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他者と自分 〜共働すれば道は拓ける!〜

1つの目標を達成した僕は、見事に次の目的を見失っていた。

>不定期に訪れるシリーズ投稿。前回のお話はこちら↓


昔からそういうところがある。
今が充実し過ぎると翌月のスケジュール管理を疎かにしてしまうことが。
そして誰に頼まれたわけでもなく、その後の未来からあの充実の過去を眺めては「今月は全然充実してない」と、前進した現状維持を嘆く。

おいお前、それは単なる錯覚なのだ。
その景色を見たことでベースが上がってしまっただけなのだ。
ピークを日常だと錯覚するでない。

こんなふうに自分で自分を叱ることができるのは、勝手に落ち込み始めてようやく2週間ほど経った時だ。厄介で嫉妬しやすく少しだけ面倒臭い自分。

これも錯覚であってほしい(…と今の自分が言っている)。

不意にできた空白は、あの時頑張ったからこそ生まれたご褒美。
そんなふうに許せるようになった時、僕はもっと楽に生きることができる気がする。自由時間が次の仕事への欲を駆り立てる。

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こんなふうに自分の想いを出し続けることで、ちょっとだけ誰かの安心を増やすことができたら。どこにでもいる凡人の素直な心の内に、ちょっとだけ共感してもらえたら✨
僕が活動し、書き続ける意味はかなりあると思う。

「障害者のことだから、自分には関係ないや」ではなくて、「そういえば自分もたまに”障害”を感じること、あるなぁ」

このくらいの温度感で、その人にとって心地よい気付きとして届けるには、世間が作った””が持つベクトルをちょっと変えなくちゃいけないな、と思ったんですよね。
だから僕は障害=病名ではなく、いわゆる”障害”を1人ひとりが持つ「困難さ」や「悩み」や「不安」や「嫌なこと」というように、少しだけ味付けをしてみた。

障害というものの気付きを導くために、障害という言葉そのもののハードルを下げることを選んだんです。「あっ、こんなことも障害って言っちゃってもいいんだ」みたいな。
だって、その人が悩んでいれば不安でいれば嫌と感じることであれば、僕の理論では何でも障害ということが許されるんだもん(笑)

そして、(障害の有無を問わず)これらを軽減する方法をみんなで一緒に見つけて届けていきたいと思っていたら「障害を忘れられる瞬間」というワードが降りてきた。

この瞬間を届けていくためのアプローチがTry chanceとしての活動なんだよね。
今となっては、歩くことができないは僕の”障害”ではない(悩んでいないから)。それよりもずっとずっと悩ましい”方向音痴”問題。それは物理的なものだけでなく、もちろん人生においても。

そんな時、Try chanceメンバーやイベントに参加してくれる仲間たちがいつも僕に指針をくれる。苦手を補ってくれる。

だからこれからも続けていきたい。1人ではできないことも、共働すれば道は拓けると信じて。

         (いったん完)

いただいたサポートは全国の学校を巡る旅費や交通費、『Try chance!』として行っている参加型講演会イベント【Ryo室空間】に出演してくれたゲストさんへの謝礼として大切に使わせていただきます。