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『愛がなんだ』と『街の上で』、対になって見えてくるもの

 抱え切れないほどの感情を抱え切れないまま、いまにも溢れ返りそうに歩いている。どこにも置くことができず新しい感情に手を伸ばす余裕さえそこには存在しない。1つの恋愛を引き摺っている時は大概そうだ。

 『街の上で』を見終わったあとに改めて『愛がなんだ』を見てみた。こんなに毒々しい映画だったかと思った。一度に続けて見ることができず何日かに分けて見ているが未だにエンドロールに辿り着けない。劇場で4度見ているが新しい感覚だ。


『愛がなんだ』が持つ毒の構成

 毒にやられながら途中まで見ていて「これは一体どういう毒なんだろう」と思った。叶わない片想いが故の毒なのか、あるいは自分さえ犠牲にするのを厭わないテルコが傷つかない代わりに見ているこちらが傷ついているのか、恐らく後者だと私は思う。叶わない片想いくらいでは映画はこんなに毒を帯びない。

 テルコは傷つかない。傷つかないというか、徹底的に自分の傷を見ない。自分の傷を見たところでマモルには少しも近づけないと分かっているみたいだ。マモルになりたいテルコはその一心でいっぱいで、傷さえ受けつける余白を自分の中に持たない。

 テルコから溢れた毒が見る者に降りかかってくるのだ。本来ならテルコが浴びるべき毒を、テルコにはもうその毒が入る余地がないので仕方なく毒の方からこちらへ寄ってくる。入る余地がある者を見つけた毒はその人の中へ入り込む。私たち観客の中で毒が生き生きする。私はそんな気がしている。


『街の上で』は薬になるか

 全員が幸せになって終わる物語なんてあるのかも知れないけれど『街の上で』は全員が幸せになって終わる物語ではない。私は『街の上で』の中で城定イハが好きなので、どこか肩入れしてしまって私は幸せになれなかった。っていうか、浮気した相手がヨリを戻しに帰ってきてすんなりまた付き合おうってなるか? 私はそうはなれなかった。

 『街の上で』にもきっと毒はあるんだとしても『愛がなんだ』みたいに即効性のある毒ではない。うまく扱えば薬になり得るような、そういう毒だ。

 気づいてしまった。イハってちょっとだけテルコの気配を感じるのだ。あのままずっと青の近くをつきまとってしまうんじゃないか。なんでこんなに1人のキャラクターへ肩入れしてしまうのか分かった。麦茶飲みながら「私たち付き合ったりとかは絶対ないですよね(実際はどんな台詞だったか忘れた)」とか言う辺り、全てをマモルから打ち明けられたテルコと同じじゃないか。

 というのは多分深読みなんだと思うけれど、友達止まりでいればずっとそばにいられるというのは一つの真理だと思う。下手に手の届かないところへ腕を伸ばしてバランスを崩すよりは遠くからでもその人を眺められる場所に居座っていた方が失うものが少ない。

 でもイハはずっと青を抱えて生きていくんだろうか。青が入っているところには青しか入らないし、青を抱えている間は腕一本分は常に体力を消耗する。本当は両腕で捕まえに行かないといけない相手に青は足手まといだし、その足手まといを抱えているのは自分自身なのだ。

 イハはきっと青を手放せる。好きなキャラクターだから肩入れしているだけだけど、なんとなくそう思う。


マモルを抱えるテルコ、青を手放すイハ

 絶対に振り向かないマモルを抱えて生きていくと決めたテルコのことを、私はある意味潔いと思っている。全てを投げ打ってでも近くにいたいと思える相手がいるそのこと一点に関しては羨ましい。でももうテルコはマモルしか抱えられないし、それをどこかで下ろしたり、抱えていることで抱える以上に何かが報われたりはしない。

 青を手放すであろうイハの一番好きなシーンがある。朝目覚めた青に「生きとったな」と一言言うところだ。「人間、明日死ぬかも分からんやんか」という前日の会話にかかっているのだが、最近、朝目覚めては何度も思い出す。


 明日死ぬかも分からないから同じものをずっと抱えて生きてくのか、すっとそこで手放して生きてくのか、いずれにしても毎朝「生きとったな」と思う。朝日に少し影になったイハの顔を思い出している。



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