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熱病 その他

断片「生きながらの死」
 頭はおもく 手足は疲れはて
 わたしを動かすもの それは命ではない
              ~シェリー

喉の奥から熱い鉄塊がこみ上げ、頭がぐるぐる回って止まらない。錐で突いた痛みがこめかみを三秒おきに襲ってきて、胃がきゅうと鳴るのに吐く事もできない。涙が流れ止まらず布団に染みて、頬と布地がくっついた。左目は布団の左端を捉えたままで離すことができない。布団の端は壁と壁の間にくっついているから、つまりは部屋の隅を見つめているのだ。今にも止まりそうな肺の動きを維持するために、ただただ胸を漕ぐ。

ぐう、と喉が鳴る。

布団と部屋の角の間に、数センチの人間が立っていた。

余りのちいささにそれがどんな格好をしているのか、目鼻がどうなっているのか、見分ける事ができない。小人は布団によじ登ると、こちらに向かって近づいてくる。身動きがとれないうちに、足音だけがどんどん大きくなってゆく。

さ、し、さ、し、さ、し、さ、し、

喉が締め付けられるような心持ちがして、また、ぐうと音が出る。

太った男が、同じ隅から顔を出した。丸々と突き出した頬は桃のような柔らかい色をしている。壁と布団の間を押し広げると、くびと笑う。そして壁に沿って、私の足元の方へ移動していこうとする。だが布団に腹が突かえて中仲進めない。無様で情無く、にやにやにやつく顔に脂汗が滲んでいる様も凄まじい。やがて油汗が弾け飛んできて、卵の腐ったような匂いが漂いはじめ、堪らない。動けず喋れない私は只耐えることしかできない。

苛立たしさに頭が震える。と又ぐうと喉が鳴った。

いつのまにか頭上の壁面に、小さな穴があいていた。上目遣いに見上げると、そこから赤ん坊のようなものが顔を出している。暫く周りを見回していたが、突然うきゃと笑う。そして這い出そうとした。

あぶない

と思う間もなく落ちる。ぼて、と枕の前に仰向けになった肉塊は、ああ、と大きな声で泣くようだ。

あああ、ああああ、あああああ

部屋中が赤ん坊とも猫ともつかない叫びで満たされていく。ああ、近所迷惑を考えると、どきどきしてしまう。

 いつのまにか部屋じゅうが、小さな赤ん坊に満たされて、うごめく肌色の床、鼻を突く乳臭。

あああああ、ああああ、あああ、ああ

…ぐうと、喉が鳴る。

消えた。

右の方から、水の流れる音がきこえ始めた。さあ、さあ、と。

さあ、さあ、さあ、さあ

そのうち老いた船頭が、昔の小舟に一本櫓で、視界のうちに漕ぎ出してくる。

水面は奇麗な銀色の粒に覆われて、時折魚が跳ね浮く様がなんともいえずに懐かしい。

 船頭は、ほうい、と言った。

たまらず、ほうい、と返すと、

満足気な笑みをうかべ、

うん、うん

と二度うなづいた。

ゆっくりと、漕ぎ去ってゆく。

土手を流れるささやかな風は何かしらの甘くやわらかい香りを運んできて、芽吹いたばかりの黄色い草草を撫でては消えてゆく。

ぴいいひよおおおお

夕凪の空から滴り落つ声を遠く聞く。真っ赤に煮えたぎる夕陽が雲を茜色に染め、名残惜しげにいつまでも沈まない。全てが止まってしまった時の中にあって、ひとり口ずさむ歌があった。歌詞は良く分からないが童謡のような他愛の無いものだ。唄いながらやがて平安の翼が舞い降りてくるのを感じた。柔らかく優しく包み込む暗い地の底へ、私はゆっくりゆっくりと、沈み始めた。

ほうい。

徐々に薄らぐ夕景に身をゆだね、去り行く朱鷺色の雲をとおく見上げながら、ふとあの太った小人の汗ばんだ頬を思い出した。

1999/6

ひとつめ

へんに行儀のよい子供だと思っていたらこの世のものではなかったのだ。額の中央に人の倍ほどもある目玉をつけてしげしげと私を見ている。

「その鳥」

私の肩にはセキセイインコがいる。これももう6年も前に死んでいる筈だが、子供には見えるらしい。インコは一ツ目の指先にたわむれる。一ツ目は嬉しそうに鳥をつかまえようとする。可愛相なので左手で制するとやにわに駄々をこねはじめる。うるさいと一喝すると今度は大目玉いっぱいに涙をうかべ、箪笥が飛んで電灯がはじける。しかしこの鳥を遣る訳にはいかぬ。翌日私は小鳥屋で小さな籠を求めた。その中に卵を一つ入れると、寝室の隅に置く。果たして一ツ目は興味津々だった。

「かえるの、かえるの」

かえしてごらん。私は笑った。だが無精だからかえるはずもない。

それから三年。今も夜半になるとかすりの着物を着た大頭の子供が、からからの卵を覗き込んでいる姿がみえる。

(1999/10/18記)

はじめに過労長期療養に入った時期のものです・

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