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訳注について

 今回は、どこまで訳注を入れるのかについて。

 せっかく翻訳するのだから、読者にはわかりやすい内容にしたい、と翻訳者ならみなそう考えるだろう。「こう説明した方がわかりやすいのではないか」「こんなことも説明しておいた方がよいのではないだろうか」と、あれこれ訳注を入れたくなる。

 とはいえ、本は原著者のものである。柴田 元幸さんの『ぼくは翻訳についてこう考えています』にも

翻訳者は奴隷であり黒子である

とある。
 なので、訳注は必要が無い限りなるべく入れないようにしている。親切心のつもりで訳注を入れても、原著者はあえてその説明をしなかったという可能性もある。あるいは知ったかぶりで訳注を入れたところ、その注釈が間違ってたなんていうことも生じうる。わかりやすい文章に訳せないので訳注で補うなどはもっての外である。

 では、どのような場合に訳注を入れるかというと、個人的には、

原著の読者と翻訳版の読者の間に知識のギャップがあるとき

と考えている。文化や医療制度が日本と異なるために、 アメリカでは当たり前であっても、日本では知られてないことには注釈を入れたほうがよさそうである。

 『フレームワークで考える内科診断』の中で私が入れた訳注には次のようなものがある。

医学部3年生(third-year medical student )
 日本では医学部3年生が臨床チームの中に入っていることは少ないと考えて、「米国の医学部は4年制」と訳注を入れた。米国では3年生になると現場に出て、臨床チームの一員としてバリバリ働くのが一般的である。

RVU(Relative Value Unit)
 医師の診療の金銭的価値を示す指標で、米国での医療保険制度に基づいた考え方。日本の読者には馴染みがないと考えて訳注を入れた。

第V因子Leiden変異(Factor V Leiden)
 米国では非常に多い先天性血栓素因で、血栓性疾患の鑑別疾患によく挙がる。しかし、日本人には見られない疾患で、外国人の診療を行うのでなければ必要ないので、訳注を入れることにした。

Austrian症候群
 本文に「肺炎球菌による感染性心内膜炎に加えて、肺炎と髄膜炎があれば、典型的な3徴になる」とあるが3徴の名前は記載されていないので、この訳注を入れた。しかし、先に書いた訳注が必要な条件には当てはまらず、余計なお世話だったかも知れない。

孔子?老子?荀子?

Tell me, and I will forget. Show me, and I may remember. Involve me, and I will understand. 
聞いたことは、忘れる。見たことは、覚える。やったことは、わかる

という引用があり、米国ではよくConfucius(孔子)の言葉として紹介されるが、日本ではこれは老子(あるいは荀子)の言葉として紹介されている。ツッコミが入るとやだなぁ、と考えて訳注を入れることに。CYA(cover your a**)的な訳注である。