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甘党と雪山と #文脈メシ妄想選手権


 ところで俺の彼女は甘党だ。ケーキ、パフェ、カステラに饅頭と、とにかく甘い物に目がないひとなんだが、とりわけ一番好きなのはチョコで、スナックバー型のお菓子を常備して、小腹が空くたびに食べている。彼女が食べている姿を見ていると、大体俺の表情は険しくなってくる。いや……甘い物が好きなのはいいんだが、限度というものがある。どう考えても不健康だ、というのを遠回しにやんわりと窘める俺に、「別に太らないんだし、いいじゃん」と口の端にチョコの痕を残しながら言う彼女に、内心ではちょっと可愛いなと思いながら、かなりきつめの〈甘い物禁止令〉を出したんだが、きっとそんな約束は破られるだろう、と思っていた。ただ、まさかあんな状況で知ることになるとは思っていなかった。

 破られたことよりも、俺が何よりも驚いているのは、彼女の甘党に救われる日が来たことだ。


 事実は小説より奇なり、なんて言葉もあるが、こんな体験を味わうのは、もう二度とごめんだ。と言いたいが、そもそも俺たちに今後なんてあるんだろうか。ここは雪山の、見知らぬ山小屋。そう俺たちは今、雪山で遭難して救助を待っている状態だ。遭難した時点で死を覚悟していたんだが、猛吹雪の中、偶然見つけた山小屋には誰もおらず、俺たちはぴったりと身体を寄せ合いながら連絡さえも取れず、来る保証もない救助をひたすら待ち続けていた。

 ことの始まりは、彼女からの「スキーに行かない」という誘いだった。スキー好きの彼女は毎年、スキー場近くのペンションを利用して友達数人とスキー旅行をしていた。俺が誘われたのは初めてだった。俺の超インドアな性格を気遣ってくれていたのは知ってる。だからスキーに行くこと自体に気乗りはしなかったが、彼女から誘われずにいることに寂しさもあったので、やはり嬉しい気持ちも大きく、俺はふたつ返事で了承した。

 それがまさかこんな結果になるなんて……。

 山小屋に暖を取るものはなく、俺たちは身体を近付けることしかお互いを温める手段がなかった。

「ごめん」
 と俺の耳もとで彼女の謝る声は震えていた。唇が青紫に変色するほどの寒さのせいもあっただろうが、何よりも申し訳なさに満ちていた。

「なんで謝るんだよ……」
「だって……私がコース外に逸れちゃったから、こうなったわけだし。そもそも私が誘わけなれば」
「わざとじゃないんだから、気に病む必要はないよ」

 滑っている際中、突然の吹雪に見舞われ、俺たちはコース外の立ち入り禁止区域に入ってしまい、そのまま遭難してしまったのだ。どっちが先にその区域に入ったのかなんて責め合うものではないはずだが、彼女は、慣れから来る油断のあった自分が原因、と責任を感じているようだった。

 遭難した時点で俺は、死んだ、と思った。いつまでも吹雪は止まず、スキー用具は途中で捨て、俺たちは相手だけを見失わないようにしながらとにかく歩いたが、視界が悪く、何もない世界にふたりだけが取り残されたような感覚を抱いていた。歩いている先が正しいのかも分からない中で山小屋を見つけたのは奇跡みたいなものだが、幸運だと感じたのは一瞬だけだった。

「手、繋ごうか」
 そう俺は言った。言葉通りの甘さはそこにはなく、必要に駆られての言葉だった。俺たちはそれまでスキーグローブを付けたままだったが、お互いに外して、彼女の手の甲に手のひらを載せて、その後、ぎゅっと握ってみた。彼女と触れ合った手はかじかんで感覚を失ったままそれが変わることはなかった。もしかしたらすこしは温かいのかもしれないが、焼け石に水でしかない。

 火も明かりもなく、壁板がいくつも外れているこの小屋で俺たちはどれだけ生きていられるだろうか。電波の届かないスマホだけが唯一の明かりだった。

 空腹でお腹が鳴って、俺は溜息を吐く。

「ねぇ、私、さ。実はあなたに嘘を吐いてたことがあるの」
「急に……なんだよ」

「なんでしょう?」と無理して明るく装う彼女の口調と笑みに合わせるように、俺も無理して笑顔を作ってみる。ちゃんと笑えているだろうか。「気を紛らわせるためにも話し続けよう。そうだ……お互いこんな時だから、さ。後悔しないように、今まで隠していたこと言わない? ……あっ、今の後悔すること前提に話してたね。ごめんごめん。とりあえず。こんな時じゃなきゃ話せないことってあるでしょ」

「ま、まぁ」
 俺はひとつの隠し事を思い出し、彼女から目を逸らした。

「あるね。その顔は。まぁじゃあ、私から――実は」
 ……浮気か、まさか浮気なのか。

 俺が息を呑んだ後の答えは、「じゃじゃーん」と一本のスナックバー型のチョコだった。

 呑んだ俺の息を返せ。

「ごめんね。本気で健康のこと心配してるって分かってたから、最初は真面目に禁止令守ってたんだけど、どうしてもやめられなくて……」と彼女は本気で申し訳なさそうだ。

「別に、気にさえしてくれれば、それで」

「はい」彼女が袋の封を開けて、俺に差し出した。「さっきお腹鳴ってたでしょ。聞き逃さなかったよ」

「でも、お腹減ってるのはお互いさまだろ」
 と俺は、棒状のチョコの半分を折って、「これだけもらうね」と言った。

 ぱくりと放り込んだチョコを舌先で転がしていく。彼女の好むチョコはとても甘く、普段の俺なら意識的に避けるものだった。至福の時間はあまりにも短い。ゆっくりと溶けていくことを願いながら、思いの外、チョコの部分は早く溶け、名残惜しくなる。

「美味しい?」と彼女が、ふふ、と笑いながら、「そんなに泣かなくても、帰ったらいくらでも食べられるよ」

 言葉の意味が分からず、俺が戸惑っていると、彼女が人差し指で俺の目じりに触れた。そのひんやりとした彼女の指は、不思議と心地よかった。

「大丈夫」きっと俺たちはこれからもうまく行く。「だよ」それは言葉にはしなかった。

「それで、あなたの隠し事は、何ですか?」

「えっ」今、言葉にしない、と決めたばかりなのに……。「い、言わない。これは今、言っても意味ないことだから、帰ったら言うよ」

 彼女は「うぅ……私だけ……」と不満たらたらだったが、追及しようとはしなかった。だってこれは本当に今言ったって仕方のないことなんだから。

 結局俺たちはその翌日、宿泊していたペンションのオーナーから「帰ってきてないひとがいる。荷物は残ったままだし、この吹雪で帰ったとは思えない」という連絡で捜索していた山岳救助隊のひとに発見してもらい、一命を取り留めた。多少の凍傷はあったが、怪我もひどくなく、数日もすれば完全にいつも通りだった。

 そして俺は帰る直前、ペンションでの最後の朝食時、食堂で面と向かい合う彼女に問い質されていた。

「さぁ、吐きなさい。あの時、何を言おうとしていたのか?」
「だから帰ってから――」
 いや……仕方ない、俺は彼女の近くに寄り、耳打ちするように言葉を告げた。でも正式な言葉じゃない。最後に「もう一度、改めて言葉にするから」と添えて。実はもう用意はしているんだけどね。ここには、その輪っか、持って来なかったんだ。別の準備をしていてね。

 俺は彼女の目じりに人差し指で触れた。

 心落ち着かせるように彼女は目の前の湯気立つコーヒーを一口飲み、「苦いね。だけど温かい」と笑った。甘いだけじゃない人生を、これからもよろしくね。

                          (了)

※これは実話です(笑)

ホラーかミステリで来ると思ったでしょ~。違うんだな、これが。

(※緊急事態に食べるチョコ)

(※遭難から生還した後のコーヒー)

マリナさん、あきらとさん、いつも素敵な企画をありがとう~。