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恐怖の終わり、あるいは始まり

 いつもお世話になっております。書店員のR.S.です。普段は本の感想を書いているのですが、今回は恥ずかしながら掌編小説を書きました。ホラーです。

『恐怖の終わり、あるいは始まり』

 他者への配慮というものをどこかに置き忘れてきた上司に膨大な仕事を押し付けられたことで、いらいらが募っていたのかもしれない。言い訳のつもりはないが、普段の俺だったら決してこんな軽率な行動は取らなかったはずだ。

 残業を終えて、終電になんとか間に合った俺は入り口付近の座席に腰掛け、ぼんやりと暗くなった窓越しの風景を眺めていた。小さくため息を吐いて、また明日も早朝からの出勤か、と思うと、うんざりとした気持ちになる。すこし寝ようかなと目を瞑って数十秒ほど経ったくらいだろうか、くちゃくちゃ、という不快な音とともに目を開けると、俺の前に巨躯の持ち主と言っていいような大男が立っている。吊り革にも掴まらず、俺の至近距離で睨みつけるように見下ろす男に、俺は恐怖より前に怒りがわいた。

 なんだよ、こいつ……。辺りを見回せば、席はいくらでも空いていて、わざわざ俺の近くに来る必要なんてないし、ガムを噛みながら睨みつけられるその態度の悪さとそんな態度を取られる覚えもないことに腹が立つ。

 とはいえ自他ともに認めるへたれでトラブル嫌いの俺にとって、こういうトラブルは何よりも避けたいものだった。何度も言うが、普段の俺だったら絶対にこんな軽率な行動は取らなかったと思うし、こんな不気味な奴と関わってたまるか、と軽く会釈して場所を移動していたはずだ。

 自分でもなんでそんなことを言ってしまったのか分からないが、思わず舌打ちして、「どっか行けよ、デブ」と相手にしか聞こえないくらいの声で呟き、後は無視するようにふたたび目を瞑った。

 くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、とガムの咀嚼音のテンポが速くなる。目を瞑りながら、俺はさっきの行動を後悔する。くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ。

 やめろ、やめてくれ。俺が何をした……いや、したんだが、もとはと言えばそっちが先だろ。

 手を出してくる様子はない。電車に乗っている間の我慢だ。どうせ次の駅で降りるわけだから、それまで我慢するしかない。

 電車が俺の降りる駅に着き、俺は席をすぐに立つと、相手の顔を見ずにその場から足早に立ち去る。くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ。耳障りな音が脳裏に貼り付いて、離れない。逃げるように駅から離れ、家路へと向かう道で俺は立ち止まり、深い息を吐く。心臓が激しく鼓動している。とりあえずこれだけ移動すれば、もう安心だろう。俺が自分の軽率な行為を反省して、ふたたび歩き始めようとすると、

 くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ。

 と、追い掛けてくるかのように、あの音がふたたび聞こえてくる。

 幻聴だ。幻聴に決まってる。徐々に近付いてくる音が幻聴ではない、と俺自身が誰よりも分かっていた。

 恐る恐る振り返ると、真後ろにあの男が立っている。俺は半泣きになっていたと思う。大の大人がと笑われるかもしれないが、街灯に照らされた男の表情は喜怒哀楽では判断できないものだった。大男は俺に何かするわけではなく、もう味が無くなっているであろうガムを噛み続けるだけ。

 何もしてこないのが、何よりも不気味だ。いっそ一発殴られたほうが、ましだ。

 くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ。

 俺は悲鳴とともに走り、とにかく自宅を目指した。最短ルートを選べば男に家の場所がばれてしまう、と俺はわざと普段の道とは別の道を通ったりしながら、いつもよりかなり時間を掛けて家に辿り着く。

 一人暮らしの自宅がこんなにも不安だ、と感じたのは、人生で初めてだ。

 ピンポン。ピンポン。呼び出し音が聞こえ、マンションの自室の中からオートロック前の映像を見ると、あの男の顔が映像一杯に映る。ピンポン。ピンポン。ピンポン。ピンポン。

 くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ。という音はもう聞こえないはずなのに、耳に纏わりついてしまったせいか、ずっと鳴り響く。警察を呼ぶか……だけど何かをされたわけでもなく、自宅がばれている以上、さらに怒りを買う事態は避けたい。どうしよう、どうしよう……、と俺の焦りを逸らすようにスマホの着信音が聞こえる。この場に似合わない愉快な音ととも表示された名前は、俺に仕事を押し付けた上司だった。焦りと不安が怒りに変わり、俺はその電話に出ると、その上司の声を聞くよりも前に「お前のせいだ!」と声を張り上げ、思い付く限りのあらゆる罵詈雑言を相手に浴びせ、相手の声を聞く前にその電話を切り、電源もオフにする。明日の仕事なんて知るか。今は命さえ危ない状況なんだ。

 もう一度、映像に目を向けると、オートロック玄関の前に人の群れが出来ている。警察の姿も見え、どういう経緯かは分からないが、とりあえずほっとする。その後、俺は警察の人と話すことになり、これまでの経緯を説明する。軽率な行動は注意されたが、俺のことをかなり気遣ってくれる優しい人だった。その人の話によると、別の部屋の住人がマンションから出ようとした時にあの男を見つけ、不審な男がいると連絡してくれたらしい。警察が今後何かあったらすぐに連絡をください、とその場を去ってすこし経つと、さっきの上司とのやりとりが気になってくる。今日は行動が本当に軽率すぎる。まぁでも、とりあえず、いま一番の危機は乗り越えた。あの脳裏に貼り付いた音も離れつつある。

 恐る恐るスマホの電源を入れると、異常な数の着信履歴。それはすべて上司の名前だった。

 とにかく謝ろうと、上司に電話を掛けると、電話越しから聞こえてきたのは、

 くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ。くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ。くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ。くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ。

 それは、ひとつの恐怖が終わり、新たな恐怖が始まる瞬間だった。

                       了