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想い出の詩【短編小説(約9800字)】

「詩は神秘でも象徴でも何でも無い。詩はただ病める魂の所有者と孤独者との寂しい慰めである。」と君は云ふ。――――萩原朔太郎「月に吠える」


〈あなたは罪を犯したことがありますか?〉


 ふいにそんな質問をされたとして、俺はきっと首を横に振るだろう。

 気付かないうちに、犯罪に手を染めているとかならば、もしかしたらあるかもしれない。

 たとえば俺にはむかし知人から借りたものの、返す前にその相手と疎遠になり、自宅の押し入れの奥に眠ったままになっているものがある。もしも急に、その人物が俺の前に現れて、「盗難だ!」と糾弾してきたとしたら、それは何十年越しであろうと、俺に非があり、本当に処罰されるかどうかは別として、俺の罪であることに変わりはないのだろう。だからその時は、押し入れの中を探して、見つかれば謝って返して、見つからない場合もとにかく謝るしか選択肢が思い付かない。素知らぬ振りをして追い返す、という手段もないわけじゃないが、俺にその記憶がある以上、その態度は誠実さからかけ離れていることは認めなければならない。

 ただこの場合はどうなるのだろう……?

「――返してよ」

 深夜のアルバイトを兼ねながら、プロのライターとして活動する俺の自宅に彼女が訪れたのは、日が暮れて、普段よりも鮮やかに見える夕陽によって橙色に染まった景色に、澱んだ黒が交わり、空が濁りはじめた頃だった。うるさく響いたインターフォンの音に、パソコンで原稿を打っていたその手を止めて、ひとつ息を吐くと、玄関に向かってドアを開ける。俺より最低でもふた回りは若いだろう、子供と大人の境目にいるくらいの外見をしたひとが、睨むような眼差しを俺に向けていた。そんな相手を、少女、と呼ぶのはひどく失礼な気がして、彼女、と俺は呼ぶことにした。

 その声は決して大きくなかったが、透き通るような声でしっかりと俺の耳に届いた。記憶のどこかに覚えのある声だ。

 俺には罪の記憶がない。

 だけど彼女は俺の犯した罪を責める。

 返して、と。

 身に覚えのない罪であっても、俺はその罪を謝らなければいけないのだろうか。それこそ誠実さとは対極にある行動のような気もする。だから事実無根だ、と彼女の言葉を突っぱねればいい。そうできずにいるのは、俺はかつてその罪を犯していないと本当に言い切れるのだろうか、と不安に苛まれてしまっているからだ。

 ふと言葉が頭に浮かんだ。

『記憶ほど信用できないものはない、と思うんだ。ひとは都合よく自分自身の記憶を捻じ曲げる。たとえば、昔は良かった、なんていう記憶の美化はその最たるものじゃないか。僕はいつだって怯えている。誰かが急に僕の目の前に現れて、身に覚えのない罪を糾弾するんだ。それを嘘だと思っているのは僕だけで、それこそが真実なんじゃないか、って』

 彼の言葉は、いまの俺の状況にそっくりだ。

 彼女の顔に、彼の顔が折り重なるように、ところどころにあいた穴が埋まっていくように、懐かしい記憶がよみがえっていく。



「なぁ。きみはひとを殺したことがあるか?」

「想像の中でなら、何人もの人間を殺しているさ。お互いに。そうだろ」

 あれはまだ彼が生きていた頃の話だ。いつものどうでもいいやり取りをはじめようとしているのだ、と思った俺は、彼の言葉にそう答えた。ははは、確かにそれもそうだな、なんて言って、普段の、悪気はないのに相手を小馬鹿にしたような笑みを浮かべるだろう、と想像していたが、意外にもその日は無表情を変えずに、俺の目をしっかりと見据えていた。

「悪い。今日は真面目な話なんだ」

「『ひとを殺したことがあるか?』なんて質問が真面目になるのは、実際に殺人を犯した者だけで、それ以外は笑い話にしかならないよ」

「ということは、きみは人生で誰ひとりとして殺していない、と」

「まぁ、そうなるかな。とはいえ、本当にひとを殺しているなら、お前にいまここで言ったりはしないだろうから、信用するかどうかはそっちの自由だが。逆に聞くが、お前はひとを殺したことがあるのか?」

「分からないんだ」

「分からない?」

「あぁ、僕の記憶している限り、僕にはひとを殺した過去がない」

「だったら、誰も殺していない、ということじゃないか」

「記憶ほど信用できないものはない、と思うんだ。ひとは都合よく自分自身の記憶を捻じ曲げる。たとえば、昔は良かった、なんていう記憶の美化はその最たるものじゃないか。僕はいつだって怯えている。誰かが急に僕の目の前に現れて、身に覚えのない罪を糾弾するんだ。それを嘘だと思っているのは僕だけで、それこそが真実なんじゃないか、って」

 俺たちふたりは高校時代に出会って、それ以降、二十歳を過ぎてからも俺たちの関係は続いた。関係というのを一言で表す時、俺たちのそれにどんな言葉を当てはめるべきなのだろうか。もっとも近いのはおそらく友人のはずだが、俺たちはふたりともがこの、友人、という表現に違和感を覚えていて、心ではそう呼んでも、もしもどちらか片方が実際に口に出せば、きっと俺たちの関係は疎遠になる、とお互いが気付いていた。

 天に愛された才能を天才と呼ぶ。本人はそう言われるのをひどく嫌うだろう、と彼に直接伝えたことは一度もなかったが、彼も天才と呼ばれる類の人間だった。

 出会いのきっかけは、アルチュール・ランボーの詩だ。

 早熟な天才として知られていたランボーが紡いだ言葉を、俺は高校時代の一時期、校内にあるほとんど誰も使わない静寂にさらに静けさを重ねたような図書室で繰り返し読んでいた。そもそも詩に対してさほど興味がなく、詩について考えるくらいなら、俺は死にでも想いを馳せていたほうがまだましだ、と思う人間で、ランボーの詩の良さもほとんど分からなかった。

 詩を読むなら小説、小説ならエンタメを志向していた俺が、こんなことをしていたのは何故か、というと、それは気取りたかった、の一語に尽きる。気取るためには理解する必要があったから繰り返し読んでいた。それ以上でも以下でもなく、苦痛な行為だった。

 そんな俺に突然、何を読んでいるのか、と声を掛けてきたのが、その頃はクラスメートでもなく、ほとんど一度もしゃべったことのなかった彼だったのだが、非常に生徒数の多い学校だったこともあり彼について詳しく知っているわけではなかった。ただ彼の姿は何度か見掛けたことがあって、つねに人の輪の中心にいる姿がやけに印象に残っていた。

「ランボーだよ。アルチュール・ランボー」

「ランボー?」

「知らないのか? 早熟の天才なんて持て囃されている詩人だよ」

「天才、って都合の良い言葉だね。自分より圧倒的に優れたものに、努力の痕跡をかいま見たくない人間たちが、天才、という言葉を勝手に共有する、本当に都合の良い言葉だよ」

 と、寂しそうに笑う彼の表情の意味が俺には長く分からなかったのだが、あれは共感だったのかもしれない。それはランボーに対するものではなく、天才と呼ばれてしまったあらゆる者たちに対しての共感、というような、そんな。

 その返答は俺の心の奥底にこびりつき、俺たちの関係ははじまった。

 そして彼にとっては、俺との出会いであると同時に、詩との出会いでもあった。

 俺が詩と向き合おうとしたのは、その短い一時期だけだったが、彼は俺との関わりで偶然知ったランボーの詩が思いのほか気に入ったのか、それから色々な詩人の言葉の海を泳ぎに、俺よりも図書室に入り浸るようになっていった。

 彼は、文武両道を謳う俺たちの通っていた高校の、その中でも強豪として全国的に知られていたサッカー部の元部員だった。それを知ったのは出会って、それなりに経ってからのことで、彼は推薦で高校に入学しながらも、部を辞めたエースストライカーだった。周りからすれば突然に感じただろう。

「まぁ確かに、僕には才能があったかもしれないね。努力はもちろんしたさ。だけど同じくらい努力をしても、サッカーの実力はつねに周りよりも僕のほうが上だったから。するとね。彼らは憧憬か敵意をぼくに向けるんだ。別に欲しくて得た才能でもないのに、ね。苦痛でしかないよ」

 自慢するわけでもなく、その言い方はどこまでも自然だった。そして繊細で、脆く、とても傷付きやすかった。

 地元の新聞に、天才、の二字を付けられたりしたこともあったらしく、そんな天才サッカー少年が急に辞めながらも、学校には変わらず来ている姿に、彼が〈彼ら〉と呼んだサッカー部の部員たちは、どういう眼差しを向け、その目に対して彼は何を感じたのだろうか。ふとそんな考えが頭に浮かんだ。

 彼にとって詩は、未知の、些末な葛藤のない世界だったのかもしれない。

 結局そんな彼に反して、小説に戻った俺が誰にも言わずに小説を書き始めたのは、高校卒業を目前に控えていた頃だった。地元の大学への進学が決まり、気持ちにも時間にも余裕があって、どこかで自信もあった。根拠はひとつもない。ただ間違いなく俺は世間に認められる小説を書ける、と。ただそれを周囲に口にすることは、ひどく恥ずかしかった。

 何故、世間に認められる小説を書ける、という根拠のない自信はあるのに、羞恥心を感じる必要があるのか、と言うひともいるかもしれないが、俺が向けたい、世間、というのは、顔の見えない第三者のことで、顔の知っている親戚に配って回りたいわけじゃないのだ。

 高校を卒業してからは進路が分かれたこともあり、そこまで頻繁に顔を合わせるわけではなかったが、お互いに地元に残った俺たちは定期的に会っていた。

 大学へ進学した俺と違って、地元の企業に就職して彼は営業の仕事をしていた。彼は決して成績が悪くないどころか、俺よりもずっと勉学の面でも優秀で、三年の時は同じクラスだったこともあり、担任から地元の国立大学を薦められていることも知っていた。にも関わらず、彼は卒業したあと、わざわざフリーターを経由して、その会社に入ったのだ。特別な事情があるようにも思えず、その会社にどうしても入りたかった、という部分も見えなかった。

 あいつは天才をこじらせて変人になった、と彼に妬みに近い感情を抱いていたような同級生の小馬鹿にした言葉がやけに耳に残っている。

 天才だから知り合ったわけでもない俺にとって、彼は変わらずただの友人のままだった。いや……、いまになって考えれば、ただの友人でしかない、と思い込もうとしていたのかもしれない。

「実際に詩を書いてみたい、と思ったことってないのか?」

「いや……、誰かの言葉を味わうほうが僕は好きだから。特に、書きたい、と思ったことはないかな。きみは?」

「あぁ、俺も実際に書くのは、ちょっと」

 とっさに嘘をつきながら、俺はその言葉にほっとしていた。詩なんて書くもんじゃない、と彼が言うことを願っていたからだ。その時には、そう願った理由が自分でもよく分かっていなかった。

 彼とその会話をしたのは、成人式を終えてすこし後のことだったので、お互いが二十歳になってすぐのことだったはずだ。このやり取りを終えた辺りから、俺たちはなんとなく小説や詩の話を避けるようになっていた。すくなくとも俺は間違いなく避けていたし、彼も詩の話はしなくなった。代わりに学校や仕事の愚痴が多くなっていったような気がする。

 俺は大学を卒業したあと、地元を離れて、関西にあるそれなりに名の知れた企業に就職したものの、そこはたまたま俺の部署がそうだっただけなのかもしれないが、人間関係が最悪で、いつかのテレビで見た罵声と怒号が飛び交うブラック企業が俺の人生のすぐ近くにあるのだ、ということを強く実感させてくれるような環境だった。その時期は彼と一度も顔を合わせなかった。

 どんなにつらくても、三年は耐えなさい、というのは仕事に対して母がつねづね言っていた言葉だが、俺は結局その仕事を三年待たずして辞めてしまった。実家に戻る時、母の反応が怖くもあったが、俺があまりにも荒みきった目でもしていたのか、両親が俺を責めることはなかった。それから数年経った頃に、その企業に自殺者が出たことが大きく報じられて、過酷な労働を強いる企業の代表格に押し上げられた時、あなたの選択は何も間違ってなかったんだよ、と母が俺に言ったのを覚えている。

 俺はその後、近所のCDショップでアルバイトをしながら、大学時代にはどの賞にも箸にも棒にもかからなくて、関西にいた頃は中断していた小説を書くという行為を再開することにしたのだが、さすがに学生の頃ほど創作活動に根拠のない自信は持てなかった。それでも心の片隅にはいつかは趣味の物書きではなく世間から認められる作家になれる、と信じていたし、そうでも思わなければ続けていくことなんてできなかった。

 地元に戻ってからは、また彼と定期的に会うようになっていたが、その頃の俺にとって、彼は意識的に避けたい相手だった。

「結婚したんだ」

 彼は、俺にないものをすべて持っている。

 そんな考えに支配されるようになったのは、いつからだろう。もしかしたら高校時代、彼に対する周囲の評価、天才、という言葉を聞いた時にはもうはじまっていたのかもしれない。

 天才なんて都合の良い言葉だ。

 彼は、かつて俺にそんなことを言った。だけどそれは得た人間にしか分からない悩みであり、どれだけ本人にその意図がなかろうと、得られなかった人間の気持ちを逆撫でする言葉でしかないのだ。俺は、ただの友人だ、と彼のことをそう思い込もうとしてきたが、心のどこかでは妬んでいたし、羨ましかったに違いない。だから彼の持っていない何か、差を付ける何かが欲しかった。

 彼に言えば、人生は採点競技でもないさ、と笑うだろう。同い年なのにどこか余裕が見えて、その余裕こそが俺を苛んでいく。

 だから進学もせずに、変人だ、と周囲が嗤っていた時、俺はほっとしていたのだ。いや、安堵なんていう生やさしいもので片付けられる感情ではなかった。はっきり言ってしまえば、嬉しかった。嬉しくて嬉しくて仕方なかった。自分より上にいるように感じていた者を下に置いて眺めることができるようになると、自然と心に余裕を持てる。そしてその時になってようやく気付くのだ。あぁあの頃の彼は、こんな目で俺を見ていたから、あんなにも泰然自若とした態度を取っていられたのか、と。

 そんな感情の差し込まれた友人関係に、ただの、と付けるのはやはり無理がある。

 だけど、どうだ……。

 また関係が逆転しているじゃないか。そもそも俺は一度でも彼の上に立ったことなんてあるのか。すべて俺の勘違いなんじゃないのか。

 初めて会った彼の妻を見て、俺には、とても美しく見えた。何度も顔を合わせているはずなのに、はっきりとその顔を覚えていない。ただ、美しかった、という記憶があるだけだ。もしかしたら一般的に言えば美しいとされるひとではなかったのかもしれないが、彼への屈折した、俺の濁った目が、その女性を美しく感じさせたのかもしれない。

 あぁ、羨ましい……羨ましい……。心の声だったかもしれないし、もしかしたら実際に声に出して独りつぶやいたことだってあったかもしれない。

 幸せの差はどこで広がり、俺はどうやったら幸せを得ることができるのだ。いや違う。そもそも物を書くために生まれたからこそ、俺は不幸であり、この不幸を持続させるのが俺にとって唯一の人生の慰めに繋がるのではないのか。朔太郎だって言ってたではないか、詩はただ病める魂の所有者と孤独者との寂しい慰め、だかなんだか、と。あれを詩から小説に置き換えればいい。

 大して文学のことも知らないくせに、こういう時ばかり、たまたま知っていた文豪の言葉を都合よく浮かべて、自らに言い聞かせる自分自身の心に嫌悪しながら。

 何よりも価値があるからこそ、俺の作品は認められない。

 賞にも受からず、これからの先行きもまったく見えないことへの言い訳ばかり。そう言い訳ばかりだ。

「子どもができたんだ」

 彼からそう聞かされたのは、二十代後半の頃だった。俺は女性との出会いらしきものさえなく、当然、恋人もいなかった。俺は距離を取ろうとした。間違いなく取ろうとしていた。それなのに彼は、古くからの付き合いじゃないか気にするなよ、と言って、家族三人の仲睦まじい空間にひどく似合わない俺を何度も招いた。

 彼の娘は幼い頃から知っていて、最後に会ったのはその子が小学校低学年くらいの時だっただろうか。幼いその子に抱いた印象は、母親よりも父親に似ているな、というものだった。小さいのに、透き通った声をしていて、しっかりと耳に残るような、心地のいいものだった。

 やめてくれ。

 その小さい空間に俺たち四人がいて、俺だけが疎外感を覚えていた。彼は俺にこの光景を見せつけて何がしたいんだろうか。

 そして三十五という年齢を過ぎてすぐの頃、そのCDショップの正社員となった俺は、ようやく実家を出て、マンションでの一人暮らしを再開していて、彼とそのマンションの一室で飲んでいた時、久し振りに詩の話になり、

「昔から、詩を、すこし書いててな」

 と彼が急に恥ずかしそうな表情で言ったのだ。

「あれ、実作はしない、って言ってなかったか?」

「あぁ、あれ恥ずかしくて、嘘ついたんだ。ひとに言うもんでもないかな、って思って」

 なんでいまさらそんなことを言うんだよ。

 手渡されたのは、一冊の大学ノートだった。

 そう言って見せてくれた詩を、俺は良いとは思わなかったし、ほとんど理解もできなかった。

「コンテストなんかには?」

「出さないよ。それに実作は今日で終わりだよ」

「なんで?」

「僕には、もう詩が色褪せて見えちゃって仕方ないんだ。もう書きたい、という気持ちがわき上がって来なくて。だからそれをきみにあげるよ」

「どうして?」

「僕に詩と出会わせてくれたのは、きみだから。決別として詩を贈るなら、きみ以外には考えられなかった」

 貰った詩を、どう扱おうと、俺の勝手だ。

 俺はこの詩を最初は捨てようか、と思ったが、考え直して適当に大きめな詩のコンクールに投稿することにしたのだ。もちろん名義は俺の名前になっているが、貰ったのだから、盗作を糾弾されるいわれもない。いや、まぁ、もしも彼が文句を言ってきたなら、それなりに大きなトラブルにはなるかもしれないが、たとえ知ったとしても彼は何も言わないだろう。彼の性格は熟知していた。

 俺は別にこの詩で成り上がろうとしたわけじゃない。

 落ちろ、と願っていたのだ。彼の詩の才能のなさを感じて、ほっとしたかった。才能への劣等感という呪縛を解き放つための行為に近い。

 そんな俺のもとに二か月後届いたのは、受賞の報せだった。

 そのコンテストを主催している編集部からの電話の声を聞きながら、内容は右から左へと流れていき、終わりに俺が電話先の相手に伝えたのは受賞辞退のお願いだった。

 驚きも、喜びも、不安も、ひとつもなかった。唯一あった感情は、怒り。それのみだった。

 なんで得たくて得たくて仕方のない人間は何ひとつも得ることができなくて、欲しいとも思っていない人間は自ら手放していき、それで充実した日々を送れるのか。分かっている。身勝手な考えだ。それでもやり場のない怒りはいつまでも噴き上がってきて、鎮め方はもう分からない。

 気付けば、俺はその編集部の人間との会話を終えた後、すぐに彼に電話をしていた。

「話したいことがあるんだ」

 俺は彼を自宅に呼んだ。

 それ以降、彼に会ったことは一度もない。会えるわけがないのだ。



「ずっと探していました。あなた、だったんですね」感情のままに怒りをぶつけるわけではなく、彼女の声は静かで冷たいものだった。「返して。お父さんを返してよ」

 俺は彼女の言葉に何も言えなかった。

 あれから何年の月日が経っただろうか。俺はもしかしたらこんな日がいつか来ることを想像していたのかもしれない。俺は驚くほど、冷静に彼女の言葉を受け止めていた。

 正確な時期なんてもう忘れてしまったが、すくなくともあの頃の小学生を、少女と呼ぶにはためらってしまうくらいの時間は経ってしまったのだろう。

「お父さんの死に、俺は関係ないよ」

「知ってた? お父さん、遺書を残してた、って」そんな俺の言葉を無視して、彼女は言葉を続ける。「『大切なひとを失ったから、俺は死を選ぶ』って、実際はもっと長いものだったけど、要はこういう話だった。最初、私とお母さんはお父さんに愛人がいたんだと思ってた。でも、そんな相手なんて見つかるわけがないよ。だって実際にそんなひとは一人もいないんだから。まさか、あなた、なんて思わなかった。別に同性の恋人がいたって驚きはしないけど――」

「俺たちは恋人ではなかったよ」

「でも、お互いに特別な存在だったことは否定しないでしょ」

 あの日、自宅に彼を呼び出した俺は、俺が今まで抱えていた憎しみの感情のすべてを彼にぶつけて、もう二度と会う気がないことを告げた。彼は悲しそうな表情を浮かべながら、静かにその話を聞いていた。それが俺を哀れんでいるようにも見えて、さらに俺の怒りを煽った。彼は何も言い返さなかった。

 その日以降、俺が彼と会うこと一度もなかった。仮にどちらかが会いたい、と思っても、もう会うことはできない。

 俺と彼が最後に会った日の夜、彼は自ら命を絶ったのだ。

 俺は関係ない。彼の死に俺は関係ない、と自らに言い聞かせ続けた。今日は暑い。暑い夜におかしくなって、あいつは死んだんだ、なんてよく分からない理屈を付けて。

 この死に俺は一切、関係がない。

 だってあんなの、ただの口喧嘩じゃないか。そんな口論程度でひとが死ぬわけない、と俺は心にもないことを心に思っていた。繊細な彼ならば、そういう行動を取ってもおかしくない、と思うほどに彼の性格を知り尽くしていたにも関わらずだ。

 言い聞かせ続けると、嘘が真にすり替わっていく瞬間がある。俺は彼女の言葉を聞くまで、本当に彼の死と俺は無関係だ、と思い込んでいたのだから。

 自分自身で過去を捻じ曲げていたのだ。

 だけど彼女がそれを剥がしにきて、塗り固められたものは言葉によってぽろぽろと零れ落ちていく。

「俺は――」

「私は知りたいだけ。あの日、何があったか。当時だったら違ったかもしれないけど、このぐらい時間が経つと、憎しみをぶつけるよりもそっちのほうが大事になってきたんだ。それにお父さんが死んだ時、私はまだ小さかったから。……教えて」

「俺は――」

 詩を貰った俺が、お返しとして友人へと贈ったのは死だった。そしてそれをいままでなかったことにしていた俺は、その友人の娘から問い詰められている。

『記憶ほど信用できないものはない、と思うんだ。ひとは都合よく自分自身の記憶を捻じ曲げる。たとえば、昔は良かった、なんていう記憶の美化はその最たるものじゃないか。僕はいつだって怯えている。誰かが急に僕の目の前に現れて、身に覚えのない罪を糾弾するんだ。それを嘘だと思っているのは僕だけで、それこそが真実なんじゃないか、って』

 ふと、また彼のあの言葉が浮かぶ。

「今日は、もういいや――」

 急に、彼女がそんなことを言った。

 何故……?

「自分の顔、鏡で見なよ。そしたら分かるから。今日はもう帰る。また来るから、その時に教えて。お願いだから、絶対に嘘はつかないでね。そしたら許せるかもしれなかったものも、一生許せなくなるから」

「あ、あぁ……」

 それは返事というより、うめき声に近かった。

「小さい頃、あなたが家に来ると、お父さんがすごい喜んでたの、私、覚えてる。私のこと、よく抱っこもしてくれたよね。なんか安心するんだ。なんとなくうろ覚えの記憶を辿った時のあなたの印象って、自分のことをしっかりと見てくれる安心感がある、っていうかね。それが嬉しくて、安心するんだと思う。私がそう思っただけに過ぎないんだけど……、私、よくお父さん似、って言われるから。じゃあ、今日は帰る。後、お母さんは知らないよ。いまは別のひとと結婚して、私とは離れて暮らしてるし、聞きたくもないと思うから、言わなかった」

 彼女が俺の目の前からいなくなり、俺は駆けるようにして洗面所に向かった。

 鏡がある。

 自らにまで嘘をつき続けた哀れな男は、いまどんな顔をしているのだろうか。

(了)