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重信房子をひとり生み出してしまった仮面ライダーBLACKSUN

僕のいちばん古い記憶のひとつは、仮面ライダーBlackを見ていた日曜日の朝だ。
南光太郎こと仮面ライダーブラックの闘いは僕の人格や思想の原点となる。
というか、幼すぎてそれ以前の記憶が曖昧なだけだ。
つまりは仮面ライダーBlackは宇宙の開闢と同じといって過言はない。
そんな私がこの秋に配信された仮面ライダーBLACKSUN全10話を観て、それぞれの話ごとの感想をざっくりと述べたいと思う。

1話 世界観が激シブイ!めっちゃいいねぇ!
2話 いいねぇ!
3話 こりゃまたいいねぇ!
4話 いいねぇ!
5話 たまらんねぇ!
6話 あぁ、いいっすねぇ!
7話 おおっ!いい!
8話 あぁ素晴らしい
9話 うむ!よい。
10話 ……え!ダメじゃん!最後の10分で全然ダメじゃん!!

……以上だ。

これだけじゃ、なんのこっちゃわからないので詳細は後述しよう。
だけど、本当に最終話の最後の10分で全部台無しになるくらいダメになってしまい驚いた作品だった。

世捨て人、光太郎の世界

この作品の激シブに感じたところは、ちゃんとお話ししておこう。
なんといっても、うらぶれた主人公、南光太郎/ブラックサンのシブさだ。
1987年に倉田てつをが演じた南光太郎は、少し陰はあるが正義の好青年だった。
しかし2022年に西島秀俊が演じた彼は完全に世捨て人のオッサンだ。
家も持っておらず、壊れたバスに住んでいる。
それどころか正義の心も持ちあわせていない。
っていうか、まともな人間の良心がない。
人にぶつかって転ばせてしまったら、ガン飛ばして道を譲らせる。
生活に苦しんでるヤツから金を巻き上げる。
挙句の果てには、金を貰って少女を殺そうとするありさまだ。
定職に就けず、汚れ仕事くらいしか日銭を稼ぐ手立てがない。
人を善か悪かの雑な分類で分類すると南光太郎は確実に悪だ。
この作品のキャッチコピーは「悪とは何だ 悪とは誰だ」なのだが、まちがいなくコイツのことだ。
子連れの親御さんは、この人が目の前に現れたら確実にお子さんの目元を隠してやり過ごしてほしいものだ。
だが、南光太郎をどうか責めないでほしい。
貧すれば鈍するというように、彼もやむにやまれぬ苦境の中から、望まずして汚れ仕事を引き受けている。
かつては差別をなくして、万人が平等に暮らせる世界を作り出そうとがんばる若者だったのだ。

そんな世捨て人となった南光太郎を淡々と演じる西島秀俊。
頑な表情を浮かべ、人を拒絶するしぐさから、目に見えない強固な壁が彼の周りに築き上げられているようだ。
本当は、お天道様の下を大手を振って歩きたい筈なのに、暗い日陰で人目を避けて生きる者の悲哀が伝わってくる。
ブラックサンとは皮肉な名前だ。

西島秀俊は、いい俳優だなと思った。
彼の地に足のついた演技がベースになっていることで、他の俳優たちの演技にもそれが波及したのか、ヒーローものという現実味がないジャンルの作品世界が、かなり写実的に描かれていた。
たとえば、肉親のように親しい人を殺されて、うちひしがれる女の子に対して、どう声をかけたら言いかわからず逡巡したすえ、そっと肩に手を添える。
そんな繊細な筆遣いで描きあげていくような演技が随所に見られた。

闘い方も泥臭くていい。
ライダーキック!ライダーパンチ!ってふうにはならない。
怪人と怪人(仮面ライダーという概念が出てこない)の闘いがまるで、ヤクザのケンカだ。
かっこいいヒーローアクションを求めるとしたら、物足りなさやコレジャナイ感を覚えるかもしれないが、人間の腕力の延長で闘う姿は、心の中の仄暗いところにあるプリミティブな暴力性に訴えかけてくる。
必殺技で倒したあとのようなスカッとした爽快感をまったく与えてくれない。
敵を倒したところで、暴力を行使したことに対する、手のひらに血が纏わりつくような、ねっとりとした後ろめたさを感じることになる。

そしてヒーローは無力だ。
大切なもの、弱きものを護れない。
王道のヒーローものだと、たとえば目の前で女の子が殺されてしまった場合、そのとき不思議なことがおこりヒーローは深い悲しみの感情から力を得てロボライダー新たなフォームに変身し敵をフルボッコにする。
そして殺されたと思われていた女の子も実は偽物であり、本物はどこか別のところにいた、というような展開がよく見られる。
しかしながらブラックサンやもう一人の仮面ライダー的存在のシャドームーンが護ろうとする人々は、およそ考えうる最悪の結末を迎えることになる。
たとえば、本作では、男子中学生が大人によってたかって踏みつけにされて、誰にも助けられないまま殺される、なんてことがおこる。

正義は勝つ?弱きものが救われる?
寝言は布団の中で言ってくれ。

それぞれのイデオロギー

仮面ライダーBLACKSUNの世界では、怪人たちと人間が共存している。
ところが、悲しいことに、そこには厳然とした差別が存在する。
怪人って見た目が気持ち悪くて独特の臭いがするらしいので、どうしても差別してしまう人間が出てくるようだ。
浅ましいことだ。
そういうところが、現実の我々の社会に存在する差別を否応なく想起させる。
そしてその差別と闘ってきた、一般的に社会ではリベラル、昔は革新や左翼と呼ばれた人たちもまた、作品の重大な要素として描かれている。
政治的なテーマ、しかも、よりにもよって左翼なんて、多くの日本の映像作品では正面から描写されることが憚られる。
ネットの声でも「ライダーで政治を扱ってんじゃねぇよ!」的な意見が散見される。
一般的な会話でも話題にあがれば、腫れ物に触るような扱いをされる。
そういう難しいテーマに取り組んでいるだけでも、仮面ライダーBLACKSUNは価値のある骨太な作品だろう。

……ただ。
俺は、後程、この政治的テーマを扱ったところを、思いっきり批判したいと思う。

まずは、どんな感じで政治的なテーマが扱われているか、ざっくりと登場人物とイデオロギーを並べてお話ししよう。

ゴルゴム

「ゴルゴムのしわざ」という言葉を聞いたことがある人は多いだろう。
私たちは、世の中の不可解なことや不都合なことの根本原因がわからないとき、なんでも秘密結社ゴルゴムのしわざだと考えがちだ。
だが、ゴルゴムとはそういう秘密結社などではない。
政党だ。
政権与党だ。
自由民主党的な存在だ。
ルー大柴が演じる安倍晋三っぽい人が党首であり、総理大臣だ。
ゴルゴム党の政権のもとでは、ひとにぎりの力のある怪人が、人間の総理大臣におもねることで人と怪人の共存が実現されている。
総理は怪人ビジネスで私腹を肥やしており、弱い怪人が奴隷やオモチャとして人間に売り飛ばされる。
また生活保護をもらっていたり、障碍者だったり、LGBTQだったりと社会的に弱い立場の人間は拉致されて、怪人の糧になったり、販売用の怪人を生み出す材料にされてしまう。
本作の世界では、人間から怪人に対する横の差別構造だけでなく、ゴルゴムが作り出した、強者人間と強者怪人による、弱者人間と弱者怪人対する支配と搾取が横行しており、縦の差別構造も見られる。

和泉葵

優秀でかわいい女子中学生。
人間と怪人の権利の平等を訴えて活動している。
グレタ・トゥーンベリさんくらい優秀なので、国連で人間と怪人の権利の平等を訴えてスピーチをかます。
「人間も怪人も命の重さは地球以上。1グラムだって命の重さに違いはない」というフレーズを多用する。
ダッカ日航機ハイジャック事件の際に、当時の福田赳夫首相が
「人の生命は地球より重い」と述べて、超法規的措置をとり、日本赤軍の犯人に対して、身代金600万ドルの支払いと、要求された収監者の釈放に応じたことを想起させてくれる。
このセリフ、作品の中で本当に多くの人物が口にするのだが、どうしてもそのたびに、テロリストの要求を政府が飲んだという事実が脳裏をよぎる。
どういう意図があるのか、作品の扱うテーマがテーマだけにいろいろと邪推してしまう。
葵はそこそこ裕福な家で暮らしているが、弱者怪人たちと交流し、どんなえげつない困難があっても怪人への差別の撤廃と平等な権利の獲得を求めて活動し続ける。

南光太郎/ブラックサン

ご存じ世捨て人の南光太郎。
仮面ライダーブラック……ではない。
先ほども少し触れたが、この作品には仮面ライダーという呼称が出てこない。
呼ばれ方は「光太郎」とか「ブラックサン」とか「おじさん」だ。
かつては葵のように、怪人への差別の撤廃と平等な権利の獲得を求めて活動していた。
ってかもっと過激だった。
中核派とか革マル派とかいう、当事者でしか違いの分からないあの人たちの類だ。
だけど今はそんな志も途絶えてしまった。
積極的に何かを為そうという意思もない。
「怪人がこの世界からいなくなる。それで十分だ」
そういって消極的な怪人の滅亡を望んでいる。
なぜかというと、怪人という存在が、当人たちとしてもそれほどハッピーではないからだろう。
それが奇しくも、怪人を滅ぼすという従来の仮面ライダーの存在理由(レゾンデートル)を体現してしまっている。

秋月信彦/シャドームーン

南光太郎と兄弟のように育った大親友の秋月信彦ことシャドームーン。
信彦も学生の時分は光太郎達と共に怪人の人権獲得のために頑張ってた、赤軍派みたいな人たちのひとりだった。
だけど現代においては、信彦の求めるものは移ろいゆく。
光太郎と同じく、怪人の消極的な滅亡を望んでいるが、今、生きている怪人の権利や自由は強く求めている。
「怪人は怪人の姿のままで生きるべきだ」と主張する。
葵が人間と怪人の共闘を求めているのに対して、自分たちに仇なす人間に対しては、強い対立や攻撃を辞さない覚悟がある。
怪人の若者たちを煽動し、施設兵団のを組織して赤軍派の戦闘訓練のようなことをやらせている。
衝突するデモ隊同士の中央にバイクに乗って割り込んだ信彦は、日本の社会に根付いている分断を象徴しているようだ。
そして、やがては怪人による人間の支配という立場の逆転を求めるようになる。

試される少女

物語の重要なファクターとなっている怪人。
その怪人たちの象徴しているものは、いったいなんなのか。
外国人や障碍者や女性など、差別を受けている、あるいは受けたことのある弱者の象徴であるのはまちがいない。
だけど、彼らは視聴者に嫌悪の感情をそこはかとなく抱かせる。
なぜなら怪人は醜い。
それに変な臭いも放っており、嗅覚という原始的な感覚にまでその気持ちの悪さを伝えてくる。
そもそも人間に対して害をなす恐れすらありうる。
生理的な嫌悪感を抱かずにはおれない存在。
虐待され、差別されて、苦しむ彼らを見ると、同情の念は湧くが、どうしても嫌悪感は拭えず、自分の中には差別の根源となる、異質なものを排除したいという意識が存在することを思い知らされる。
おそらく、本作で描かれている怪人たちを素直に快く受け入れようと思える視聴者は少ないんじゃないだろうか?
昨今はやりのダイバーシティとかいう聞こえのいいものに包摂されない被差別者の要素がそこにはある。

ここで怪人との共存を望む葵に焦点をあてたい。
彼女は、怪人たちと共に暮らすことによって周囲の人間からの差別的な眼差しを向けられる。
それだけではない。
怪人と共にあることによって過酷な運命が待ち受けている。
自らも怪人に襲われてしまう。
怪人に育ての親を怪人に殺される。
父親を怪人にされてしまう。
数々の悲劇に苛まれ、怪人の恐ろしさを、いやというほど目の当たりにする。
共存というイデオロギーと、差別という感情が彼女の中で、せめぎ合ったはずだ。
それでも葵は共存の道を諦めない。その信念の強さには感銘を受ける。
しかしその心根の強さを見込まれて、彼女は怪人へと改造されてしまう。
もはや人間の側には戻れない。
イデオロギーとして持っていたものが、自らの肉体とは切り離せない身体性へと変化してしまった。
己の心の有様に肉体が変化したという点で言えば、尊大な羞恥心と臆病な自尊心により、虎へと変貌してしまった隴西の李徴にもなぞらえられるかもしれない。

重信房子の再来

最後の闘いを終えると、光太郎も信彦も命を落としてしまう。
だが物語が終わりを迎えても、ゴルゴム党は滅びることがなく、怪人たちへの差別は依然続く。
葵の闘いも続く。
だがその闘い方は変わっていた。
最終話のラスト10分あまりの後日譚として描かれた場面で、葵はあらゆる差別に反対する人権活動家に呼びかけ、武装集団を組織していた。
ラディカルな武闘派路線にきりかわった。
この姿には落胆した。

武装集団を組織したのは、かつて信彦の犯した過ちと同じ轍を踏むことになる。
信彦は若い怪人たちを焚きつけ、暴力でゴルゴム党を潰そうとして多くの仲間たちを失った。
葵はそれとまったく同じことを繰り返している。
もはやかつて抱いていた人間と怪人の共存という志は消えてしまった。
武器を掲げているところから、既に差別撤廃などという生易しいものだけ、が目的でもなくなっているのだろう。
異なる考えには真正面から対決姿勢を見せ、決して融和の姿勢を見せようとしない頑迷な老人左翼活動家のようなメンタリティを体現してしまっている。
(人間の頃の葵が行っていたデモ行進も旧態依然とした老人左翼そのものだったが)

そもそも、この武装組織に象徴される赤軍派は日本の近代史の恥ずべき1ページだ。
安易なイデオロギーに流され社会を変革するという大義名分を掲げた連中が犯罪を繰り返し悲劇を生んだ。
そのおかげで多くの日本人が、市民の力で世の中を変革させるという手段を非理性的で愚かしいものだというふうに認識してしまった。

葵は自分の組織に引き込んだ少女が作った爆弾を見て
「飲み込みが早くて助かる」と声をかける。
最高にダサい。
まるで重信房子気取りだ。
葵たちが空にはためく旗を眺めて物語は終わる。
その旗は、闘いが終わることなく続くことを示している。
それは分断を煽る不毛な闘いのようにしか映らない。
このような終わり方をするドラマを手放しで称賛したいとは思わない。

民主主義を構成する隠れた要素

著名な人が口にすると炎上してしまうと思うのだが、民主主義を構成する隠れた要素には民衆の隠れた暴力があるだろう。
前段で武闘派路線になった葵を批判しておいて何を言うのかと思われるかもしれない。
だが民意を反映したシステムに権力者が従わないと、民衆がやがて権力者の牙城を取り壊す可能性すらある、というプレッシャーがそこになければ、為政者が言論や選挙システムを封殺するのは容易だ。
そして今の日本人はあまりに軟弱すぎる。
隠れた暴力など持ち合わせていない。
そればかりか権力に意を称えることすらしようとしない。
いかなる悪政も黙殺し、ただ権力構造に従い続ける。
そんな弱腰な国民性には、政府に数々の経済や内政の問題解決を遠ざけさせて数十年にも及ぶ不況を招いた責任の一端がある。
要は日本国民は国家に舐められている。
このままでは、いつまで待っても政府は根本的な問題解決を実行に移そうとはせず、国民の感情をガス抜きさせて、目先のスキャンダルを誤魔化すことに終始し続けるだろう。
だから、老人左翼たちの憤りもわからなくはない。
かつての日本人の中には国家や政府に反抗して、権利獲得や社会正義のために戦う人々がいたということを知らしめ、今の日本人がそれだけの気概をどこまで見せられるのか、本作、仮面ライダーBLACKSUNは問うているのかもしれない。

Long Long ago, 20th Century

しかし現実的に考えると、政府に対する姿勢や、政策へのアプローチの方法如何で問題が解決するようなことはないだろう。
経済や環境、国防に対しての問題に対し、実現可能な解決策を我々は有しておらず、それらを打ち立てられる見通しもない。
この国にはもはや緩やかな衰退しかないと言われれば、誰もが心から納得はできないが、明確に反論もできないだろう。
光太郎と信彦が抱いた、消極的な滅亡という思いは、もしかしたら日本人にむけられたものじゃないだろうか。

原作のOPが最終話の冒頭で流れるという演出があったが、どうせならEDのLong Long ago, 20th Century を流してほしかった。

https://www.youtube.com/watch?v=rdfBIXGcaMc

この曲は原作でもシリアスなシーンに入るとインストゥルメンタルで使用されていた。
本作の中でも信彦が息絶えた時などに流れると、涙を誘ってくれたのではないだろうか。

~まだ人の胸に温もりがあって、まだ海の色がコバルトの時代 古きよき時~

時代を経て聞いてみると、何かを暗示しているように思えてならない。


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