※ネタバレあり。映画『花束みたいな恋をした』感想(2/8追記)

 エンドロールが流れ始め、これはまたすごい映画を良いタイミングで見てしまったなぁと思った。

 この感想は映画を見た翌朝に書いている。個人的に、映画の感想って見た後すぐは感情が昂っていて感想にならない部分ができてしまうというか、入ってきた内容の消化がまだ間に合っていない感じがして、一晩寝かせて見えてくる部分があると思う。

 エンドロールが終わって最初に「すげーーーーー面白かった!」と思った。映像で表現する良さってこれだって感じだ。文字にしても面白いと思うけれど、映画としての伝わり方に痺れた。

 僕が感じた映画の内容を、例えば何も知らない人に分かりやすさを優先してざっくり一言で言うならば「サブカルカップルが付き合って別れる話」だ。

 でも僕はこの作品は恋愛映画だけど恋愛映画じゃない気がしている。恋愛をモチーフにしたその裏で別の何かを見せられた気がした。物語は主人公の菅田将暉さん演じる山音麦と有村架純さん演じる八谷絹が恋に落ちて別れていくその5年間を描いている。

 ちょっと脱線してしまうけれど、この二人の名前がすごくいいなと思っている。作中ではお互いに「むぎくん」と「きぬちゃん」と呼ぶ訳なんだけど、全然違う名前なのになんだか語感が似てるんだよなぁと思ったら構成する母音が同じなのだ。iとuを二人で行ったり来たりして、音韻的に気持ち良いんだろうなぁと思った。

 序盤、映画の中では実在する固有名詞がある種濁流のように多用されていて、これが麦くんと絹ちゃんを繋ぐ鍵になっている。それはざっくり言えばサブカルチャーの領域にある固有名詞で、彼らにとっては百人一首が描かれた二枚貝のようなものだ。世界中に山ほどある貝の中で形が一致するものは元々二枚で一つの貝だった一組しかない。様々な固有名詞が麦くんと絹ちゃんの中で貝の片割れとなって、それがどんどん、ことごとく一致していく。

 とても絶妙なところにある固有名詞を選んで使用するので、これは一体どういう監修の仕方をするとこういう空気感になるのか、と思って見ていた。大学生の麦くんや絹ちゃんは自称映画好きの人間にジブリや『ショーシャンクの空に』を好きな映画として挙げられてしまうと辟易してしまうタイプの人間で、そういうサブカル学生の生態まで作品の中で再現するパワーというか、どういう作り方をしていったんだろうとその再現力に感動した。

 とりあえず分かりやすく話をするために「サブカル」という言葉を安易に使っているんだけれど、じゃあ結局「サブカル」ってなんなのって聞かれても僕は明確に説明できない。これはサブでこれはメインという明確な線引きはないと思うし、恐らくすごく遠くから見ている人たちの解像度の低い言葉なんじゃないかと思う。その解像度の低い言葉の空気感を具体的な映像にするパワーに打ちのめされた。

 麦くんと絹ちゃんは自分たちの中にある共通項目に運命さえ感じて、恋愛の最盛期みたいなところに到達する。同棲を始めた二人は多摩川の見えるアパートのベランダで将来の話を始める。

 僕はそのシーンの中にある言葉に少し疑問を持ってしまった。麦くんが絹ちゃんに言った「今のこの状態を現状維持したい」という言葉だ。確かに恋愛の幸せの真っ只中にいる二人にとって現状維持は素晴らしいものだと思う。でもそれってここから先には進めないってことなのかなって僕は思ってしまった。
 そのシーンで絹ちゃんは笑顔だったので絹ちゃん的にはオーケーだったんだなと思った。

 結局そこから先は現状維持できなかった。パーティーが終わりに近づいていく。麦くんと絹ちゃんは生活のために就職をして、それを機に変化していく。百人一首の貝が形を変える。それは風化したり擦り切れたりして変わるのか、元々一つの形を留めないものなのか分からないが、全くもって胃の痛い時期が訪れる。実際、見ていて胃が痛くなった。

 終盤、別れ話の舞台はどこになるんだろうと映画を追っていた。夜中のベッドの中、多摩川の見えるベランダ、初めて乗る観覧車。始まってしまうのか、と身構えていると次のシーン、また次のシーンと、舞台はここではないのか、まだその舞台には辿り着かない。
 そして最後に辿り着いた舞台で納得した。麦くんが絹ちゃんに告白したファミレスだった。いつも座っていた席には既に先客がいて、麦くんと絹ちゃんは知らない席に通される。

 麦くんからの説得に別れの決意が少し揺らいだ絹ちゃんの目の前で、5年前の麦くんと絹ちゃんがしたやりとりをファミレスのいつもの席で大学生くらいのカップルがいかにもなぞるように始める流れには最初こそ演出があからさま過ぎて鼻白んだが、その後の映像の見せ方に一瞬さめたことはどうでもよくなった。

 僕はあれをどう言葉にしていいか分からないが、

「私たちの間にはもう、あるべきものがないのだと分かってしまった」

 あえて言葉にするならそんな感じだ。嗚咽する口を押さえながらファミレスを走って出ていく絹ちゃんを追いかける麦くんもそれを察している。これを映像で見せられて、明確な言葉がないのに二人は絶対に別れると決めたと分かってしまった。二人は最高の別れ方をしたと僕は思う。

※追記
 これは人から聞いた話だが、脚本の坂元裕二さんはその場面の場所ごとに、例えばカフェであればカフェという場所に合う会話、道端であれば道端という場所に合う会話があると考えているようで、ではファミレスはどんな場所かというとなんでも話せる場所だそうである。
 そういう意味で告白と別れ話の場面にファミレスを選んだのではないかという考察を聞いた。

 それから映画は別れた二人のことを少し描く。僕はあの時間が一番好きだった。別れると決めた二人が仕方なく少しだけ同棲している時間がいたく愛おしかった。
 これはカツセマサヒコさんが音声配信の中で言っていた言葉だが、あの時間は「メイキング映像」だと言っていて、確かにその通りだなと思った。恋愛のメイキング映像で、ネタバラシの時間なのだ。最高だった。

※追記
 また別の人はそのシーンのことを「感想戦」と表現した。感想戦とは、将棋などの試合の後に対戦中の一部盤面を再現しながら差し手をお互いに話し合う時間だ。確かにあれは恋愛の感想戦だったなぁと思う。「菅田将暉七段と有村架純八段の感想戦だった」と言っていた。つまり絹ちゃんの方が上手(うわて)だったという意味である。

 細かい感想もまだまだあるような気がしているんだけれど、とにかく僕はこの映画がまとっている空気感がものすごく好きで、ここまで世界観をリアルに寄せて構築できるんだなと思った。刺さる人には何本も奥深くまで刺さっているのではないか。刺さるだけではなく、抉られている人もいるかも知れない。

 恋愛映画というよりはヒューマンドラマみたいに見てしまった。恋の行き先というよりは人生の行き先如何の話なんじゃないか。現実の2015年から2020年までの5年間とリンクする場面が多く、その5年間にあった二人の人生を覗き見たような気分になっている。

 この映画をただの恋愛映画だと思って見にいくと痛い目に遭うと思う。満場一致のハッピーエンドが待っているデートムービーではない。
 キャスティングがミスリードを誘っているのだ。菅田将暉さんと有村架純さんが恋愛する映画だから絶対幸せになると思ってしまう。でもそんなことはない。

 『花束みたいな恋をした』を見て思い出した言葉がある。
 一昨年、今泉力哉監督の『愛がなんだ』にすごくハマっていて、その今泉監督が言っていた「うまくいっていない恋愛の数はうまくいっている恋愛よりもずっと多い」という言葉だ。実際に数は数えられないが確かめずともそうだろうと納得した。

 また一つ、うまくいっていない恋愛を見てしまった。でも不思議と悪い感じはしない。それは衝撃的な悲劇ではなく、ありふれた話の中の一つだからだ。

 麦くんも、絹ちゃんも、これからまた生きていくんだろうなぁ。


追記
『花束みたいな恋をした』はホラーか

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