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あの日見た花の名前を僕達は「もう知っている。」

どうも、SaRです。

暑さは全く落ち着く気配を見せないまま、暦の上では夏が終わろうとしています。僕は正直、夏が好きではありません。正確に言うと、汗をかくと身体が痒くなるのが苦手です。

夏休み、夏祭り、花火、海、ポルノグラフィティの「ミュージック・アワー」、一夏の恋、かき氷、水まんじゅう、etc…。そういういわゆる夏から連想されるものというか、「夏という概念」に含まれるものはだいたい好きです。しかし、そういう様々な夏の風物詩たちには、ほぼもれなく「汗=痒い」がセットで付いてきます。その上、誰しもが経験するであろう、苦い夏の思い出なんかもあります。そのため、ストレートに「夏が好き!」とは言えません。

今年の夏は、コロナ禍の影響で仕事も在宅になり、そこだけはありがたいことに通勤だけで汗だくになることはほとんどありません。しかし、なんでしょう、夏の間ずっと家から出ず部屋にいると、仕事はしているし、汗はかきたくないのに不健全なことをしているような、妙な罪悪感のような感覚を少し覚えます。

その夏の罪悪感と結びついたのか、ふと「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」を見直そうと思いました。言わずと知れた夏アニメの傑作中の傑作です。

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2011年の放送当時もリアルタイムで観ていましたし、感動もしました。スペシャルOA版も観て、劇場版も映画館で観ました。しかし、正にモラトリアム、人生の夏休みである大学時代を謳歌していたあの頃とは、感じることが全く違いました。

エンディングテーマの「secret base」で歌われている「10年後の8月」ではなく「9年後の8月」ではありますが、感じたことを書いていきたいと思います。


岡田麿里さんとじんたん、そしてめんまへの共感

「あの花」の脚本を書いたのは、岡田麿里さん。昨年公開された『空の青さを知る人よ』や、初監督作『さよならの朝に約束の花をかざろう』、ドラマ化も控えている『荒ぶる季節の乙女どもよ。』など、数々の傑作を世に送り出している稀代の脚本家です。

岡田さんは、「あの花」をはじめとして、「ここさけ」「空青」の「秩父三部作」でご自身の地元の秩父を舞台にしています。著書『学校へ行けなかった私が「あの花」「ここさけ」を書くまで』では、学生時代を中心に、地元への鬱屈とした思いも率直に綴られています。

『ぐるって山にかこまれて、息が詰まるんだよね。ここから、逃げらんないって気がする』

僕も、自分自身の地元に対して、似たような思いを持っていました。以前別のnoteでも、地方という小さいコミュニティでの他者の目線について書いたことがありますが、地元で居心地の悪さを感じている時期がありました。ここではないどこかへ、と言う考えが常に心の中にありました。

そして、願い通り上京して就職した現在。年々地元に住んでいた頃に感じていたような疎外感は薄れており、このコロナ禍でしばらく帰れてはいませんが、盆暮れ正月には帰省しています。ここ数年で学生時代にはあまり仲が良くなかった、地元でそのまま就職した友人たちと、帰省した際に飲みにも行くようになりました。

でも、ストレートに「地元が好き!」とはなかなか言えません。そこには、落ち着く実家も楽しかった思い出も沢山ありますが、同じくらい居心地が悪かった思い出も詰まっている、複雑な土地です。

岡田さんは、著書の帯でも、

ひきこもりのじんたんが 近所の目を気にするのは 私の経験です。

と書いています。僕は引きこもりだったわけではありませんし、週間単位で学校を休んだことはありませんが、仮病でサボったことは、正直一度や二度ではありません。

周りの大人たちの中には、見抜いていた人も居たとは思いますが、僕は当時、仮病を使うのが少し上手かったようです。皆勤賞は欲しいがため、完全に1日休んだりはせず、早退ばかりするという姑息さもありました。小中学校の同級生には「よく早退するちょっと身体の弱い子」だと思われていました。実際は、本当に具合が悪いことは稀でした。

別にいじめられていた訳でもないのに、学校が無意味に思えることがしばしばありました。誰かをハブにする、みたいなものも学校ではあって、当時はリーダー格ですらターゲットになって、それは次々に移りゆくものでした。そういうことに疲れていたのかもしれませんし、「ハリー・ポッターの新刊が読みたい」みたいな理由でサボったこともありました。

早退する日の帰り道は、当然ですが他に下校している子も居ない真っ昼間。人通りがほとんどない地元を一人で歩いていると、普段とは別の場所のように感じました。そしてそういう時が、自分が地元に属していない、異物であるような感覚が一番強まるタイミングだったことをやけに鮮明に覚えています。

「あの花」で、じんたんが高校受験に失敗し、思い描いていた未来とは違う引きこもり生活を送っている姿にも、自分自身を重ねて観ていました。僕が失敗したのは大学受験で、最終的には3年次編入制度で、浪人することも、同級生が年下ということもなく、志望する大学に入り、卒業することが出来ましたが、それでも一度は全く別の学校に通っていました。

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その頃、目を背けていた「自分の居るはずだった場所はここじゃない」という、結局は自分にしか向けようのない鬱屈とした思いは、今だからこそ俯瞰することができます。

劇場版では、実はめんまも、「ガイジンでノケモンだった」というエピソードが語られます。当時「あの花」を観ていた僕は、じんたんのそういう気持ちや、めんまにも共感していたのだと気づきました。


互いを「大好きだけど大嫌い」な超平和バスターズのみんな

僕は、岡田さんほど、人の抱えている後悔や、目を背けたい気持ち、悩みに真正面から向き合っている作家を知りません。岡田さんが描く、それでも人間が、泥臭くとも足掻く姿は、他の作品にはない輝きがあります。

「あの花」では、じんたん含め超平和バスターズのメンバーみんなが、めんまが亡くなってしまった「あの日」に囚われ、互いに複雑な思いを抱きながら生きています。

特にゆきあつの嘘がバレる4話「白の、リボンのワンピース」から5話「トンネル」にかけては、前半のハイライトです。

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正直、僕は放送当時、何かにつけてじんたんに絡んでくるゆきあつを鬱陶しく感じていたこともあり、女装がバレたシーンでは、彼を嘲笑するような反応しかしていなかったと思います。

しかし、改めてこのエピソードを観た時の僕が感じたことは、全く違いました。

もう一生叶うことのないめんまへの想いと、自分がめんまを殺してしまったという後悔を、ゆきあつがずっと抱えて生きてきたということ。

そして「化けた姿でもいいから、もう一度めんまに会いたい」という悲痛な願い。大好きだったからこそ、「あまり騒ぎ立てないでくれ」なんてめんまが絶対に言わないことを、「俺の所に現れためんまが言っていた」と吹聴し、自分が一番虚しいことをやっているという事実。全部ゆきあつは気付いてるんです。

そんなあまりに痛々しい、ゆきあつが胸に抱えて来た気持ちを感じて、僕は涙を止めることが出来ませんでした。

6話「わすれてわすれないで」でも、ゆきあつは「腹立つんだよあいつ」と、じんたんへの思いを語っています。

高校のレベルも、なんやかやのステータスも、今じゃ全部俺の方が上なのに、あの頃みたいに、あいつに振り回される。

8話「I wonder」では、めんまが現れていることをまだ信じられず、

頼むからやめてくれないか。めんまが謝ってるなんて、そんなの嘘だ。めんまが俺たちを許すわけないんだ。

と泣きながらじんたんに懇願します。

あの頃のじんたんへの憧れと、それと同じくらい強い反感、「今は俺が勝ち組のはずなのに」「なぜじんたんの所にしかめんまは現れてくれないのか」という嫉妬と焦り、そしてそれ以上に、ゆきあつがどんなに自分を責めてそれまで生きて来たかという、悲しい事実が浮き彫りになっていきます。

「あの花」では、ゆきあつのじんたんへの思いだけでなく、友達と仲が良くなればなるほど、相手の自分にない面を妬んでしまい、好きだと同時に嫌いにもなる気持ちを巧みに描写しています。

ゆきあつに反発しながらも、彼の理解者であるあなるが吐露する、「めんまが大好きだけど大嫌い」という気持ちも同様です。あなるが、めんまがゲーム機に貼ってくれたお揃いのシールを、一度剥がしてまたテープで付け直しているというような、細かい描写にもそれは現れています。

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8話で、めんまのために打ち上げ花火を上げる資金調達のため、倒れるほど無理をするじんたんを見て、あなるも本当の気持ちをじんたんに告白します。

行っちゃやだ…やだ!あの時だって、ほんとは行って欲しくなかった。
あの時、ほんとは私、ホッとしちゃったんだ。めんまのこと、じんたん「好きじゃない」って言った。私最低だけど、ちょっと嬉しかったんだ。でも…あんな風に行っちゃったら、「めんまが大好きだ」って、言ってるようなもんじゃない。あれからずーっと痛い。あの瞬間、嬉しくなっちゃった自分が許せなくて、めんまを傷付けて、あんなことになっちゃって…じんたんを、じんたんを好きだった自分が許せなくて…

最終話「あの夏に咲く花」で、完成まで漕ぎ着けた打ち上げた花火でもめんまを成仏させられなかったことで、遂に全員がうっすら気付いていたことと向き合います。そう、めんまのためと言いつつ、自分自身のことしか考えていなかったという事実です。

それまで一歩引いたところから意見していたつるこも、遂に思いをあなるへの嫉妬をぶつけます。そして、陽気に振る舞っていたぽっぽも、自分がめんまの死の瞬間をただ見ていることしか出来なかったという、拭きれない無力感と罪悪感を語り、ここでやっと全員が心の内を吐き出します。

みんなあの日に囚われたまま、大好きだっためんまに、そして大好きなみんなに、それぞれ嫉妬や劣等感、罪悪感を抱えていました。

しかし、それは自然なことだと僕は思います。僕が夏や地元に関して思っているような、物事に対して、なかなかストレートに「好き!」と言うことが難しいことは往々にしてあると思います。

こと人に関しては特に、純度100%の好きなんて、そうそうないと思います。

大好きな家族でも、性格に嫌いなところがあったり、大好きな恋人でも、どうしても直して欲しい癖があったり。人への気持ちというのは、「好きか嫌いか」の二元論ではなくて、本当はとても曖昧なもので、人の数だけ違って、でもストレートな好きだけでないからこそ、簡単には割り切れない。だからこそ、本気で向き合って、色々ひっくるめてもそれでも「大好きだ」と思えるなら、それが一番大切な気持ちなんだと思います。


めんまが「あの頃のまま」であることの意味

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めんま自身の性格もありますが、あの頃の幼い少女の心のままだからこそ、じんたんたちが向き合うのをやめてしまった事実や、希薄になってしまった関係、胸の奥底に隠していた思いに「なんで」「どうして」「みんなが仲良くないなんてそんなの嫌」と、素直な気持ちをぶつけていきます。じんたんも、そしてみんなも次第にその思いに突き動かされていきます。

しかし、めんまが外見だけ成長して、心はあの頃のままで現れたのはなぜだろう、と疑問が浮かびました。あの頃のまま現れるのであれば、外見もあの頃のままでも良いのではないでしょうか。

一つは、やはり、「みんなが成長しているのに、自分は死んでいるとはいえ幼い見た目のままなのは嫌」という少女らしい思いもあると思います。

また、「じんたんたち超平和バスターズのみんながあの日から解放され、また昔のように仲の良いみんなに戻って欲しい」、「これからも自分を忘れないでいて欲しい」、そして、じんたんの母から託された「じんたんにもっと泣いたり笑ったりして欲しい。じんたん絶対泣かす!」という、未来への願いを抱いていることが理由だと感じました。

そして、めんまは「生まれ変わり」を信じています。10話「花火」で、じんたんに「成仏しなくたっていい。このままずっとここに居ればいい。」と言われためんまは、

成仏、しますよ。あのね、生まれ変わりだよ。成仏しなかったらね、それ出来ないもん。みんなとちゃーんとお喋りできないもん。

と答えます。そして最終話のラストで、めんまもさらに本音を叫びます。

めんまね、もっと、みんなと一緒に居たい!もっとみんなと遊びたいよ!だからね、生まれ変わりする。みんなと一緒…なるの…。だから、じんたん、泣いたよ…お別れしたよ…だから…

もちろん死を受け入れるという意味もありますが、めんまの願いは、未来への願いです。「みんなのことが大好きだから、生まれ変わってもまた会いたい、一緒に遊びたい。」という、めんまの純粋な気持ちがそこには込められています。めんまの純粋さと、「じんたんの、そして超平和バスターズの未来を願う」という気持ちが、めんまを幼い少女のままちょっとだけ背伸びさせたのではないかと思いました。

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あの日見た花の名前は

この作品のタイトルで示されている「あの花」であり、秘密基地の近くや、めんまが成仏する時に足元に咲いている花。そして、スペシャルOA版と劇場版のオープニングだった、Galileo Galileiの「サークルゲーム」の歌詞の冒頭にも登場するのが、忘れな草の花です。

これだけ花に触れられているのに、僕は放送当時、忘れな草について当時はなぜかあまり気にしていませんでした。今回改めて調べてみると、その花言葉は、「私を忘れないで」「真実の友情」。そう、めんまの願いです。

最終話で、めんまは最後の力を振り絞って、みんなに手紙を残します。過去に囚われたままだったみんなは、許しを、めんまの言葉を待っていました。それがラストで叶います。

みんなが互いへの想いを本音でぶつけ合い、ぶつかり合い、後悔や他に抱えている想いはあるけど、それでもやっぱり「めんまのことが大好き」「みんなのことが大好き」という想いを伝え合うことで、超平和バスターズは、再び「真実の友情」で繋がります。

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超平和バスターズのみんなが泣きながら思いを叫ぶように、岡田さんの作品では、自分の心の中だけに抱えて来た思いを曝け出し、ぶつけ合うシーンが、非常に多いと思います。魂を削って書いているような、気概を感じます。

だからこそ、岡田さんの作品を観ている時や、作品のことを考える時、自然と自分自身と向き合わなければならない、というか向き合わざるを得ない。そうでなければこの想いはただの上澄で、本物じゃないとすら感じます。

そして、僕はやはり、自分自身と本気で向き合って、誰かと本音をぶつけ合うことでしか生まれないものがあると信じています。

それはこのコロナ禍で、自分自身と向き合う時間が自然と増えた一方、人との繋がりを希薄にすることが容易になった今だからこそ、より強く感じていることでもあります。必ずしも喧嘩をするとか、涙を流しながら心の内を曝け出すとかに限らず、自分が思っていることを、相手に伝える努力をするということです。

振り返ってみると、2020年に入ってからは、自分の大切な身の回りの人たちとは、むしろそういう本音をぶつけ合うシーンが非常に多かったです。喧嘩や涙は、本音に付随してくるものであって、メインではありませんが、泣きながら本音を吐露されたこともありますし、怒鳴り合いの大喧嘩もしました。でも、一つも後悔していませんし、そういう人たちとの繋がりはより強くなりました。

心の内を曝け出すこと。それは他者と向き合うと同時に、自分自身のうちに抱えているものと向き合うことでしか、引っ張り出すことは出来ません。とても疲れることです。自分や相手の好きではないところと、向き合わなければならないこともあります。

でも、そんな複雑な思いを抱える人間だからこそ、本気で向き合った先に得難いものがあると、信じています。そんな想いに、「あの花」は改めて気付かせてくれました。自分の中で、もっとずっと大事にしていきたい作品になりました。

今年は、アニメ放送からは9年後の8月。コロナ禍のような、予想できないような出来事も起きる世の中です。それでも、10年後の8月にまた「あの花」と出会えることを信じて。

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※画像引用元

「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」公式Twitterアカウント

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