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ひとりの練習、誰かといる練習

月日は百代の過客であるとして、その中でわたしは生きてるうちはまあ生きている。ある期間だけの生命である。呼吸をする。右手を上げたりする。酒の香りを嗅いだりする。全部が全部練習中であり、また本番であるような気がしてくる。試しにこれをやってみるか、というけどその試しはまさしく本番であって試しのための試しなんて1秒もない。そういう風に考えると息が詰まってしまうのが性なので、最近はそういう真剣さが混じった話からは遠ざかるようにしている。生来自分なりに生きてきた真面目さが重くなって、ちょっと休憩中。というかこれもまた本番なのだろうか。本番です。不真面目に本番を生きている。それくらい現実と距離を置かないと、どうにもなんにも続かない気がしてきた。首を絞める真面目さ、きちっとキマったネクタイを見ると少しぎょっとすることがある。もちろんかっこいい…!的なときめきも少しは混じっているのだと思うけれど、どうにもキマりすぎたそれは極まりすぎた何かを思わせる。窒息。酸素がない。死んでしまう。ちなみにキマリは御存知の通り、角なしである。

毎日あれこれ考えてクソ蒸し暑い中相変わらず何かを洗ったり干したりしている。ひとりで何かを干している時が一番気楽かもしれない。すこしだけ太陽光が注ぎ込む薄暗い踊り場の物干しに、わたしは真っ白な布を干している。床につかないように干している。もとより几帳面な人ならば一息にこなしそうな業務だけれど、もとよりそんなことはどうでもいい、シャツのシワに目くじら立てて眉間にシワが寄るのを避けたい質である。その割に三十路前にして眉間に稲妻型のしわがある。いつ出来たかわからないけれど、きっと生まれてすぐの頃に親が悪い魔法使いと戦った結果生まれたのではないかろイギリス発のファンタジーを観てそう感じた。親は死んでいない。60目前にして「フラメンコをはじめるんだ」と息巻いていた。息を切らしてステップを踏んで「アバダ・ケダブラ」とか叫んで踊るんだろうか。誰か死人が出ないといいなあと影で祈っている。祈っているよ。

家族から離れてひとりでいる時、正確に言うと今日最後の干し物を床に落としそうになった時、「そうか、今自分はひとりでいる練習をしているのかもしれない」と思った。何を言っているのか自分でもよくわからない。ひとりで干してるんだから練習も何もなく、別にすごいことはなにもなく、ひとりなだけだ。けれどもそれに何だか感動してしまって、窓の外の雲を見て笑顔になった。これは考えすぎて当たり前のことがなんかすげえってなるやつだ。それは3日に1回位あって、気づいた瞬間「なんかすげええええ!」って思うのだけれど、魔法が解けて数秒、振り返って「わたしは一体何に興奮していたのだろうか」と賢者のごとく洞察するのである。多分その瞬間にポケットに手を突っ込むとズシッと重い石ころが入っているのでないかと思う。突っ込んだことはない。なぜなら千年万年生きたくはないからだ。賢者の石は要らないから、なんかきれいな石ころでも拾って息子にプレゼントしたい。石ころや木の棒や木の葉をこよなく愛するちっちゃな生き物なのです。宝石というやつなら息子にはまだ早いから、妻にプレゼントしたい。ヒスイとか、いいね。

(全体的にハリー・ポッターを知らんひとにはまるでワケワカメな文章になっていることを今更おことわりして、今日は終わりますね。)

↓栃木は小林酒造の鳳凰美田です。美しく艶やかな香り、なめらかな質感、舌を魅了してやまない甘旨さが特徴的なお酒。実に甘美。藤山寛美。親しみやすく鮮やかな香りは酒ファンの心を捉えて離しません。少々前にとてもいい香りがするお酒が日本酒全体で流行り、まあ香り香ってさあ大変な酒が跳梁跋扈したのですが、多くのそういうお酒は冷やして飲む一杯目だけがおいしくて、あとはマジでさあ大変って感じでした。香りが強いと反動で甘ったるく感じ過ぎたり、オイリーで山羊チックな香りが漂ったりして大変なのです。強い個性は何らかの形でバランスを取って初めて優れた特徴となるのかもしれませんね。

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このお酒は開けてからしばらく経ってもその甘美さが色褪せることがありません。-5度以下で管理されている場合を除いては、あんまり長期保存はやめたほうがいいかもしれませんが。ゴージャスな葡萄風呂に使っているようなセレブリティー感が味わえます。ちなみにお酒を搾る前の固体(米)と液体(アルコールや水など)がまじったどろっとした状態を「醪(もろみ)」というのですが、鳳凰美田のその醪は、なんとファンタグレープの香りがするらしいよ。不思議ね。


酒と2人のこども達に関心があります。酒文化に貢献するため、もしくはよりよい子育てのために使わせて頂きます。