見出し画像

幽霊

下宿屋の左を曲がって路地のつきあたりに小さな池がある。溜池の名残だ。緑泥に淀んだ水面には周囲の白壁がぼんやりと映し出され、かすかに月影が光る。前々からこの池がなんとなく気になっていて、つまり好きだった。思い出の香りがする。

深酒をして終いの電車を降りふと歩きたくなった。下宿屋を中心としてぐるりをぶらぶらする。三日月の輝きが瞳孔に突き刺さって俯く。飲みすぎてしまった、と販売機の前で小銭をまさぐる。缶を額に当て、足取りは弧を描く。通りすがりの男が嫌な顔をしたので、悪態を突こうと振り返ると、

女が立っていた。

鼻から上がよく見えないが、たしかに女だ。白装束だということはわかるが、洋装に見えなくもない。額に缶を打ち付けて、手を下げた。こんなところにこの時間、何をしているのだろう。顔が軽く動いた。会釈したのかもしれない。私は見つめていることに気づかれたと、再び前を向く。一区画くらい歩いて道路ギリギリまで建つ真新しい家の脇を曲がる。月明りを背に影がのび、その先に目をやると、そこにまた人影が佇んでいた。

男が立っていた。

鼻から下がよく見えないが、たしかに男だ。黒スーツを着ているらしいが、和装にも見える。額に缶を打ち付けると空だった。ぽかんとした音が伝わったらしく、顔がゆっくり動く。夜道で知らない男に挨拶されるのはいい気がしない。気づかなかったふりをしてゆっくり、円を描いて後ろを見る。

顔の前に顔がある。血の気が引いた。

白木の盆のような女の顔があった。鼻から上が逆光で見えない。知らずのうちに後ずさりしている。女は和装か洋装かわからない服で威圧する。足なのか影なのかわからないものでゆっくりと私の進路を遮り振り向くことを促す。飲みすぎたのだ。これは幻影だ。溜息をついて気軽に振り向くと、

黒檀の盆のような男の顔があった。鼻から下が私の陰で見えない。ぐっと寄ってくる顔をすんでに避けて、声が出た。路傍に飛びのく。足元が滑り、あおむけに傾いて、私は寸時宙を舞った。ぬるりとした闇に落ちる前に私は見た。白い女と黒い男が正面からぶつかり、爆ぜた。あとには赤ん坊のけたたましい笑い声が残った。

うっ、と吐き気がして、腰までしかない池の中に吐いた。ずる、と音がしたので上を見ると古屋の窓が開き、爺さんがこちらを見ている。「何かあったか」

怒るでもなく心配するでもない老人を見上げ、今見たものを告げる。「そうか」

爺さんの顔が盆のようになるのかと思ったが雨戸がぴしゃりと閉められ、それきり深夜の闇に消えた。だがこのようなことは珍しくないのだろう、と思った。このようなところには住んでいられない、とも。

立ち上がり池から足を引き抜くと、草に足を取られながら道に上がる。月は雲に隠れた。まっすぐ帰ろう、水浸しの鞄からヘッドフォンを出して付ける。と、

右耳側が外された。

「わしの両親はあの池に身を投げた。わしは死んだ母親の腹からなんとか取り出された。もう300年にもなる。」

頭を殴られたようにふらふらで、その声は先ほどの老人と同じであったが、池の周りは新興住宅で古屋なんてないはずだし、もう老人もいない。池に魅入られたということなのか。。

どうやって帰ったかは記憶にない。

翌日そこへ行くと池すらなかった。

水泥と思っていたのは緑色のアスファルトの駐車場だった。吐いた跡があったのでそそくさと掃除しながら首を捻った。ずっと誤っていた。とうぶん酒を飲むのはやめよう。帰ろうとしたとき、視界に入ったものがある。駐車場の隅に転がされている石の塊だ。近寄ってみると、それは古い石地蔵だった。ぼろぼろに欠けていたが、子供の姿をして、何々童子、と戒名がある。これが身二つにされた赤ん坊なのか。勝手に動かすのもあれだが縁を感じて立てようとする。

ずる

下から何かが這い出てきた。緑色に輝く蛇は、声をあげる間もなく遠くに行ってしまった。気味が悪いと思うも石仏の裏に目をやると、丁度300年前くらいの年号がある。なんとなく、立てようとした石仏を元に戻してしまう。立ち上がると、すーっと先ほどの蛇が戻って石の下に入る。

これがあの爺さんなのかもしれない。そしてここは本当に池だったのだろう。

二度と来るまい、と思って後にした。(1993)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?