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サバンナの空はこれからも澄んだ青だといいなと思う(1)

この話はフィクションであり、架空の物語です。
いろいろ伝えたいと思った人たちに想いを伝えるかわりに。

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不思議な、不思議な保護区にいる動物たちのおはなし。


久しぶりにカラッと乾燥したサバンナに帰ってきた。日本といえば梅雨の時期に入るのに、このサバンナに来ると、少し熱気がある独特の風を纏った空気を感じる。

サバンナと言っても自然保護区の跡地に、である。飛行機を乗り継いで来ないとなかなか来れない場所。私にとっては、特別な場所でもある。

このサバンナには様々な動物がいる。彼らはお互いに会話する。種族や生まれた地域、特性が違うのに、会話ができるのだ。それだけではない。彼らは対話をし、衝突もし、内省もし、成長する。仲間を作っていく。絆を深めていく。

不思議な動物たちだ。こんな動物たちがいる森の一区画にかつて私がたくさんの動物と触れ合ったその自然保護区があった。

保護区は動物たちと触れ合う特別な場所


保護区といっても動物園のように檻があるわけではない。動物たちも保護されているなんてこれっぽっちも思っていない。ただ、集い、遊び、成長する。飼育員というよりは見守り役、と言った方がいい。そんな場所だった。

特別な場所。この跡地となった場所で、ある時期、私は動物を育てていた。まだ、観察者としても育成者としても未熟で肩に力が入っていたあの頃の自分を思い出す場所。若かった分、青空と炎天下の中で、動物に触れ合うのにも過分な熱がこもっていたことを懐かしくも感じる。そんな場所。

でも、この保護区は今はもうないんだよね


実は、この保護区は、もうない。森の所有者は、この森で特別な区分を切って保護することをやめてしまったのだ。

辞めたのは、お金や体制の問題ではなかった。特別な保護をする形で動物をケアすることがその後の動物たちの未来に本当に意味があるのかを保護するメンバーたちが迷ってしまったのが原因だ。そして、保護区を保護区たらしめようとすると、「維持する」という思想が生まれる。維持するために必死に動物を集めるという状態が発生しかねない。これは、摂理から見た時に動物にとって自然な形であるとは思えない。そんなことがこの保護区がなくなった理由であった。

また、私個人は、似たような保護を謳いながら、ただただ動物の活動を搾取しようとする同業が近づいて動物の手を引いていくことに辟易していたこともある。それは、業者として近づくことはなく、その動物園に入った動物が近寄ってきて快適とは言えない窮屈で残念な場所に連れていってしまうこともあった。なかには立派なリーダーがいて、より快適な場所を手にいれる動物もあった。それは個々のリスク管理の問題なのではあるのだが、保護していた動物たちは無垢で、そのリスクがわからない。逆にそういうリスクがわからないのに活発な動物をたくさん育ててしまっている、邪悪なオトナにとっての都合の良い保護区になってしまっているのではないかという苦悩も同時に抱えていたのもあった。

久しぶりにいった保護区の跡地でみた動物たち


なんだか歓迎してくれているように、すでに跡地となった保護区にかつての動物たちの顔が見えた。久しぶりに見た動物たちはみんな元気そうだ。

懐かしそうにじゃれてくるキリンやシカもいれば、相変わらず全然近づいてこないカンガルーやダチョウもいる。まぁ、育成していた私からすると、どんな性格の、どんな動物も可愛い。一様に可愛い。私はほんの少しの時期、育成を預かった身で、彼らの親ではない。だが、それなりに、その時期ちゃんと愛情を持って育ててきた。みんな、子どもたちのような大切な存在だ。

コロナの3年もありそもそも異国の動物たちには全然触れ合えていない期間が長く続いていた。もちろん、その間も動物たちはすくすくと育つ。

私が当時見ていた頃の動物たちは無力で不器用で小さな存在だったが、必死に生きようとしていた。

それが今はもう立派な姿になっていた。みんな成長していた。凛々しく、輝かしい。そういう姿をみて素直に嬉しかった。たぶん、笑顔しか出てなかったと思う。
どの動物もサファリパークに入れば人気者になれるような頼もしさがある。きっと保護区をはずれた自然の森でもそれぞれコミュニティを作りリーダーをしている動物もいるんじゃないだろうか。かつて怖くて夜道を歩けなかった小さな猪だったのに、今では大黒柱として自分の子供を引き連れているものもいた。

動物たちには傷があり、みんな悩んでいた


かつてあったこの自然保護区では、ある一定の成長を遂げた動物は、隣にある保護対象とされていないいわゆる普通の自然の草原や森林に戻されることになっていた。保護されている時にも危険はあるが、いつも誰かがケアしているような安心ができる場所だ。でも自然とは本来そうではない。狩りをしようとする邪悪な存在もあれば、危険な場所もある。命を守り、自力で生きていかなければならない。

そしてこの不思議な森の動物たちは普通の動物に加えて理性と知性があり感情がある。ちゃんと夢も見る。なので、自然の中で、自分の存在とは何か?何をするために生きているのかを悩む存在でもあるのだ。

これらの動物たちは、ちょうど人間の年の頃でいえば、18から25歳くらい。大人として扱われるが、成熟もしてなければ物事の本質とは何かを問われても全く何も答えられないような、ちょうど何者にもなれない時代の状態のものたちだ。

だからこそ自然の森に還された時にも悩み、もがく。保護対象を終え、前を向いて歩いていく動物も、元気な時もあれば心が折れかける時もある。

かつての保護区には、ほんとうにたくさんの動物がいた。迷い込んでくるものたちもいたが、保護が始まって数年もすると多くの動物たちが自発的にやってくるようになった。そしてここの保護区に集まってくる動物たちは、不思議と、どこかに傷を負っているものが少なくなかった。

ハンターに追われ傷つけられたサイ、群れからはみ出てしまったバッファロー、道に迷ったリス、親鳥に突かれ巣から落とされた雛鳥。ボスと喧嘩をして負け、群れから追われてしまったサルもいた。そうそう、気持ちよく泳いでいたらいつの間にかこの保護区に紛れ込んだシャチもいた。

初期の保護地区には、やんちゃで野生味のあるパワフルな動物も多かったが、保護が始まって時間が経過すると、この傷ついた動物たちが増えていった。傷といってもわかりやすいものではない。取るに足らない、と切り捨てることもできる小さくて、たくさんの傷だ。本人たちですら気づいていない傷があるものが多かった。

多くの動物は、物理的な傷よりも心理的に傷ついているように見えた。目に見えて怯えているアルパカやラクダもいたが、一見しては普通に見える羊やシマウマも、いつも不安そうで、正解を求めていた。人間でいえば、自己肯定感が低い、というのだろうか。若く、未熟な動物なんだから、本来、もっと自由で、輝いて、堂々と生きていけばいいのに、それができないでいる動物たち。なぜかいつも何かに追われ、窮屈そうな動物が多かった。

保護区に来たときには、多くの動物が、相対的に幼い。これ以上傷付かないように、それを悟られないように、必死に虚勢を張っているのだが、慣れてくると、弱く寂しい存在であることが滲み出ていた。辛さで潰れそうな動物もたくさんみてきた。

かくいう私は、かれらと触れ合いながら、自分が大人になる成長をもらっていたくらい未成熟だった。私と動物たちが入れ替わってもおかしくはない、そして自分が18歳のときに分別なんてついていないことを思えば、よくそんな奴が彼らをケアしていたとも思う。

動物らしさとは何か?に悩む動物たち


動物の中にはとても学習能力の高いものもいて、新しく入ってくる動物を進んで受け入れ進んでコミュニティを率いる賢い動物たちもいた。しかし、賢いとはいえ、彼らもかつて傷を負いその傷が癒えきらぬまま、まだまだ未熟な存在である状態だ。彼らは彼らで、苦悩していた。自分たちも十分に成熟してない状態で、種族の違う動物たちを仲間にして元気にしようとすると、うまくいかない。

当時、森の動物たちからはよくサインをもらった。サイは「自分たちは無力で、全然思うようにいかない」と嘆き、羊は「自分が何者なのかわからない」と泣き、キリンは「どうしたらいいんでしょうか」と答えのない問いをずっと考えていた。

…いまでもこの保護区を残したおいた方がよかったのか、解放して自然の森に戻した方がよかったのかは結論がついていない。

いろんなことがあり、私は今はサバンナでの特別な保護区の保護員はやっていない。

だが今も、傷ついたり不安で怯えている動物の世話をしている。昔からずっとしている。もう20年にもなる。

保護区は無くしてしまったが、そのかわりに世界中の別の森の中に直接出かけていって、声をかける。そうやって歩いていると、かつての動物たちのように傷ついて動けなくなっている動物たちがたくさんいる。

いや、今の方が幼い動物たちは傷ついて怯えているかもしれない。私は、保護区という特別な敷居をつくらずに自分が動き、自分の足でできる保護活動をしている。

でも久しぶりに仲間に触れ合うかつての動物たちをみて、あぁ、やっぱりどんな状況であっても場を作っておくことは大事なのかもしれないな、と改めて思ったのだった。


次に続く





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