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赤に染まる世界で【掌編小説(約3300字)】


もう私たちの関係を終わりにしませんか……。


 今冬最初の雪が降った日、僕は恋人として一緒に暮らしてきた女性から別れを告げられた。その期間は一般的に言えばながく、だけど、終わりなど想像もできなかったはじまりの頃を思えば、それはあまりにも短かった。彼女の言葉を聞いて、僕は哀しみや怒りよりも前に、あぁ最後まで彼女は僕に対して敬語だったなぁ、と、どうでもいいことを考えていた。

 僕たちは関係を持つ前から、仕事での付き合いがあって、僕のほうが年齢も職歴も上だった。関係が変わってからも、かたくなに僕に敬語を使う彼女を見ながら、その距離感に魅力を覚えていたけれど、結局はお互いに恋人よりも先に進もうとするために必要な最後の一歩を踏み出せずにいたことが、いまの破局に繋がったと言えるかもしれない。相手の足を踏んでしまうくらいに近付くことをためらってしまったのだ。それが、敬語を使われる、という距離感に表れているとも言えた。

 フロントガラス越しに雪が舞っている。ハンドルを持つ手が震える。もちろん寒いからではない。

 僕から離れていく彼女の背中を見ながら、終わってしまったのだ、と頭では分かっているはずなのに、実感を抱くことがなかなかできずにいた。ようやく彼女を失ってしまったのだ、と心が捉えだしたのは、仕事が終わり、車に乗ったあとだった。

 彼女から別れを告げられたのが朝で、今日の仕事はまったく身が入らず、ただぼんやりとしているだけだった。今日ほど頭を使わない職業だったことをありがたく思った日はない。

 車道に1cm程度、積もった雪に轍ができていて、僕はそれをなぞるように車を走らせ続けた。あぁもうどうでもいいや、と、いっそこのまま死出の旅にでも行こうかな、とぼんやりそんな考えが浮かんで、そこまでの喪失感を覚えていたことに驚く。

 たかが恋人と別れたくらいで、と。

 ふと彼女ではなく、人生で初めてできた恋人に振られた時のことを思い出す。なんか、つまんないんだよね。あなたといても。そう言って失恋した僕が友達に、その最初の恋人の恨みつらみを聞いてもらっていると、

「いつまで落ち込んでんだよ。女なんてそこらじゅうにいるだろ。星の数ほど」

 と、その友達が笑ったのだ。

 確かに女性の数はいくらでもいるだろう。だけど彼女たちはそれぞれひとりしかいない以上、もし女が星ならば、それぞれが唯一の星なのだ。


私はあなたの大切なひとに、なれますか。


 本来、黒に濃く染められているはずの冬の夜空は、赤紫と言えばいいのか、臙脂と言えばいいのか、不思議な色合いをしていた。

 もうすぐ世界が終わるのかな。

 僕は馬鹿々々しい空想を浮かべながら、もし本当にそうなら、どれだけいいだろうか、と思っていた。自分で終わりをつくらなくても、勝手に終わってくれるのだから。こんなに楽なことはない。

 それにしても奇妙な色をした空だ。終わる、というのは冗談にしても、いまこの世界はおかしくなっているのかもしれない。世界は僕たち人間が思っているよりも簡単におかしくなる。世界は人間の都合の良いようにできているわけではなく、人間がいなくても世界は変わらず回っていくからだ。数年前に猛威を振るったコロナウィルスによって様相を変えたいまの世界だって、どれだけのひとが想像できただろうか。

 僕に見えるこの世界は、いま、歪んでいる。世界が歪んで見えているのだとしたら、理由はふたつしかない。実際に世界が歪んでいるのか、僕の目がおかしくなっているか。


お互いにとって、短い人生の中で寄り添う数少ない相手なのですから、ふたりの生活を大切にしていきましょう。


 確かさのない未来予想図づくりにかまけて、いまの感情を蔑ろになどできない。もしかしたら彼女よりも想いを深められる相手が僕の目の前に現れることがあるかもしれない。でも、そんなのどうでもよかった。仮定の世界に興味なんてない。いまの僕にとって、この世界における関心事は彼女、……いや彼女こそ世界だった。

 黒から色を変えた夜空は徐々に赤みを増していき、僕の運転する車はその色に向かって走るかのような錯覚を起こしてしまうほどだった。

 家に着いた頃には、夜空だけではなく、そこにあるものすべてが鮮やかな赤に染められていた。奇妙なのに美しく、だけどその色合いに綺麗さを感じるほど、僕の内の嫌悪感が激しく暴れ出した。嫌だ、厭だ、と。

 玄関の戸を開くと、揃えられた白い靴は赤く、赤い靴を這う黒くあるべき虫も赤く、それを踏み潰した僕の茶色の靴も赤く染まっていて、靴の裏にくっついた死骸はその赤さで死骸なのかどうかも分からない。


ただいま、って言うと、おかえり、って言葉が返ってくる、って良いですね。心が穏やかになります。


 僕は部屋の合鍵をリビングにあるキャビネットの引き出しの中に入れる。これはもともと彼女の物で、もう僕には必要のないものだ。夜遅くに仕事から帰ってくる彼女を出迎えるのは、いつも僕だった。彼女を失った僕は、いまも彼女の部屋にいる。騒音でトラブルになったこともある隣に住む大学生の部屋からは何の音もしない。僕に音を聞こうとする気がないから、何も聞こえないんだろう。

 窓からマンションの前の通りを見ると、真っ赤な車が僕たちの部屋を目指して徐行している。

 彼女が帰ってきたのだろう。

 僕は台所に行くと、勝手知るその台所にある箸立てから、僕の箸を手に取った。彼女と僕の箸は色違いでペアになったもので、部屋に遊びに来た友達からは、バカップル、と囃し立てられたこともあるくらい、僕たちは仲が良かった。

 この世界は残酷だけど、その中に一滴の光が垂れ落ちるように僕の目の前に彼女の姿があって、それが救いになった。

 がちゃり、と音が聞こえて、「あれっ、もしかして蓮さん……?」と僕を呼ぶ彼女の声が聞こえる。いまこの部屋には僕と彼女しかいない。僕たちだけの世界だ。

 彼女の足音が僕のいる台所へと近付いてくる。

 僕はひとつ大きな息を吐く。そして持っていた一組の箸で、両の眼を突き刺した。ぷしゅう、と風船が萎むような音とともに、人生で味わったことのないような激痛とともに、僕の目の前に広がるのは、鮮やかな赤……そんな色を想像したけれど、そこにあったのは黒一色、それ以外の色は何もなかった。

 叫び声が聞こえる。いま、そこに彼女がいるはずだ。もう彼女の顔を見ることは叶わないけれど、僕の記憶の中にしっかりと焼き付いているので何も問題ない。そしてこれで彼女も、永遠に僕のことを忘れられなくなるだろう。

 ただ……ひとつ残念なことがあるとすれば、ようやく僕を見てくれた彼女の表情を知れないことだけだ。それは見たくもあり、絶対に見たくないものでもあった。


蓮さん。私たちきっと幸せになれる、と思うんです。理由は分からないですけど、なんかそんな気がするんです。


 なんで別れちゃったんだろう……、彼らは――



「高橋って、名前くらいしか知らないんですが……。一命、取り留めたんですね……。素直に良かった、とは思えないですけど、でも……、生きられても死なれても、どっちにしても不快感が残る、というのが本音ですね。盗撮や盗聴にも、全然、気付きませんでした。だっていくら変な隣人さんだな、って思っても、普通そんなことまでするなんて考えませんよ。ちょっと嫌な視線を感じるな、というのはありましたし、あと以前に蓮さん……あっ、前の恋人というか、実は昨日の朝に別れたばっかりなんですけど……、その蓮さんと同棲していた時に、隣に住む大学生のその高橋……さん、とトラブルになったことがありましたね。なんか目の敵にされてるね、ってふたりで話したのを覚えています。

 そう言えば以前に、蓮さんが合鍵を失くしてしまったことがあって、そのまま放置してしまったのですが、あれって、つまり、そういうことなんですよね。

 あのひと、私のこと好きだったんですよね。それで自分を蓮さんだと思い込んで……。日記の話も別の刑事さんから聞きました。どんな日記だったのかはなんとなく想像がつきます。盗み見たりしながら、私たちの生活を妄想していたんですよね。気持ち悪いです。そんなの……。お願いなんですけど、必要なくなったら、誰にも見られないようにして捨ててくれませんか?」


【了】


※※※


 現在、こんな企画のような何かを行っております。

 いまのところは参加されているひと(※本作執筆当時)はいませんが、ひとりでも書いてくれたら嬉しいな、という感じです。正直なところ、いきなり〇〇というジャンルを書け、と言われても難しいものです。例えば急にほとんど書いたことのない歴史小説を書け、と言われても、多分私は書けないだろうな、と思います。無理なお願いですが、興味を持ってくれた誰かがいるかもしれない、という気持ちで置いたものとも言えます。

 ホラー企画(のような何か)の言い出しっぺとして、しっかり新たなホラーも一本書こう、ということで、3000字ちょっとの掌編ホラーを書きました。怖がってもらえたら、それ以上に嬉しいことはないです。