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僕が見た怪物たち1997-2018最終話「エピローグ、あるいは、もうひとつのプロローグ」

「人間へ、2018」④【終】

 もう終わっただろうか。

 ゆるやかな勾配の坂道を下る足取りは一歩ずつ、あの子がいる場所へと向かっている。降っては止み、また降り出したその雨は秋らしく、だけど新たな空が落としはじめた水のしずくはさっきまでの嫌な感じとは違って、私に良い予感を抱かせた。

 もうすぐ二十世紀が終わる、その時代背景に関係があるのかは分からないが、最近は特に嫌な予感が多かったので、この好転はすごく嬉しい。私の予感がこんなふうに変わるのはめずらしいことだけれど、この村に来て、私も冷静ではいられなくなっているのかもしれない。らしくない。でも、あの子の顔を見つけてしまったのだから仕方ない。

 確か岩肩くん、って言ったっけ……。あんなにコウに顔の似た子がいるなんて。村に着くすこし前あたりから、何かに呼ばれているような気がしていたけれど、それはこの出会いだったのかしら。

 もうひとりの子には悪いことしたな、とは思うけれど、あっちの子には自分の不運な人生を恨んでもらうしかない。いままでだって私は多くの人間を死に追いやってきた。実際に手を下したのはコウだけ。でも他の彼らも私は私自身が殺した、と思っている。今回の子だけをやたらと哀れむのはおかしな話だ。

 ……やっぱりここ数日の私は変だ。

 反対側から坂道を駆け上がってくるクリーム色のレインコートを着た少年こそ、いま私が哀れんでいた子どもだ、と気付いたのはすれ違う寸前まで距離が近づいてからだった。幽霊でもなく、確かに生きて、そこにいる。

 私に顔を向けた少年の顔は蒼白で、怯えた目をしていた。でも私を怖がっている、という感じではなく、どこかうつろで、私の姿に別の誰かを見ているようだった。私の顔を見たのは一瞬で、彼は坂道のうえへと消えていく。

 なんで俺を殺したの?

 その少年は、あの岩肩くんとは違って、欠片もコウとは似ていない。だけどあの瞬間、彼は間違いなくコウだった。怪物となりゆく私を見ながら、哀しみと怯えを私に向けていたコウだ。

 なんで俺を殺したの、母さん?

 罪悪感だろうか。馬鹿らしい、そんな感情なんてあるはずない。私のような怪物に。

 岩肩少年は怪物になれなかったみたいだ。でもいまの私にはそんなのどうでも良かった。私は公園のトイレを目指しながら、確信していた。たとえ、そこにいる彼がどんな状態であろうと、私が彼を選ぶことはないだろう、と。

 なんで俺を――。ねぇ母さん、なんで――。

 あなたが怪物になるくらいなら、私が怪物になるよ。私だけでいい。あなたのためなの。

 そんな言葉は、どんな運命を辿ろうとも怪物になっていただろう人間の、卑怯な言い訳に過ぎないのかもしれない。

 雨は、まだ上がりそうもない。私はさしていた傘をたたむ。

 きょうが雨で良かった。水のしずくがごまかしてくれる。

 許して……ううん、許さないで……許さなくていいから、永遠に私の前から消えないで、お願いだから。嫌だ。もう嫌だ。誰か、いっそのこと、コウを忘れさせて――。


「どうしたんですか? 母さん」
「いま、なんて……?」
「あっ、ごめんなさい。つい……間違えました」
「いいのよ」


 新たに彼と一緒に暮らしはじめた頃、先生、と呼び間違えて、母さん、と彼が私に声を掛けたことがあった。平気な振りをしていても、本来ならまだ小学校に通っている年齢だ。寂しさはあったに違いない。私が見て見ぬ振りをしていただけで。

 思わず言葉として表れてしまったのが、あの、母さん、だったのだろう。

 あの時ほど、彼の本当の母親ではない事実を実感した時はない。でもその言葉のおかげか、彼の存在が、コウを忘れさせてくれるようになった。コウと呼びながらも、まったく違う新たな親子関係を築いているような気持ちになっていたのかもしれない。

 だけど……、

 彼がもうすこし大きくなった頃に、私は例の夢を見た。この夢が描き出す未来は外れない。

 その夢の中に、景色の寂しさが増した栗殻村の公園で、大人になった彼と老いた私が別れるように、それぞれ別の道を歩んでいくふたりの姿があった。いつ、どんな形かまでは分からないが、いつかそんな日が来て、……そうか、彼に背を向けた私はそんな表情を浮かべているのか。

 雨も降っていなくて、つぎに私の感情をごまかしてくれるものはひとつもない。

 彼を離す気はない。離したくはない。

 でも……、もしその日が来た時、私は絶対にその表情だけは見せないつもりでいる。

 ようやく解放されるもうひとりの息子が立ち止まらないために、卑怯で弱くて、最低な怪物ができる唯一のことだ。


「僕が見た怪物たち1997-2018」完