内科医は何でも知っていて、外科医は何でもする?
『フレームワークで考える内科診断』の前書きで
Surgeons know nothing but do everything. Internists know everything but do nothing. Pathologists know everything and do everything but too late. Psychiatrists know nothing and do nothing.
という文章を引用した。日本語に訳すと、
外科医は何も知らないが、何でもする。内科医は何でも知っているが、何もしない。病理医は何でも知っているし、何でもするが、遅すぎる。精神科医は何も知らなくて、何もしない。
となる。
あまりに有名なので、なにか科学的な裏付けでもあるのかと思うかもしれないが、出典はRobin Cook氏による”Godplayer”という小説。邦題は『神を演ずるもの』となっている。
ネタバレになるのであまり筋は書かないが、簡単に言うと、とある有名病院で心臓外科の患者が術後に次々と謎の死を遂げる、という『チーム・バチスタの栄光』を彷彿させるような内容である。
その中で、内科レジデント、病理レジデント、精神科レジデント(元病理レジデントで夫はイケメンの超スゴ腕心臓外科医)の3人の会話に、「昔からこう言うだろう」といって出てくるのが上の文章である。ちなみに作者のRobin Cook先生は医師兼作家で、外科医からのちに眼科医に転向している。
「イギリス人は・・・、フランス人は・・・、ドイツ人は・・・、アメリカ人は・・・」といった構図の小噺があるように、こういう対比はキャッチーではあるが、妥当性はどうだろう?
外科医が何でもするというのはどうだろう?現代の外科医はリスクを重視して、手術による利益がリスクを上回らない限りおいそれと手を出さない。それに、けっこう知っている。そういえば、外科って面白いし、外科医ってスゴいんだよ、という本を企画中なので乞うご期待(宣伝)。
内科医の方はどうだろう?何でも知っているっていうのは語弊があるとしても、知ろうとしている姿勢は大事なのではないかと考える。『フレームワークで考える内科診断』はそういう内科医のための本である(宣伝)。もちろん、何もしないわけではない、というのは國松淳和先生の本を読めばよく分かる。
病理医が何でもするというのは『フラジャイル』の岸京一郎のようなイメージだろうか。「何でも知っている」の部分については、市原真先生が『Dr.ヤンデルの病理トレイル』の中で、
病理形態学はさまざまな診断の「一助」にはなるけれど、「絶対」にまではなかなかならない。
と書かれていて、組織を見ていれば何でもわかるという意味ではないらしい。
病理形態学が絶対にはならないのだけど、病理医の私が言うことは絶対である、というシーンは結構ある。
とあるので、病理医の姿勢に関わることのようである。
精神科医についての部分は、この小説のヒロインが病理から転科した精神科レジデントなのでこのようにイジられているが、もちろん実際の精神科医とは大いに異なる。尾久守侑先生の『器質か心因か』を読めば、「内科医の立場がなくなんじゃね?」というくらい精神科以外のことをかなり熟知していることがわかる。というか、とりあえず読め。
というわけで、引用しておいて言うのも何だが、現実にはあまり当てはまりそうにない。Robin Hood先生は百も承知で書いたのだろうけど。