髪切るハロウィン【掌編小説(約2600字)】
切ったのは。
髪は女の命、と聞いたからだ、と思う。彼女の命を自分の物にできないのなら、その代わりに、もうひとつの命を、と。
あとになってからそう言葉にしてみただけで、あの一瞬、本当にそんな感情がよぎったのか、実のところ分かっていない。僕の曖昧な心の問題はおいておくとして、とりあえず事実を述べるなら、小学生の時、僕は彼女の髪を切り、その半年後、彼女は死んだ。ハロウィンの日に、高級外車に轢かれて、短髪の彼女の首は百八十度くらい回っていたらしい。
僕が髪を切ったことと、彼女が死んだことはまったく別の話なのに、僕だけは関連付けて考えている。僕が髪を切らなければ、彼女は生きていたのではないか、と。
彼女の人生は十歳で終わってしまい、僕は彼女が死んだあとも変わらず生き続けて、もう今年で二十五歳になってしまう。彼女が死んでから、彼女と会ったことは一度もない。当然だ。だって彼女は死んでいるんだから。これからも会うことはない。それも当然なはずだった。
「トリック・オア・トリート。お菓子くれなきゃ、殺しちゃうぞ」
ハロウィンの日に、僕は彼女を見つけた。仮装することもなく、十歳の時の姿で、そして僕が髪を切る前の、もうひとつの命を長い黒髪に宿していた頃のままで。
会社から帰る途中、暗くよどみのある夜空に映える濃いオレンジ色を見つけ、それがカボチャ型の車だ、と気付いたのは、なぜか色を認識したあとのことだった。窓越しに彼女の姿が見えて、僕は思わず駆け寄っていた。そして窓を開けた彼女が、さっきの台詞を言ったのだ。
いま僕は、カボチャの車内で、彼女と隣り合わせに座っている。馬車なら風情もあるのだろうが、残念ながらこれは、オレンジ色の鉄の塊だ。いや実際にべたべたと触って確認したわけではないので、もしかしたら鉄ではない可能性もある。食べられる車だ、と妄想でもしてみれば、ちょっとは風情も出るだろうか。
ふたり乗りの車に、僕たちふたりだけが乗っていて、運転手はいない。なのに、なぜ動いているのか。僕は聞こうとして、でもやめることにした。もし夢なら、現実をとやかく言うことで、醒めてしまいそうな気がしたのだ。
だから僕は、
「どこに向かっているの?」
と聞くことにした。
「アイルランド。せっかくだし、ジャック・オー・ランタンにでも会いたいな、って。だってきょうはハロウィンの夜よ」
そんなお化けみたいなやつ、存在しないよ。普段の僕なら、相手が彼女じゃなければ、きっとそう言うだろう。だけど隣に存在してはいけないやつがいる以上、そんなこと言えるはずがない。
それにしても十歳の少女に思えない、大人びた口調だ。僕のかつての幼なじみはこんな大人びていただろうか。思い出そうとしてみたけれど、口調までは思い出せない。このくらい大人びていたような気もするし、周りの同い年の女の子たちより全然子どもっぽい口調だったと言われても、まぁそうなのかなぁ、と思うだろう。だってもう十五年も年月が経っているのだ。
彼女は真実を語っていない気がしたから、きっとアイルランドには向かっていない。どこへ行くかは分からないカボチャ車に揺られながら、僕はときおり彼女の横顔を見て、ふいに癖のように首を振った彼女の長い黒髪が揺れた。
本当に長くてきれいな黒髪よねぇ。
素直に褒めたくない、という感情が見え隠れする口調でそう言ったのは誰だったか。母親だったか、あるいは担任の先生だったような気もする。
髪は女の命、って言うから、きっとあの子は命まで美しいんだよ。
その言葉の主は、続けてそう言ったから、魔女だったのかもしれない。母親でもなく担任の先生でもなく、僕をそそのかす魔女だ。
「また切るの?」
彼女が、まっすぐ僕を見ている。
十五年経っても、お互いそれが髪の話だ、と気付いている。いや彼女が僕と同じ十五年を過ごしたのかは分からないのだけれど……。
僕は彼女から目を背け、窓越しの景色を見た。光がなく、真っ暗だった。僕はいまどこにいるのだろうか。本当に。現代の日本か、アイルランドか、夢の中か。唯一分かることは、僕の隣に現実か虚構かの判断も付かない彼女がいる。それだけだった。
「なんで切ったの?」
切ったのは。
髪は女の命、と聞いたからだ。心のうちだけでまとめていた想いを、僕は彼女に吐き出さなかった。彼女のためではない。真実になってしまいそうな気がして、言えなかったのだ。あくまでももっとも大きな可能性のひとつにしたかったものが、唯一絶対の真実になってしまいそうな、そんな。
すこしの生徒が残る放課後の教室に、彼女と僕がいた。その日、僕は事前に彼女の髪を切ろうと予定していたわけではない。たぶん。でも僕は、僕の前の席で何人かの女子生徒と楽しそうにしゃべっている彼女の後ろ髪を、勢いのままハサミで切り裂いた。爽快感も後悔もなかった。いや、というより直後はそんな感情を抱く暇もなく、大騒ぎになった。悲鳴や怒号が聞こえ、誰かに思いっきりほおを叩かれたのを覚えている。それはクラスの女の子だった気もするし、担任の先生だったかもしれないし、記憶にはっきりと残っていない以上、話した記憶さえ一度もない校長先生の可能性も捨ててはいけない。
彼女じゃなければ駄目だったのか、と聞かれれば、駄目だった、としか言えない。なんで、と言われても困る。理由を求めるな。
彼女は数日休んで、次に会った時は、短髪だった。そして僕に会って、おはよう、と言った。いつも通りの雰囲気を装って。だけど、挨拶した時の彼女の手は震えていた。その発見はいまも、鮮明に覚えている。それを見て、すごくほっとしたからだ。それ以上は、何ひとつ話さなかった。周りが許さなかったのだ。
「もうそろそろ着くよ。ジャック・オー・ランタンには会えなかったね……」
彼女が、寂しそうにつぶやく。
「着く、って、どこに?」
彼女は僕の問いに答えなかった。そして、もう一度、
「また切るの?」
と聞いた。
「もちろん、切るよ」
僕の手にはいつの間にかハサミが握られている。僕は、彼女が死んでからずっと伸ばし続けていた、おのれの長い黒髪を切ることにした。この髪のせいで女に間違われることもあったけれど、残念ながら僕の髪は命ではない。だから髪を切ったところで、誰かが車で僕を轢いてくれるとは限らない。
でももし轢かれるなら、このカボチャ車で彼女に轢いて欲しいなぁ、と思った。
お互いに命を奪い合ったふたりで、今度こそジャック・オー・ランタンを見に行こう。
そんなふたりなら、きっとお化けみたいなやつにも会えるよ。
【了】