〈人間について語られたこと。あるいは語られた物語〉           テッド・チャン『息吹』(早川書房)


人間について語ること。あるいは語ろうとする物語

 

 最近ではあまり見掛けなくなりましたが、私が小説を読み始めた頃にはよく使われていた抽象的な批評の言葉に、人間が描けていない、という言葉があったように思います。非現実的な出来事を描いた作品、(その人にとって)リアリティが感じられない作品に対して使われたこの言葉に違和感を覚えたことのあるひともいるのではないでしょうか(きっと言葉を変えて、今でもこういう表現は残っているとは思いますが、今回は話の本題からはずれるのでいったん置いておくことにします)。

 当時の私がこの言葉を苦手だと感じていたのは、本格ミステリやSFなどに対しての否定の常套句として使われている印象が強かったからですが、きっとそれだけではなかったのだ、と年齢を経るにつれて思うようになってきました。

 人間を描けていない、と簡単に一言で済ませるほど、その人は〈人間〉について知っているのだろうか、と。自分と、自分の見てきた一部分の人間社会を切り取って、それをすべての〈人間〉とイコールで結ぶような傲りをその人たちから受け取ってきたから、もしかしたら苦手意識を持っていたのかもしれません。

 本書の帯に、アメリカ合衆国前大統領のバラク・オバマが言葉を寄せています。

 人間について理解が深まる。最上のサイエンス・フィクション。

〈人間〉への理解が深まる。そう聞くと、すくなくとも私は、嫌な感じがしなくなります。人間も、この世界も、宇宙も、死生も、私にはよく分からない。単純なようで複雑で、複雑なようで単純……そんな気がするけれど、それさえも正しいのかどうか分からない。でも知りたい……。

 本書に収録された作品はどれもSFでしか描けないような形で、〈人間〉と〈人間〉を形作るあらゆることを深く誠実に洞察されている気がするのです。そして正しいかどうか以上に、その言葉を強く信頼したいと思ってしまうのです。

 それではまずは一篇ずつ見ていきましょう。

 ※ネタバレにはできる限り気を付けるようにしますが、未読の方はご注意ください。


①「商人と錬金術師の門」


「できます。そうやって〈門〉をくぐれば、二十年後のバグダッドを訪れることになります。二十年後のご自分をさがしあてて、言葉を交わすこともできましょう、そのあとでまた〈歳月の門〉をくぐり、現在にもどってこられるのです」

 平安の都バグダッド生まれのフワード・イブン・アッバスが偉大なる教主(カリフ)に語る不可思議な物語は、博覧強記の老人バシャラートから語り聞かされた錬金術によってつくられた歳月を隔てる門によって時を超える物語だった。

『千夜一夜物語』などのように物語の枠に複数の物語を嵌め込む小説形式を〈枠物語〉というそうですが、本作は、この『千夜一夜物語』的な構造(と言いつつ、読んだことないのですが……)を用いたタイムトラベルの物語になっています。

 訳者あとがきによると、

キップ・ソーンが考案した“相対性理論と矛盾しないタイムマシン”とは“時空の虫食い穴”と呼ばれるワームホールを利用するもの。二つの口の片方を光速に近い速度で移動させてからもとに戻すと、ウラシマ効果で時間が遅れるので、入口と出口で時間の差ができる。そのため、片方から入れば過去へ、もう片方から入れば未来への時間移動が実現する。

 らしく、まぁ正直あんまり理解は出来ていないのですが、とりあえず科学的に実現可能なタイムトラベルを扱っているそうです。ただしっかりとこの仕組みを理解していないと楽しめない物語ではなく、未来や過去は定まっていて、知ることはできても変えることはできない、という制約が物語の中に綺麗に組み込まれていて、すんなりと入ってきます。

「いえ。年寄りのことゆえ、話がわかりにくくて申し訳ありません。〈門〉を使うことは、引くたびに結果が変わるくじ引きとは違います。むしろ、宮殿の中の隠し通路、ふつうに廊下を歩いてゆくよりも早く目的の部屋にたどりつける秘密の経路を使うのと似ております。どの戸口を通って入ろうが、めざす部屋が変わることはありません」

 入り組んだ構造の壮大な物語がひとつの形となって読む側の前に姿を現した時、手が届かないほど遠く離れていて、美しくも憧憬を感じていることしかできなかった物語に、身近で手の触れえる場所にまで近付いてくれる瞬間が訪れる。切なくも、鳥肌の立つような余韻が残るような作品です。


②「息吹」


古来、空気(余人はアルゴンと呼ぶ)は生命の源であると言われてきた。しかし、真実は違う。ここに刻むこの文章は、わたしが生命の源を理解し、ひいては、いずれ生命がどのようにして終わるかを知るにいたった、その経緯を記したものである。

 肺に空気がある限りは永遠の寿命を持つとされている〈彼ら〉のいる〈宇宙〉の話……?

 という説明が正しいのかどうかも分からないほど、この作品を読み解くことが私には難しかったのですが、しかし分からないなりに必死に文字をたどっていく、と、ここではないどこかの、われわれ人間とはまったく別の死生観を持った〈彼ら〉の、その語り手である〈わたし〉の想いに触れて、自身の死生観が強烈に揺さぶられます。

 これを中盤が分からないから、という理由で断念しなくて良かった、と心から思います。

 自分の理解力の無さを棚に上げて敢えて言うならば、理解を越えた先にあるその特別な想いに触れたような気がするのです。

 切なくて哀しい、悲劇のはずなのに、語り手のこの想いには明日を感じさせられ、どこまでも美しい。「商人と錬金術師の門」同様、何故、最後の一文をこんなにも美しい言葉で集約できるのだろうか、と不思議で仕方ない。


③「予期される未来」


「先月のあなたの行動にしても、あなたが自由に選択したものはなにひとつなかった。今日のあなたの行動も、その点ではまったく同じなんですよ」と医師はいう。「だからいまも、先月とおなじようにふるまえばいいでしょう」それに対して、患者は決まってこう答える。「でも、いまは知ってるんです」そして、それを最後に一言も話さなくなる患者もいる。

 自由意志が存在しないと予言機が実演する社会において、未来が変更不可能であることを理解し始めた人々の間で昏睡状態(コーマ)ともいうべき無動無言症が広まるようになった世界を描く四ページ程度の掌編。

 前述の二篇とは違って冷めたまなざしで紡がれたぞっとするような一文で幕を閉じます。私がこうやって『息吹』のレビューを書いていることも、決して自由意志によるものではないのかもしれない。そう思うと、変更不可能の未来を知ることは、とても怖い。


④「ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル」


 経験こそ最良の教師であるというAI設計思想をもとに、学習能力を持ち成長するディジエント(データアースのような仮想環境で生きているディジタル生物)をめぐる物語。アナとデレクという二人の登場人物の視点で語られる、人と人、人とAIの関係性がとても印象的。

 成長するAIをテーマに、疑似親子的な要素を絡めた作品だと思いながら読んでいたのですが、途中から「あっ、それだけで済ませてはいけない」と感じ始めてきました。親が子を想う物語なのではなく、身近な、大切な〈誰か〉を想う物語なのかもしれません。親子や家族に限定してしまうのは、すこし違うような気がしたのです。誰もが、〈誰か〉を想った時に起こりうる問題を描いた物語なのかもしれません。

 ここで語られている哲学的な問題というのは、決して遠く離れた、見ることのできない世界の問題ではないように思います。理解できない部分を分からないなりにたどった先で、最後に残るのは、〈共感〉なのです。共感、と書くと、安易な印象を受けてしまう人もいるかもしれませんが、それでも〈共感〉以外の言葉が見つからず、そしてそこに安易さを一切感じないのです。

 本書後半に書かれている著者の各作品の「作品ノート」(いわゆる著者後書き的なものです)の本作品の項に印象的な一文があったので、引用したいと思います。

たいていの恋愛映画は、ロマンティックで劇的な方向から愛を描くが、長いスパンで見れば、恋愛とは、金銭問題を解決したり、床に散らばった汚れものを拾って洗濯したりすることを意味する。AIが法的権利を獲得することは大きな一歩だが、人間がAIとの個人的な関係に心から努力することも、それと同じくらい重要な里程標になる。


⑤「デイシー式全自動ナニー」


 子守(ナニー)の息子への扱いを知ったことをきっかけに、人間の手によらない子育て機械、〈全自動ナニー〉という機械をつくった数学者。屈折したものが感じられるこの数学者の〈珍発明〉をめぐる物語を、心理学ミュージアムのカタログからの抜粋という形式で描いた作品で、〈正しい〉に対する違和感と親子、というものについて強く考えさせられるものになっています。


⑥「偽りのない事実、偽りのない気持ち」


エリカ・マイヤーズの楽観主義を共有できればよかったが、わたしは新しいテクノロジーが人々のいちばんいい面を引き出すとは限らないことを知っている。自分バージョンの出来事のほうが正しいと証明できることを望まない人間がいるだろうか。

 ふたつの交互する物語の中で語られるのは、書くこと、そして読むこと。そして記録と記憶についてのこと。

※最初に途中まで読んで抱いていた感想を書きますので、私は少し明らかに間違っていることを書きます。私がこうなるだろう、と予測していた展開はことごとく外れ、さらにその先を行くような展開を見せるのです。

 言葉を声に出さずに思い浮かべると、視野にその言葉を表示し、目の動きを組み合わせて文章を編集する網膜プロジェクターが一般的になった世界で、さらに新たなテクノロジー、検索ツール、リメンが登場する。

 これはユーザーの会話を監視して、過去の出来事についての言及を見つけると、視界の左下隅にその出来事の映像記録を表示するもので(説明、合ってますか?)、何かを誤って思い出すことのできない完全な記憶を持つことへの違和感を、語り手の言葉で引くと、

「許して忘れよ」という言葉がある。理想化された度量の広い自分にとっては、必要なのはそれだけだ。しかし、現実の自分にとっては、このふたつの行為、許すことと忘れることとの関係は、そう簡単ではない。わたしたちはたいていの場合、許せるようになるまでに、いくらか忘れる必要がある。

 となる。

 過去を変えることはできないし、曖昧模糊としている。真実を追求することは時に足枷になり、忘却が人間関係を円滑にする場合もあるのだ。そんなことを直接言葉にしてくれる人はあまりいないけれど、著者はどこまでも誠実にそれを言葉にする。

もうひとつ、わたしのいちばん最初の記憶は、リビングルームのラグの上で、おもちゃの車を押して遊んでいたときのものだ。同じ部屋では祖母がミシンを使っていて、ときどきふりかえってはわたしにあたたかな笑みを向けた。その瞬間の写真はないから、この思い出がわたしだけのものであり、なにかに補強されているわけじゃないことがわかっている。美しい、牧歌的な記憶。その日の午後のじっさいのビデオ記録を見たいと思うだろうか? いや、ぜったいにノーだ。

 記録ではない記憶について語られる真摯な言葉に、感情が共鳴していくような感覚を抱きました。共感とも言えるかもしれませんが、私はどうしても言葉への信頼と捉えたくなってしまう。

 完璧な記憶は物語になりえない気がする。

 本作を読んだ人なら、一見美しくも見える完璧な幸せが素晴らしいと思えるほど、楽観的な気持ちにはどうしてもなれないだろう、と思います。

 …………………うん、おかしいですよね。

 ……途中まで読んで抱いていた感想を言葉にすると、こんな感じですが、もうすでに読んだ人なら明らかにおかしいと分かりますよね。

 前述した〈過去を変えることはできないし、曖昧模糊としている。真実を追求することは時に足枷になり、忘却が人間関係を円滑にする場合もあるのだ。そんな直接言葉にしてくれる人はあまりいないけれど、著者はどこまでも誠実にそれを言葉にする。〉という文章……、

 これはそんな物語ではないのです。

 とても曖昧な言い方で申し訳ないのですが、完璧なデジタル記憶が浮かび上がらせた〈真実〉による苦悩により、排斥ではなく許容、そして許容したその上で物語をどう捉えていくか、という想像もしていなかった展開になっていきます。SF好きなひとだけではなく、ミステリ好きなひとも楽しめる作品だと思います。


⑦「大いなる沈黙」


“フェルミのパラドックス”は、“大いなる沈黙”と呼ばれることもある。宇宙はさまざまな声が満ちあふれてやかましいはずなのに、びっくりするほど静まり返っている。//それは知的種族が宇宙に広がる以前に絶滅してしまうからだと説明する人間もいる。もし彼らが正しければ、夜空の静けさは、墓場の沈黙だということになる。

 コトバンクを参考にさせてもらいましたが、〈フェルミのパラドックス〉というのは、地球外に文明がある可能性は高いはずなのに、なぜいままでその文明との接触がないのか、という矛盾を指す言葉だそうで、いるならば接触(交信)できていてもおかしくないはず、ということに対する仮説(宇宙人はいない、地球外生物は存在するが通信できるまで進化できていない……etc)がいろいろ考えられているとのことです。

 映像とのコラボ作品であり、動画はYouTubeにも上がっていたので、読後、視聴させていただきました(YouTubeの動画の場所などは、訳者あとがきに書かれていました)。

 作品ノートには、

オウムの一羽、“種と種のあいだを橋渡しする一種の通訳”の視点から語られた寓話。

 どの作品もそうだが、この作品は特にうまく言葉にするのが難しい。ただ良質な一篇の詩を味わった後のような、深い余韻が残る美しい作品でもあります。意外と(という言い方は失礼かもしれませんが……)この作品が一番好きという人も多そうな、佇まいというか雰囲気がとても素敵な作品です。


⑧「オムファロス」


どんなに深く掘っても、この世界のもっと古い時代の痕跡がつねに見つかる――もしそんな世界に生きていたとしたらどうなるか想像してみてほしい、とわたしは聴衆にいいました。過去を示す証拠を眼前につきつけられ、その証拠が、十万年、百万年、一千万年とどんどん時を遡り、数字が意味を失うまでになったとしたら。もしそんなことになったとしたら、わたしたちは時の大海原に浮かぶ漂流者のように、迷子になった気分を味わうのではないでしょうか。それに対する唯一のまともな反応は、絶望でしょう。

 私たちが知っているのとは似て非なる、別の世界、宇宙の話(……ですよね?)。「商人と錬金術師の門」の時と同じ表現になってしまいますが、そんな遠く離れたような感覚を抱く物語が、身近で手の触れえる場所にまで近付いてくれる瞬間が訪れるのです。

 神、科学、考古学、天文学。どうしてこの短篇集に収録される作品の終着駅はこんなにも美しいのだろう。天文学の話も考古学の話も理解としては追い付かない部分はありつつも、ゆっくりと丁寧に追っていけば(他の作品ももちろんそうですが……)この作品でしか出会えない感動にたどり着く。

 人間の生きる意味。〈わたし〉が生きる意味。そんな多くの人が一度は抱いたことのある普遍的な悩みへとストレートに物語が進んでいたのだと分かり、そのことに心を揺さぶられ、深い感銘を受けるのです。


⑨「不安は自由のめまい」


テレサは興味を引かれた顔でデイナを見つめた。「自分がまちがった選択をしたんじゃないかと思うことはないの?」//思うまでもなく、知ってる。しかし、口に出してはこういった。「もちろんあるわよ。でもわたしは、いま、ここに集中するようにしてるから」

「プラガ世界間通信機器(インターワールド・シグナリング・メカニズム)」、通称プリズムという新しいテクノロジーによって別の並行世界とコミュニケーションが取れるようになった世界を舞台にした物語です。

 先日読んだ伴名練「なめらかな世界と、その敵」は並行世界に自由に行き来できる作品(本当に美しい青春SF!)でしたが、本作はコミュニケーションのみが可能な世界。本書収録作品の中でも一、二を争うくらい読解において不安が残る作品ですが、不安、後悔、葛藤……どんなに優れた技術が登場しても人生の悩みの根っこのところは変わらないんだなぁ、と思ってしまった作品です。

 苦いや切ない、とも違うような独特な余韻が印象的でした。


人間について語られたこと。あるいは語られた物語

 

 この本を読んで、すこしだけ理解が深まった気がします。それは物語について、人間について。だけど完全に分かったわけではない。

 きっと〈分かる〉と口にできる日なんて永遠に来ないと思う、この物語のことも、人間のことも。ちょっと近付くことができただけだ。それでいいのかもしれない。分からないから、分かろうと掘り下げる。結果分からなかったとしても面白いのです。

 物語も、人間も。

 この作品集について語ったこの文章で、私は何回〈分からない〉、〈理解が追い付かない〉と言っただろうか……。レビュー失格だと言われれば、私に返す言葉はない。それでも私はこの作品について語りたいのです。

 誤解を恐れずに言えば、ここに収録された短編はどれも簡単に読み解けるような外見はしていません。いまだにどのくらい理解できているかと言えば、やはり心許ない部分が大きい。それでもこの物語でしか得られない美しい瞬間が間違いなくあるのです。自分の理解力が乏しいことなんて昔から知ってるんだから、それを難しいから分からない、という理由で敬遠なんかしたくない。

 だから私は、この物語が好きだ、と声高に叫び続ける。