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マイノリティってなんだ?

今日はあの日から10年。そして娘の誕生日。


私はうちが普通の家庭ではない、という認識をしていた。

「普通のふりをしなくてはいけない」
「うちのことはバレてはいけない」

と思って生きてきた。

私の生い立ちはこちらのマガジンで


10年前の東日本大震災の後、「安全だ」と言われていた原発が爆発した。
原発が爆発するということがどういうことなのか、放射能が人体に与える影響がどんなものなのかを調べれば調べるほど、「大変なことが起こった」と思った。私は当然脱原発の方向に進むのだろう、と楽観視していた。

でも。そうじゃない。社会というのは、大変なことが起こっても、正しい方向に進むわけではなかった。

バレてはいけない、なんて言ってる場合じゃない。
動かなければ。声を出さなければ。
「おかしいことはおかしい」と。

何も言わない人間がマジョリティならば、権力を持っている人間が好き勝手にできてしまう。

そんな風に思って、デモに参加したり、署名集めをしてみたり、勉強会をしてみたり、食について考えてみたり。考えつくことを片っ端からやっていった。

そして、しんどくなってやめた。


正しいことを、正しいと主張することに、ずっと苦しさを感じていた。
後ろめたさを感じていた。

その苦しさや、後ろめたさが、嫌悪感となって、

「バレてはいけない」

という意識に繋がっていた。


社会運動、とか、市民活動、とか。自分の得にならないことを一生懸命する人に、人は嫌悪感を示すものだと思っていた。
社会のために、と言いながら、未来のために、と言いながら、身近な人がないがしろにされる。大切にされない。
そんなことをしていると嫌がられる。変な目で見られる。

私が嫌悪感を持っていたんだ。

十代の頃から普通のふりをして生きてきた私は、2011年に原発が爆発したときに、普通のふりなんてしてる場合じゃない、と考えて一つ目の殻を破った。
それでもやっぱり普通のふりを辞めてしまうのは怖かった。

そして2016年、娘の不登校をきっかけに二つ目の殻を破った。

そこから、子どもの学びを通して、自分って何なのか、社会って何なのか、お金って何なのか、家族って何なのか、たくさんの人と関わりながら、いっぱい考えてきた。

どれだけ行っても私は私としてしか生きられない。
どれだけ人をうらやんでも、他人にはなれない。

私はマイノリティ。
と思って生きてきたけど、実際はマジョリティなところもいっぱいある。

両親がそろっている
日本に住む日本人
異性愛者
20代で結婚
子ども3人


本当は、人間全員がマイノリティ。

そりゃあそうだ。私と同じ人なんていないよね。あなたと同じ人もいないよね。

私は、自分の考えを隠さずに生きていきたい。
私は、人の意見を尊重できる人で在りたい。





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