているような出来事なので、関係者に配慮して、名前はすべてイニシャルにしました。コメント欄などにも、実名等は書かないでください。

 最初に言っておきたいのが、筆者は今回の事件の関係者ではありません。知らない方のために添えておくと、筆者は某オカルト情報誌の元編集者で、いまは不可解な死を遂げた姉の死の真相を追う、ただの一般人でしかなく、事件当時に週刊誌で飛び交っていた情報以上に特別な知識は、一切持っていないです。

 そんな半端な知識で何故書こうと思ったか、と言えば、私とこの事件がどこか遠くで繋がっているような印象を抱いたからです。特にそれが何なのかは分からず、ただの予感に過ぎないのですが……。今回この出来事を扱った動機はこれに尽きます。

 ベストセラーになった著作もある作家のS氏の死が、事のはじまりでした。

 S氏の死については、不審な点はひとつもなく、膵臓癌だった、と言われています。ステージが進んでいても、あまり外見的な変化はすくなく周囲にはぎりぎりまで隠していて、奥様のМさんにもいずれ治る病気だ、と伝えていたそうです。余談ですが絶筆になったS氏の最後の著作は自伝的な要素も色濃い恋愛小説で、本人の口からそう明かされているわけではないものの、ヒロインのモデルは奥様のМさんだと解説されている評論家も多いです。

 愛妻家の一面もかいま見れて、すこし羨ましくもなりますね。

 ……と、話を戻します。

 このS氏のすべての著作にはちょっとした共通点があり、それは作中の登場人物のうちの最低ひとりは彼の周囲の誰かがモデルになっている、というものです。そんなの決してめずらしい話ではないのでは、と思う方もいるでしょう。確かに作家が見知った誰かを材にとることはよくある話なのかもしれませんが、それでも作品になる過程で大きく脚色が加えられたりするものです。私小説なら話は変わってくるかもしれませんが、特にS氏はどちらかと言えば、基本的にエンタメ系のひとでしたから。

 なのに……、

 S氏は知っているひとが読めば明らかに、あのひとだ、と分かるような登場人物を配し続けて、現代の出版業界において抗議の多い作家の代表格として有名だったそうです。仕事仲間としては関わるのに勇気が要りそうな作家ですね。それでも彼の作品が途絶えなかったのは、彼の作品の面白さ、応援する熱烈な愛読者の多さ……、それ以外にはないでしょう。

 その中でも、その要素を過剰に注ぎ込んだのが、彼のデビュー作だと言われていて、その作品の中にはそれ以降の作品を一切認めない、という向きもあるそうです。基本的にエンタメ系と前述しましたが、このデビュー作に関しては、エンタメ性はかなり稀薄です。

 S氏の死んだ、三ヶ月後でした。ビルの清掃員をしているS氏の兄が不可解な転落事故で命を落としたのです。事故死として結論付いたものの、その死には不審な点が多かった、と言われています。最初にこの事故を記事したのは、前に筆者が勤めていた出版社が刊行していた、すこし下世話なところがある某週刊誌だった、と記憶しています。

 恨み続けた作家の呪いか。

 みたいな見出しだったはずです。S氏の兄は有名なミステリの賞を受賞したS氏の七作目の著作に登場するタレントとして成功した主人公の兄のモデルとなった人物で、ギャンブル好きで借金を抱えていて、頻繁に小金をせびりに来る人物として描かれています。内容は倒叙形式のミステリで、このキャラクターは物語の中で主人公によって殺害されてしまいます。

 作品で兄を殺した作家の呪いは、現実にも浸食するのか。記事は、そんな内容でした。

 次が、その一ヶ月後、S氏の大学生時代の元恋人で、女優をしていた女性の死です。自宅で亡くなっている姿が発見され、心臓発作だと言われています。彼女をモデルとした登場人物が出てくるのは、S氏の最高傑作との呼び声も高いデビュー作で、この作品は現実と虚構の区別が付かなくなったS氏自身を思わせる主人公が、周囲の人間を殺して回る、という内容になっています。

 主人公の凶行の被害者として彼女は登場して、筆者はまだ実際にそのデビュー作を読めてはいないのですが、内容を調べる限り、主人公を手ひどく振ったことが原因で殺害されるそうです。ちなみにこの女優ですが、福井県に拠点を置いた新興宗教を騙った詐欺団体が破滅していく顛末を綴った【ある宗教団体の終局】の項とも関わりがあって、彼女はこの団体が制作していた勧誘ドラマの主演女優だったそうです。

 彼と関連する、このふたつの死は、たまたまでしょうか?

 もちろん偶然という可能性はありますが、ここまで近い間に死が立て続くと関連付けたくなるのも、人の性、と煽情的に書く彼らの気持ちも分からなくはありません。先述した雑誌も含めて、一部の週刊誌がこれでもか、と執拗にこの話題を取り上げ続けたのを覚えています。……ただ、それらの記事の内容の正しさについてここで語る気はありません。

 ただ、S氏の死から半年以内に、彼の著作のモデルであり、なおかつ作中で死を遂げている人物……このふたつに該当する人物が、六人も死んでいる、ということだけは確かです。



「あら、今日はひとりなの?」

 玄関のドアを開けた光希さんが、僕を見てほほ笑む。彼女の笑顔に恐怖を感じたのは、初めてだった。

「先生はきょう、仕事がありまして……」

 と、僕は嘘をつく。今回の話に先生が関わると、絶対に碌なことにならない気がして、僕は彼女のもとを一人で訪ねることにしたのだ。不審に思われたら、どうしよう、という不安もあったが、光希さんは気にしたふうもなかった。

「それできょうはどうしたの?」

 リビングに座り、僕の真正面には笑みを崩さない怪物の姿がある。

「いえ、実は気付くのがだいぶ遅くなってしまったんですが、僕の自宅の郵便受けに志賀さんからの手紙が届いてたんです。それを読むと、どうしても光希さんと話をしたくなってしまって」

 光希さんの前でも、僕は志賀さんのことを、志賀さん、と呼ぶ。なんとなく癖になっていて、その呼び方はずっと変わらない。

「彼から? ……どんな内容だったの?」

「俺はもうすぐ死ぬだろう。あの時は黙っていて、すまない、みたいな内容でした」

 僕はまた、嘘をつく。

「あの時?」

「ほら志賀さんが亡くなるすこし前に会いに行ったことがあったじゃないですか。あの時点で、志賀さんは自分の死期が近いことを知っていたみたいですね。それを僕に伝えなかったことを気に病んでいるような文面でした」

「あっ、あったね、そんなことも。ついこの間だけど、もう懐かしい、って思っちゃうなぁ」

「もう半年近くになりますからね。僕も短いような長いような、そんな気持ちです。……あの、光希さん」僕は覚悟を決める。「志賀さんの死に、気持ちの整理はつきましたか?」

「えぇ、前も言ったでしょ。大丈夫よ。いまの私はすごく落ち着いている」

「なんで、そんな嘘をつくんですか?」

「何を、言ってるの?」

 と、彼女はちいさく首を傾げる。その仕草には無邪気さがあった。

「だったら……、気持ちの整理がついた、というのなら、なんで殺したんですか? ……五人もひとを」

「殺した? 何を言ってるの?」

 ふふ、と彼女の笑う声に、僕は耳をふさぎたくなる。

「どんな事実を知ろうとも、警察にも、先生にも、誰にも言いません。ここで聞いたことは内密にします。だから本当のことを教えてくれませんか?」

「私はずっと本当のことしか話していない。だって私は誰も殺していないのだから……。別にきみが警察に何かを言うなんて思ってもない。あのひととずっと仕事を続けてきたきみの口の堅さは、信頼しているから」

「それでも真実は話してくれないんですね」

「きみの求める話が聞けないだけで、真実ではない、と決め付けるのは失礼よ。私が彼の死後、彼のためにしたことは、たったひとつだけ。彼を物語から救ってあげること、それだけよ」

「物語から救う……?」

 話が逸れていくことに不安を覚えながら、僕は彼女の語りに聞き入っていた。

「彼の書いた本を読みはじめてから、私はずっと考えていたの。なんで彼は、私に読んで欲しくなかったんだろう、って。恥ずかしいから、とか、そんなこと言っていたけど、あれが言葉通りのはずがない。全然違う。読んでいるうちに、私、すこしずつ私の知らない彼に気付いたの。なんで生きてる時に、こっそりとでも読んで、気付いてあげられなかったんだろう、って思ったくらい。作品の中に描いていたものこそ、彼にとっての現実で、それを読者が物語と勘違いしているだけなんだって」

「あれはフィクションだから、虚構ですよ」

「現実よ。ずっと彼を見てきた、私には分かる。あれは現実。彼は物語に苦しめられてきた長い時間を現実にぶつけるように、小説を描き続けていた。私にだけは気付かれると思っていたから、絶対に私には見せなかったの」

 もう一度、言い返そうとして、やめた。永遠に平行線をたどるような気がしたからだ。

「救う、というのは、どういうことですか? それが五人を殺した動機ですか?」

「だから……、何を言ってるの?」

 首を傾げる彼女は、本当に不思議で仕方ない、という表情をしている。あぁそうか、これは誤魔化しているわけではなく、本当に彼女は、逆、にしてしまったのだ。

「殺してはない、と」

「えぇもちろん。私は物語の中で彼を苦しめてきたひとたちを消してあげただけ。物語の登場人物を、殺す、という意味でなら、私は確かに殺したけれど、それって舞台から消す、ってことでしょ。現実のように罪になるわけじゃない」

 志賀さんが彼女に自作を読ませなかった本当の理由が、いまようやく分かった気がする。

 こんな未来を想像していたのだ。

 でも僕は彼女にそれを口にはしない。言ったところで、きっと彼女は理解してくれないだろう。

 僕は志賀さんから死後届いた手紙を、彼女の前に差し出す。それは僕ではなくて、彼女のために書かれたものだったからだ。

「すみません。さっきは嘘をつきました。これ、なんの間違いか分かりませんが、僕のところに届いたんです」

 僕は、三度目の嘘をつく。志賀さんは封筒の中に、彼女へとあてた手紙だけではなく、僕のみに向けられたメモもしっかりと残していた。

 そこには一言、

〈もし妻の心に闇が巣食っていたなら、彼女を殺してくれ。もし無理ならば、この手紙を彼女に渡してくれ〉

 と書かれていて、彼女への手紙の内容も僕はすでに読んでいる。その時にはまったく意味が分からなかったが、いまなら理解できる。

 僕は彼女がその手紙を読む前に、その場から去ることにした。

 志賀さんから光希さんへと向けられた手紙には、未完のまま出版された彼の最後の作品の続き、その構想が書かれている。物語は主人公の妻の自殺、という形で完結させる予定だった、と。彼女のことを知っているひとなら、誰でもあの作中の妻のモデルが光希さんだ、とすぐに分かるはずだ。

 志賀さんは、どこまでの未来を見通していたのだろうか。もしかしたら誰よりも彼自身が、この手紙が使われることのない未来を願っていたのかもしれない。

 もし彼が生きたままだったなら、この作品の結末はまったく変わっていた気がする。なんとなくだけど、そんなふうに思う。

 小説家の彼が、彼女についた最後の嘘だ。

 さよなら、光希さん。



〈個人ブログ「現代の都市伝説を追え」――【或る作家の死】項より(後半)〉

 最後に亡くなったのは、S氏の奥様であるМさんだった、と言われています。言われています、と曖昧な言い方になってしまったのは、多くの都市伝説や怪談話などと同様、この話の明確な終わりをどこに置くか、の判断が難しいからです。もしかしたらМさんの死以降も、私たちが知らない、気付いていないだけで、彼の作品のモデルとなり、現実で死を遂げた人間はいるかもしれません。ただ、すくなくとも週刊誌などで報じられたのは、Мさんの死まで、です。なので今回は、彼女の死とともに、この件は終着した、という前提をもとに記事を書いています。

 最後の被害者であるМさんの死因は自殺でした。

 お湯の張った浴槽の中、包丁で首を切ったそうです。遺書もなく自ら死を選んだその理由もはっきりとしない彼女に対して、被害者、の表現が適切かどうかは悩むところですが、彼女の死に呪いが関わっているのならば、ということで被害者と置くことにしました。ただ、もし仮に週刊誌が報じた内容に苦しんで死を選んだのだとしても、被害者に変わりはない、と言えるかもしれません。自分のことではないのに思わず殺意を覚えてしまうほどに、あの時はひどい記事が多かったですから。

 前述したように彼女は、絶筆となり死後出版されたS氏の最後の著作、そのヒロインのモデル、と言われています。

 彼の最後の作品、最後のモデル、その人物の死によってこの呪いが終わりを迎える、というのは、あまりにも出来過ぎた話に思えなくもないですが、もう事件からそれなりに経っていますし、敢えて不謹慎を承知で言わせてもらえば、半年の間に六人も、彼も含めれば、ひとりの人間の周囲で七人もの人間が亡くなる、という騒動自体がどこか物語めいていて、その結末が腑に落ちるように感じてしまうのも事実です。

 この出来事によって、過去にベストセラーもあるとはいえ、小説好きなら知っている、くらいの知名度だったS氏は、一躍時の人となり、生前では考えられないほど、多くのひとに名前を憶えられてしまったわけです。この事実には、個人的にすこし寂しさを覚えてしまいます。

 こんなふうな形で知られることに、件の作家は草葉の陰で素直に喜べるのだろうか、と。

 そして事が終われば、こんな大きな出来事であっても関係者以外は簡単に忘れてしまいます。かく言う筆者だって、こんな活動をしていなければ、いまも記憶に残っていたか怪しいものです。

 先日、ふと立ち寄った書店で彼の著作が一冊もないことに気付いて、そんなことを考えてしまいました。



 第五話「人間へ、2018」


 この村について調べてる?

 そうだったんですか。めずらしい方ですね。えぇ、っと……。俺が名乗った時に、あなたの名前も一緒に聞いておけば良かったですね。

 コウさん、というんですね。ペンネームみたいなものでしょうか。もしかして俺、むかし、コウさんと面識があったりしますか。いえなんか見覚えがあるな、って。あと、ほら、さっき俺が、大木、って名乗った時、ちょっとあなたの反応が不思議だったんで。コウさんも、もしかしたらここに住んでいたことがあったんじゃないか、って思ったんです。

 知り合いに似てた?

 ……そうですか。

 ここね。俺の小学校の時の同級生が経営している喫茶店なんですけど、村で一番人気のお店なんですよ。って言っても、他に喫茶店がないだけの話なんですが。あちゃ、あいつに聞かれちゃったな。睨んでる睨んでる。怒るなよ、悪い悪い。まったく……。あぁすみません、彼とは子どもの頃から仲が良くて。まぁでも味は本当に良いですよ。お薦めです。

 でも、びっくりしましたよ。誰も住んでいない家をずっと眺めているひとがいるから危ないって注意するだけのつもりだったのに。いきなり、この辺りの過去について知りたい、なんて言い出すから。ライターをしている、っていうのも嘘じゃないか、実はちょっと疑ってたんですけど、まぁでも俺にそんな嘘をついても、なんも得がありませんからね。信じますよ。現地取材みたいなものでしょうか。こんな面白みのない村に、そんな取材対象になるものがあるとしたら、さっきの家族のことでしょうか。……そうですよね。村ではあの頃、騒ぎになりましたからね。

 あっ、おい、どっか行くのか。

 買い出し? いや、客がいる時に行くなよ。お前なら別にいいかな、って……。俺だけなら、いいけど、きょうはコウさんも……あぁ、まぁいいか。誰かが来たら待っててもらうから、早く帰って来いよ。

 ……行っちゃいましたね。自分勝手な性格なんです、むかしから。

 でも、好都合かもしれません。あの家のことは、あまり聞きたくないでしょうし、特に俺たちはあそこの息子さんとクラスメートでしたから。

 コウさんは、都市伝説ライターみたいな感じのひとなんですか、いえ実は俺、最近開設された「現代の都市伝説を追え」って結構話題になっているブログが好きで、実はああいう話に目がないんです。意外でしょ。いや……初めて会ったひとにそんなこと言われても困りますよね。よく見た目に反して、意外だ、なんて言われるんです。

 でもあの家族のこと、俺はあんまり知らないんです。

 さっきも言ったように詐欺で負った借金を苦に夫婦が自殺した、っていうくらいしか。

 会ったことですか?

 その夫婦と会ったことはたぶんありません。たぶん、というのは、こんな狭いコミュニティですし、それに同級生のご両親ですからね、見たことぐらいはあるはずなんですが、全然覚えてなくて……。

 息子さん、ですか……?

 うーん……、俺とその子の関係って、ちょっと複雑で、なんと言えばいいのか困ってしまうところもあるんですが……、実は俺、彼から小学校の低学年の頃、いじめを受けていた、って言われてるんです。

 煮え切らない言い方になってしまって、すみません……どう説明しようかな……。確かに俺が、その子からちょっと嫌なことをされていたのは事実なんです。……で、まぁ俺、不登校だった時期があって、その一番の原因が彼だ、ってクラスメートのみんなは思っていて、それは間違いではないんですけど、すこしだけ事情が違う、というか……。

 俺の母親なんですけど、ちょっと異様なほど過保護なところがあるんです。子ども同士の喧嘩の延長線上にある、と俺自身は思っていたものに口を挟んできた母が、俺と彼の関係を複雑にしてしまって。その子の家に怒鳴り込んでいって、お前の息子が自分の息子をいじめた、って感じでね。周囲には悪評をばらまいて、俺や親父がなだめても聞いてくれなくて。最初は俺のためにやってくれていたんだとは思うんですけど、途中からは俺なんかどうでもよくて、自分のためだけにやっていましたね、あれは。

 あの子、クラスでも、いつもすごく怯えたようになって、加害者意識が強くなっていくのが見ていて分かりました。

 気にしなくていい、と言いたかったんですけど、俺も俺で自分のことでいっぱいいっぱいだった、というか。……ある日から俺、学校に行けなくなっちゃって……、母親から学校に行くな、って閉じ込められるようになって。

 こんな話、母親が死んだいまだからできるんですけどね。

 どうしたんですか?

 顔色が悪いですけど。嫌な話を聞かせちゃったせいですね。すみません……。

 本当に、大丈夫ですか?

 話の続き……? え、えぇ……、では続けますね。

 その子なんですけどね。行方不明になったのは、俺が学校に行けてなかった時期です。さっきも話しましたけど、あの頃、村に不審者のおじさんが出る、っていう噂があって、誘拐されたんじゃないか、と学校とかだけじゃなくて、村全体がちょっとした騒動になっていたので、俺の耳にもしっかりと入ってきました。もしかしたら家出の可能性だってありますが、小学生にできる家出なんてたかがしれている。

 だからおそらく誘拐されてしまったんじゃないか、と……。

 卒業アルバムの集合写真にはその子以外が全員そろっていて、彼だけが欠席者扱いになっていて、それを見るたびに、その行方不明と俺は関係ないはずなのに罪悪感で苦しくなる……あ、いえ、すみません。こんな話を聞かされても、困りますよね。いままで誰にも話してこなかったのに……、なんでだろう、コウさんの顔を見ていると……。

 欠席者、ですか?

 いなかったのは彼だけですよ。他は全員そろっていました。俺も六年生の時には学校に復帰できていましたし、だからあの子さえいれば、六年間、最初から変わらない同じ面子がひとりも欠けることなく、そろうはずだったんですが……。



 大木くんと話し終え、喫茶店から出ると、買い出しから帰ってきたマスターがいて、すれ違いざまに会釈を交わす。大木くんに聞かされて彼が同級生だ、と確信したが、その前から見覚えのある顔に懐かしさは感じていた。

「お代は、さきほど彼にお渡ししました」

「ありがとうございます。またぜひ、お越しください」

 穏やかな笑みを浮かべたマスターは、僕の正体に気付いているだろうか。いや気付いているわけがない。もしかしたら僕と同じように、見覚えがあるくらいには思っているかもしれないが、自信を持って僕の本名を指摘したりは無理だろう。同級生だった、ということさえ、彼のほうは知らないのだから。

 大木くんにも喫茶店のマスターにも、自分の本当の名を明かすつもりはない。この村に、僕の本名を聞いて得する人間はひとりもいない、と知っているからだ。わざわざ迷惑を掛けるために、僕はこの場所を訪れたわけではない。

 大木くんとの話は思ったよりも長くなってしまったが、僕にとって重要な話を色々と聞くことができた。

 かつて通った母校、栗殻小学校はその喫茶店からとても近い場所にあり、僕はそこまで歩くことにした。久し振りに栗殻村を訪れた目的の中に、学校へ行くことは織り込まれていない。それでも懐かしい気持ちとともに、あの頃の僕が憎むしかできなかった学び舎をもう一度、網膜に焼き付けたい、と思ったのだ。

 栗殻小学校は僕の通っていた当時から、生徒数はすくなかったが、いまはその半分よりもさらにすくない、全校生徒三十人程度の規模になってしまっているそうだ。少年時代に、僕が通学路にしていた道のりに沿って歩く。十年経てば、多くの光景はほとんど形を変えてしまうが、この村はあまり変わらない。良くも悪くも昔のままだ。でもどれだけ似ていても、あの頃とまったく同じなんてことはなく、どこを歩いても、初めての場所にいるかのように違和感だらけで、だけど学校との距離が縮まっていくうちに、その引っ掛かりは減っていく。似ている。だけど違う。それでもあの時と変わらぬ同じ場所に僕はいる。なんとも不思議な感覚だ。まるで時間を戻すように、遠い未来から幼い自身を見つけるように。

 僕は校門の前に立ち、ひとつ息を吐く。疲れか不安か、感慨なのか、その息に混じる感情は自分でもよく分からない。

 僕の背があの頃よりも高くなったからだろうか。それとも色々な世界を見知ったからだろうか。そこにいた時は僕の世界のほぼすべてにさえ感じられた巨大な檻は、もうどこにでもある公共の建物でしかなかった。

 僕はその建物に背を向けて、また歩き出す。

 向かったのは、公園だ。僕を人間から怪物に変えた、というあのトイレはもう撤去されて、そこには残っていない。

 僕はベンチに座ってスマホを取り出す。呼ぶ相手は決まっている。先生も、もうこっちに着いている頃だろう。あとは僕がここにいることを伝えるだけ――。

 ……いや、その必要はなかったみたいだ。

「先生……」

「まったく、いきなり音信不通になった、と思ったら、今度は栗殻村まで来て欲しいなんて、ね」

 栗殻村にいます。会えませんか。僕が言ったのは、それだけだ。

 公園の反対側から歩いてくる先生は、僕がここに来ると確信して待ち構えていたのだろうか。だとしたら本当に……、なんて鋭さだ。

「よく分かりましたね。僕がここにいる、って。先回りでもしてたんですか?」

「さぁね。……まぁそもそもあなたが、栗殻村で用のある場所なんて、そんなにいくつもないでしょ」

「先生と、ずっと話したい、と思ってたんです」

「いままで色々とふたりで話してきたじゃない。なに、変なことを言ってるの?」

「そういう話ではなくて……。いや、分かって言ってますよね。あの日の話ですよ。先生の気持ちは分かりませんが、僕はその話をずっと避け続けてきました。僕は知りたい。あの日のことを。それがどんなものであろうとも、真実と向き合う、その覚悟を決めるために、ここを選んだんです」

「あの日、ねぇ。あなたが怪物になった日?」

「いえ……違います。僕が怪物になった、と先生が僕に嘘をついた日のことですよ」

「不思議なことを言うのね」

「自信はなかったんです。だからきちんと先生と話して確かめよう、と思っていたんです。でも切り出せないまま時間だけが過ぎていく。……実はついさっき本当に偶然なんですけど、確信しました。先生の言葉を通してではなく、こんな形で確信してしまうなんて思ってもいませんでしたよ……。やっぱり……、あの日……、僕は誰も殺していなかったんですね」

「なんで、そう思うの?」

「さっき僕が誰と会ったと思いますか?」

「さぁ? 誰かしら」

「岩肩くんですよ。彼、いまは喫茶店のマスターをしているんですね」

 先生が本心から驚いた顔を、僕は人生で初めて見た気がする。



 僕たち以外は誰もいない公園のベンチに、ふたり並んで座る。以前はよく姉弟に間違われることも多かったが、いまでも僕たちふたりはそう見えるだろうか。先生は変わらず年齢よりもずっと若い外見をしているが、さすがにそれはもう難しいかもしれない。年齢の近い親子くらいが限界だろう。

 親子か……。

 実際、僕は先生と、母親よりも倍近い年月を一緒に過ごしてきた。

「まったく……、その運、というか、タイミングの良さは、ずっと私と一緒にいたせいかしら。まさかあなたが彼と私の知らないところで顔を合わせるなんて思ってなかった」

「それは認める、ということですか? 岩肩くんが死んでいない、と」

「だってもう会っちゃったんだから、それとも否定して欲しい? 否定したところで、また文句を言うわけでしょ」

「まぁ、そうですけど……」

「それで? どうしたいの、あなたは? 縁を切る、私と」

 縁を切る、という言い回しが先生らしい。別に先生は無理に僕を引き止めたりはしないだろう。実際、失踪するように彼女のもとから姿を消した時も、僕を探す気配さえなかったのだから。

「まだ何も決めていません。……すこし話しませんか? あの時のことを」

「いまさら知ったところで、過去は戻ってこないのよ」

「過去を知ることで、未来が変わるかもしれませんよ。僕のこれからの未来のために、すこしだけ付き合ってくれませんか? 二十年も一緒にいたんですから、このくらいのわがままは許してください。長年の疑問や、違和感の正体を解決したいんです」

 冗談なのか本気なのか判断の付かない、いつも通りの口調だったが、かすかに不安が混じるような、普段では絶対見せない表情をしていた。

「あなたが来て四年目か五年目くらいのことだったかな。覚えてる? 探偵になりたい、って思ったことはないけど、探偵助手になる可能性はあるかも、なんて、あなた、その時の事件の詳しい内容を知りたがっていたよね」

「よく覚えてますね」

 と言いながら、僕も自分自身のその言葉を、先生とのやり取りを、しっかりと覚えている。それは先生と違って、記憶力が良いからではなく、あれが僕にとって特別な事件だったからだ。

「生意気に育ったなぁ、って、憎々しく思ったから、余計に、ね」

 と先生がほほ笑む。

「まぁ探偵助手を務める機会なんてひとつもありませんでしたが、大体、先生は助手がいなくても、大抵自分ひとりで解決してしまいますから」

 だからこそ……、なんで僕なんかを助手にしたんだろう、という疑問はつねに僕の心に纏わり続けていた。

「探偵助手じゃなくて、いまはあなたが探偵よ。疑問も違和感の正体も、完璧じゃないにしても、あなたなりの謎解きは終わってるんでしょ。それを私にぶつけてみなさい」

「僕はある時期からずっと考えていました。なんで、先生……あなたは僕をこの村から連れ出して、僕をそばに置き続けたのか、と」

「私は強制したつもりはないけれど? 別にあの時だって、あなたは断ることができた。もし、あなたが逃げ出していたとしても、私は追わなかったよ。今回が良い例じゃない。実際に、私はあなたを探さなかった」

「そういう問題じゃないんです。僕が言いたいのは、なんで一緒にいる、なんて、そんな提案を僕にしてくれたのか、ってことなんです」

「あの日、言ったはずよ。哀れな怪物を助けてあげたくなった。それだけよ」

「……えぇ。確かにあの時、先生はそう言ってくれました。本当なんだろうか……僕にはずっと疑問でした。だって僕はあなたのそばで、色々な怪物となった人間たちを見てきました。だけど先生は僕以外、誰にも手を差し伸べなかった。僕と同じように怪物に……いや、僕は正確には怪物ではなかったわけだけど、あの頃はそうだと思っていた、っていう意味ですよ……、彼らをあんなふうにしておいて、あなたは僕以外の怪物に手を差し伸べようとはしなかった。例えばさっきも話に出た、双子の妹の霊が姉に憑いた事件。よく考えれば、最初に違和感を抱いたのは、あの時のような気がします。あれも先生なんですよね? 双子の妹……渚さんを殺した三人の女性たちの憎しみが、渚さんに直接向かうように背中を押したのは?」

「さぁ、なんのことかしら」

「素直に頷いてくれる、とは思っていませんよ。……だから、次に行きます。他にも色々な出来事があります。でも……印象的な事件、というと、先生をずっと見下していたあのストーカーの霊に苦しめられていた女性の話でしょうか。結局あの夜、窓から飛び降りて自殺……いえ、ストーカーの幽霊に地獄へと追いやられた、と言ったほうが正しいのでしょうか? あの女性が大学時代にストーカーを殺したのもあなたと会った後、ですよね。もしもまたそのストーカーが接触してきたら反撃するのよ、なんて言って、彼女の倫理観を緩めていく、そんなカウンセリングルームのあなたが簡単に頭に描けるのです。もともと彼女は被害者だから、正直に話したら助けてあげよう、って確か僕に言ってましたけど、彼女がああいう性格だと知っていたからこそ、依頼を受けたんですよね。最初から、この結末になる、と想像していながら、あなたは……」

「それだけ想像力の強さがあるのなら、小説でも書いたら?」

「志賀さん、という大きな才能を間近で見てしまうと、冗談でもそんなこと言えなくなります。……そう、そして最後は志賀さんのことです。あれは露骨でしたね。あんなに露骨に光希さんに志賀さんの著作を薦めて……。あなたなら、どうなるか分かっていたはずです。そして、本だけじゃなくて、さらにもう一押しあったんじゃないか、と思っています。僕と一緒に光希さんに会いに行った日、帰り際に、忘れ物した、って言って、彼女の部屋に戻りましたよね。あれ、本当ですか? あの時が一番怪しい、と僕は踏んでいます。あのあと、怪物の話が急に出て来たりもしましたし……」

「前置きの長い男は嫌われるよ。結局、何が言いたいの?」

「なんで怪物の本性を暴き立ててきた……これは、あなたの言葉を借りただけで、僕は人間の本性が怪物だなんて思っていないですよ……、暴き立てつつも、容赦なく見捨ててきたあなたが僕という例外を作ったのか。僕は知りたかった。だから……ごめんなさい。一度こっそりあなたの部屋に忍び込んだことがあります」

「知ってる」

「そうだと思っていました。だったら僕が何を見たかも、もう知っていますよね。息子さんの写真。僕と同じ名前のコウさんは、あんな顔をしていたんですね」

「かわいいでしょ」

「……すごく似ていますね?」

「誰に?」

「もちろん……、岩肩くんに、ですよ。怪物とか、そんなことよりもずっと、そっちのほうが大事だったんじゃないですか。もともと狙いは岩肩くんひとり、それ以外はどうでもよかった。違いますか?」先生は、何も答えない。「ここからは僕ひとりで考えてもまったく分からなくて、あなたの口から聞きたいことです。なんで、岩肩くんが目的で、そして彼が死んでいなかったのに、僕を選んだんですか? ……岩肩くんが死んでいたなら分かる。僕がコウさんの代替品の予定だった岩肩くんの、そのさらに代替品だ、と考えればいいだけ――」

「違う。他の誰でもない。私は、あなたを、選んだのよ」

 強めに放たれた言葉が、僕の言葉をさえぎる。

 思いのほか、先生は真剣な表情を浮かべていた。



 気付けばもう、夕暮れが辺りを茜色に染めていた。

「最初は確かに岩肩くんを連れて行く気だった。理由は……、あなたの言う通りよ。初めて見た時は、あまりに似過ぎていて自分の頭を疑ったくらい。あんなに、コウ、に似ている子がいるなんて、ね」

 この、コウ、は僕を指しているわけではないことは知っていても、すこし寂しい気持ちになってしまう。二十年以上も、僕は彼女のそばでコウとして過ごしてしまったのだから、どうしてもこういう感情にはなる。

「写真越しにしか知りませんが、本当に似ていました……」

「似ているけれど、彼は違った。それだけのことよ」

「それは彼が、僕に殺され……かけたからですか?」

 殺すような気持ちで彼の頭を洗面台の鏡に叩きつけたから、岩肩くんは死んでいるに決まっている。ずっとそう思い込んできた。もしかしたらあの時から、岩肩くんはまだ生きているのでは、と僕は心のどこかで疑っていたのかもしれない。生きているのでは……、でも死んでいて欲しい、と復讐されることへの恐怖や罪の意識による心理的圧迫に耐えられずに、僕は都合よく自身の記憶を書き換えていた可能性もある。いまとなっては分からない話だ。

「そうかもしれないし、そうじゃないのかもしれない」先生の言い方は曖昧で、だけどその口ぶりは自分自身でも答えが分からずに戸惑っているわけではなく、僕にはその理由を教えたくない、というふうに見えた。追及しても絶対に教えてはくれないだろう。経験から知っている。「……初めてあの子を見た時、コウの生きているもうひとつの未来に迷い込んだ気分になったのを覚えてる。あの時の私にとって、あの時の彼はコウだったの。だから、……もうひとりのコウが叶わなかった姿にしてあげよう、って思ったんだけどね」

「叶わなかった、って……」

「現実としか思えない夢を見たことある?」

「ありますよ。特にあなたと出会ってから、何度も」

 例えば渚さんの一件が終わった時、僕は真実としか思えない夢に苛まれ、それから数日間、高熱に苦しむことになった。

「まぁ、私といれば、嫌でもそうなるか……。私も、ね。何度も見るの。間違いなく、あなたよりもずっと多い頻度で、たぶん何十倍も明瞭な夢。私は子どもの頃からそうだった。過去の知らない事実だけじゃなくて、未来の夢を見ることも多かった。普通に見る夢とは明らかに違っていて、ある時期から気付くようになったの。未知の真実を見通す力だって。都合よく見たいものだけを見れるのならいいんだけど、ね……」

「何を見たんですか?」

「こんな私でも、ひとを好きになったことがあってね。結婚して妻になって、出産して母親になった時代があるの。想像もできないでしょうけど、ね。あの頃はちょっと不思議な力は持っている、って言っても、別にいまみたいな仕事は何もしていなかったから、ただのひと、と変わらない生活を送ってた」

「意外です……」

 ただのひと、という言葉がこれほど似合わないひともめずらしい。

「当然よね。そう……当然のことよね。もし意外に思わなかった、としたら、いままであなたは私の何を見てきたんだ、って思うくらいよ」ふふっ、と先生がちいさく笑う。「……ささやかだけど、ね。この穏やかな日常は続いていくはずだ、って思ってた。ううん。違う。続いてくれ、って願ってた。その日常が壊れる夢は、まだ見てなかったから。……でも、そういう願いは得てして叶わないものよ。あの日見た夢が、私のすべてを壊してしまった」

「夢……」

「目の前にいる幼い子どもは、いつか凶悪殺人鬼になる。怪物……大きくなった息子に、私は怪物を見たの……。そんな未来を知った時、あなたなら、どうする? 育てる? 生かす? 殺す? よくある思考実験の一種みたいな話だけど、あの時の私にとっては早急に答えを出さなければいけない現実問題だった」

「それで……」

「答えはもう分かってるでしょ。まるでミイラ取りがミイラになるみたいに、私は怪物になって、そして独りになった。あなたと出会うすこし前の話よ。私が、生まれながらに持っていた様々な力を色々な人間に使うようになったのも、その頃から。私はもう人間じゃないんだから、人間的な倫理観に囚われる必要もないかな、って」

 そして先生は、怪物、に囚われるようになり、僕と出会ったわけだ。これで僕がコウさんと似ていれば運命的と言えるかもしれないが、その役目を担ったのは、僕ではなく岩肩くんだった。

「はっきり言う。最初、あなたは生贄でしかなかった」

「なんで僕だったんですか?」

「福井に来たのは、仕事よ。セミナーを開くから講師をしてほしい、って頼まれてね。そこであなたのお母さんと会ったの。あなたのお母さんは私でも驚くくらい私に妄信的になっちゃって、結構強引に栗殻村に連れて来られたのよ。その家の息子としてあなたがいた。岩肩くんを欲しい、と思ったのは、そのあとのこと。岩肩くん……彼を見て、怪物になった私と彼なら、人間の時とは違ってうまくいくかもしれない。あの子が欲しい……その彼の標的として都合が良かったのが、あなた。それだけ」

「でも結局あなたは、死なずに生きていた彼を選ばなかった……」

「怪物になれなかったし、それに彼は見た目だけはコウに似ているけれど、本質的には全然違う。トイレで倒れている彼を見た時、そう思ったの。放っておけば死んでもおかしくない状態だったから、いっそ殺してあげようかな、と思ったけれど、ね。変な情でもわいたのかしら。ほら、怪物の目にも涙、って言うでしょ」

「鬼、ですよね……」

「まぁどっちでも意味は変わらない。あなたを車に乗せた時、トランクには彼が入っていたのよ。わざわざあなたにばれないように、一度あなたを連れ出してから、もう一度、ここに戻ってきて、彼を彼の家の近くに置いてきたんだから。変質者が誘拐した子どもを解放したふうを装って、手紙まで書いたのよ。……もう疲れてきた。このくらいでいいでしょ。まだ話すこと、ある?」

 先生が大きく伸びをする。

「……いや、だから僕を選んだ理由は……」

「さあね。私は否定も肯定もしないであげるから、答えは自分で勝手に決めていいよ。……さて、私がめずらしくここまで話してあげたんだから、次はあなたの番」

「僕……ですか? 何も隠し事なんて」

「あなたが私に隠し事なんてできないでしょ。もっと簡単な、私からの質問よ」

「質問……」

「人間だ、と知ったあなたは、これからどうするの?」

 そう僕がこの村をふたたび訪れたのは訣別のためだ。でも先生の話を聞きながら、僕の気持ちは揺らいでいた。

 ……僕はこのひとを失って、いまさら人間としてひとりで歩いていけるのだろうか。さっき先生は否定したが、やっぱり簡単には信じられない。先生にとって僕はただの代用品に過ぎないのかもしれないが、僕にとって先生は代わりのない特別な存在で、本音を言うなら、先生にとっての僕も特別な存在であって欲しかった。こんなにも一緒に過ごしてきたのだから。そんなふうに思ってしまう僕のほうが勝手なのだろうか。

 不安、恐怖、寂しさ。それらの感情はためらいに繋がっていく。

 でも……。

「僕は先生とは一緒に行けません」

「そう。じゃあせっかくだから最後に私の名前を呼んでみてよ。もう私たちの関係は、先生と助手の関係じゃなくなったんだから、いいでしょ?」

 僕は彼女の名前を呼んだ。

 その名前を実際に口にするのは、初めてだ。彼女の耳にかすかに聞き取れるくらいのちいさな声になってしまった。僕に顔を近づけ、ありがとう、と彼女がはじめて僕の本当の名前を呼び、ほおに口を付ける。

 さ、よ、な、ら。

 驚く僕に背を向けた彼女の背中は、すこしずつ遠ざかっていく――。

 彼女とは別の方向を行くことにした。

 その先には、怪物だ、と思い込んでいた頃のほうがましだと思うほどの苦しみが待っているかもしれない。でも、まだ僕は怪物じゃない。

 人間へ向かって歩いていく、と決めたのだから。



 最終話「エピローグ、あるいは、もうひとつのプロローグ」


 もう終わっただろうか。

 ゆるやかな勾配の坂道を下る足取りは一歩ずつ、あの子がいる場所へと向かっている。降っては止み、また降り出したその雨は秋らしく、だけど新たな空が落としはじめた水のしずくはさっきまでの嫌な感じとは違って、私に良い予感を抱かせた。

 もうすぐ二十世紀が終わる、その時代背景に関係があるのかは分からないが、最近は特に嫌な予感が多かったので、この好転はすごく嬉しい。私の予感がこんなふうに変わるのはめずらしいことだけれど、この村に来て、私も冷静ではいられなくなっているのかもしれない。らしくない。でも、あの子の顔を見つけてしまったのだから仕方ない。

 確か岩肩くん、って言ったっけ……。あんなにコウに顔の似た子がいるなんて。村に着くすこし前あたりから、何かに呼ばれているような気がしていたけれど、それはこの出会いだったのかしら。

 もうひとりの子には悪いことしたな、とは思うけれど、あっちの子には自分の不運な人生を恨んでもらうしかない。いままでだって私は多くの人間を死に追いやってきた。実際に手を下したのはコウだけ。でも他の彼らも私は私自身が殺した、と思っている。今回の子だけをやたらと哀れむのはおかしな話だ。

 ……やっぱりここ数日の私は変だ。

 反対側から坂道を駆け上がってくるクリーム色のレインコートを着た少年こそ、いま私が哀れんでいた子どもだ、と気付いたのはすれ違う寸前まで距離が近づいてからだった。幽霊でもなく、確かに生きて、そこにいる。

 私に顔を向けた少年の顔は蒼白で、怯えた目をしていた。でも私を怖がっている、という感じではなく、どこかうつろで、私の姿に別の誰かを見ているようだった。私の顔を見たのは一瞬で、彼は坂道のうえへと消えていく。

 なんで俺を殺したの?

 その少年は、あの岩肩くんとは違って、欠片もコウとは似ていない。だけどあの瞬間、彼は間違いなくコウだった。怪物となりゆく私を見ながら、哀しみと怯えを私に向けていたコウだ。

 なんで俺を殺したの、母さん?

 罪悪感だろうか。馬鹿らしい、そんな感情なんてあるはずない。私のような怪物に。

 岩肩少年は怪物になれなかったみたいだ。でもいまの私にはそんなのどうでも良かった。私は公園のトイレを目指しながら、確信していた。たとえ、そこにいる彼がどんな状態であろうと、私が彼を選ぶことはないだろう、と。

 なんで俺を――。ねぇ母さん、なんで――。

 あなたが怪物になるくらいなら、私が怪物になるよ。私だけでいい。あなたのためなの。

 そんな言葉は、どんな運命を辿ろうとも怪物になっていただろう人間の、卑怯な言い訳に過ぎないのかもしれない。

 雨は、まだ上がりそうもない。私はさしていた傘をたたむ。

 きょうが雨で良かった。水のしずくがごまかしてくれる。

 許して……ううん、許さないで……許さなくていいから、永遠に私の前から消えないで、お願いだから。嫌だ。もう嫌だ。誰か、いっそのこと、コウを忘れさせて――。


「どうしたんですか? 母さん」
「いま、なんて……?」
「あっ、ごめんなさい。つい……間違えました」
「いいのよ」


 新たに彼と一緒に暮らしはじめた頃、先生、と呼び間違えて、母さん、と彼が私に声を掛けたことがあった。平気な振りをしていても、本来ならまだ小学校に通っている年齢だ。寂しさはあったに違いない。私が見て見ぬ振りをしていただけで。

 思わず言葉として表れてしまったのが、あの、母さん、だったのだろう。

 あの時ほど、彼の本当の母親ではない事実を実感した時はない。でもその言葉のおかげか、彼の存在が、コウを忘れさせてくれるようになった。コウと呼びながらも、まったく違う新たな親子関係を築いているような気持ちになっていたのかもしれない。

 だけど……、

 彼がもうすこし大きくなった頃に、私は例の夢を見た。この夢が描き出す未来は外れない。

 その夢の中に、景色の寂しさが増した栗殻村の公園で、大人になった彼と老いた私が別れるように、それぞれ別の道を歩んでいくふたりの姿があった。いつ、どんな形かまでは分からないが、いつかそんな日が来て、……そうか、彼に背を向けた私はそんな表情を浮かべているのか。

 雨も降っていなくて、つぎに私の感情をごまかしてくれるものはひとつもない。

 彼を離す気はない。離したくはない。

 でも……、もしその日が来た時、私は絶対にその表情だけは見せないつもりでいる。

 ようやく解放されるもうひとりの息子が立ち止まらないために、卑怯で弱くて、最低な怪物ができる唯一のことだ。


「僕が見た怪物たち1997-2018」完