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働くこととお金の話。

私は人事部に所属し、給与計算や報酬設計、その他福利厚生プランの提案・運用を担当していますが、正直に言うと今でもお金の話は苦手ですし、好きじゃありません。よく日本は欧米に比べてお金に関する教育や認識のレベルが高くないといった話を聴きます。私は海外留学や就労の経験が無いので海外の事情は分かりませんが、私自身はそう言った認識の薄い、金融情報弱者であることを自認しています。子供時代は何となくお金のことを考えたり執着することは何となく悪いことと思っていましたし、だからこそ社会人なったと途端に会社から財産形成、保険、持株会、そのほかにも保険のセールスの方に勧誘されたり、低利での車のローンの話をされたりといきなり環境が変わり、うろたえました。まして自分は福利厚生担当なので、社員に説明をしなければなりません。興味がなく、知識もないことをいきなりしなければならないことに、多大なストレスを感じましたし、これは自分のやりたい仕事ではないとすぐに思いました。(もちろん後程思い直して現在に至ります。)

お金とは何かというテーマは広すぎますが、そもそも給料とは何なのでしょうか。大きな疑問ですが自分はこの疑問についてずっと考えてきました。そして今、明確な解はまだ持っていません。ただ議論の糸口はいくつか持っています。労働局が所管する労働保険関係において、給料は賃金と呼ばれます。(細かい説明は省きますが、税法上は所得、社会保険上は報酬と呼ぶことが一般的)そして賃金は労働の対価という表現がなされます。うーんよくわからん。それでは労働とは何か。労働保険上、役員は労働者ではない、と考えると、労働とはやはり誰かの支持を受けて提供するサービス、もしくは直接的な価値提供ということができるでしょう。経営者や一部のフリーランスのしている仕事は労働じゃないのに、使用人のしている仕事は労働。と考えるとやはりどちらか問うとネガティブなイメージに結び付けざるを得ません。誰かの指示の元、自らの意図にかかわらずやっているもの、それが労働でその対価が賃金、それが給料。やや強引ながらそのロジックは成り立ちそうです。でも本当にそうでしょうか。これがだれにでも当てはまるかと言えば、答えはノーでしょう。

全員が全員そうでないとはいえ、給料は仕事をする上での主目的としていない人が世の中には存在し、得てしてそのような人が高収入を得ていることは皮肉な事実かもしれません。私自身も高収入ではないにせよ、マックス・ウェーバー的文脈における天職(職業的召命観)を信じています。簡単に言えば、みな天職を持っていて、これを追求することは神の救済と矛盾しないということでしょう。つまりはお金やその他世俗的価値観のためだけに働いているわけではないということです。

こうした思考の結果、やはりお給料そのものはマズローの欲求階層における衛生要因に過ぎないと私は思っています。だからこそ、また不思議なことに一方で報酬体系は実務の実現性を確保しつつバラエティを持たせるのがよいかと思います。スタートアップにありがちですが、基本給だけの年俸制なんかのみで応対すると、お金のリアリティーだけが浮き彫りになってなんだか居心地が悪くなります。報酬体系はバランス、コスト、多様性、平等性、透明性、オペレーションコスト、コンプライアンス、企業文化、投資性などなど考える要素が多くて面白い分野でもあります。

結論、何が言いたいのかと言えば、お給料、特に基本給ではなくボーナス部分について、特定の「労苦」に対して報酬を与えるという設計にしてしまうと、必ず労働者性を強調することになり、仕事を労働、主体性より従属性という要素が強まり、これが内発的モチベーションを破壊しかねません。苦しい思いをしたり、指示に完璧に従うとお金をもらえるという概念は絶対に毒です。会社も社員も得をしません。思考停止の組織では優秀な人は生きていけなくなってしまいます。報酬体系、特にボーナス体系には十分注意が必要です。


#働く #お金 #給料 #金融

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