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誰がためにきみは書く

 先日の記事で、合わぬなら、合わぬままでよいよい、と書いたように、

 私は誰かのために自分の文章を寄せたことはない。……と力強く言ってみたいものですが、今まで一度も無かったか、と言えばそれは嘘になります。決して意識的なものではなく、どちらかと言えば無意識に合わせにいってる感じで、書き終わった後なんかに気付くことも多い。それの何が悪いんだ、という向きもあるでしょう。別に悪いわけではありません。ただ個人的には自分のそういう部分に気付いてしまうのは、好きじゃなかったりします。

 これは結構以前の話で、別に(当時も同様に)特に怒ってもいないし、もやもやを抱えているわけでもなく、実体験から得た教訓話としてちょうどいいな、と思って、書くので、「誰だろう?」みたいなことは気にせずに読んで欲しいのですが、よく(主催者ではなく第三者の方が)コンテストや企画なんかの応募作品に対して、「ほぼ全部の応募作品を読みました!」と書いてる言葉をtwitterやnoteで見掛けたりした時に、大体私の作品は、「ほぼ全部」の、ほぼ、じゃないほうに入ることが多い。別に大量のスキが付くような作品ではないので、「ほぼ全部」読んだというひとから、読んだ、という痕跡が付いていないことに簡単に気付いてしまうわけですね。

 ……あぁあぁ、待って待ってΣ(゚Д゚) 別にそれに対して文句を言いたいとかではないんです。別に私も合いそうになければ読まないし、読んでも合わなければスキは押さない。たとえばそのひとが読み逃したのか、読んだ上で痕跡を残さなかったのかは、相手にしか分からないことで、どちらにしても何も悪いことではないし、選ばないという選択は大切なことです。

 とはいえ、書いているほうとしては、やっぱりちょっと悔しかったりしますよね。何も明言されていなければ何も思わなくても、「ほぼ全部」から排除されたわずかな一部に組み込まれるのは。あぁあのひとには合わなかったんだろうなぁ、さぁ次、次。すぐに行ければ、理想的なんでしょうが。

 私なんかはまず、「次はあのひとにぎゃふん(面白い)と言わせるような作品を創ってやる」みたいな感情をよく挟んじゃうんですね。これ悪い思考回路でもなんでもないような気もしますが、これを感じると、私は自分自身に、あっ、今、危険な兆候だな、とか思ってしまうんです。

 だって別に自分の作品を好きでもないし、好きになりそうもないひとに合わせて、たとえ相手から「面白い」と言われたところで、本当に満足か、って感じでね。もちろん「面白い」と言われれば一時の喜びはあるかもしれませんが、もともと私の作品を「面白い」と言ってくれた方が二人くらいは離れてしまうかもしれません。そして私が書きたいのはおそらく後者で、離れていって欲しくないのも圧倒的に後者です。

 それに、ね。

 大体そのひとに合わせて作品を創っても、そのひとが「面白い」と言ってくれる保証なんてありません。そもそもそのひとが自分の作品に目を向けてくれるとも限らないし、合わせた、と気付かれれば、興覚めするだけでしょう。後、そのひとと似た作風を、そのひと自身が好むとは限らない、という問題もありますね。例えば私は自分と似た作風よりも、自分が逆立ちしても書けない作品を書くひとのほうが感銘を受けやすい。

 他薦マガジンに収録してあるものを見てもらえれば分かると思いますが、私と似たタイプの作品は無いのでは、と思います。

 私は音楽レビューや散文詩なんて逆立ちしても書けないけれど、読むのは大好きです。

 合わぬなら、合わぬままでよい。私はそういう作品を書き、書き続けたい、と思っているのだから、変に悩む必要なんてなく原点に立ち返ればいいような気もしますが、

 思考はぐるぐると迷路を彷徨うように、綺麗な一本道を経験したことなんて一度もない。

 だから私は、

 今日も悩みながらも、その思考に立ち返って、また書いてゆく――。

 最近は先日挙げたこちらの本格ミステリとホラーのガジェット満載のミステリの長編化のために、プロットを練り練りしてます。どのくらいの分量になるかも分からず、終わらせることができるかどうかも不安ですが、完成したら(あるいは完成の目処が立ったら)、まずはnoteに投稿しようと思っています。

 じゃあね。