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鈍考【11月29日】

できる範囲で日記を書きたい。
無理はしたくない。毎日捻り出してまでは書きたくない。書くことを辛いことにはしたくない。だから、今まで通り心が動いた瞬間、"書きたい"と思ったときに言葉を残すスタンスは崩さない。

それでも、これまでよりももう少しだけ言葉に残すことに意識的になってみたい。
やっぱりその瞬間の想いを、そのまんま持ち続けることはできない。想ったその瞬間から、その想いの劣化は始まってしまうのだと思う。だからできる限り、その鮮度を保ったままで残しておきたい。

というのも、僕は自分の言葉に救われる瞬間がある。
自分の言葉というより、自分で残した言葉に救われる。逃げ出したくなるときにもう一瞬だけ踏ん張れたりする。だから残すことに価値はあるんだろうと思う。自分を救ってくれるものはいくらあってもいい。

ということで、今日残したいのは鈍考。

人を取り巻く日々の流れが加速するなか、社会のシステムやテクノロジーが求める速度から、敢えて鈍くあること。そして、人としての愉しさや健やかさについて自発的に考え続けること。

鈍行とは何か

目にしたのは朝日新聞の夕刊でした。
求める速度から、敢えて鈍くなること。多分鈍くなることは辛いことだと思います。何かしていないと落ち着かないし、何もしていない自分を肯定できない。誰かに目を向ければ、それはより加速していく。あの人は頑張っているのに、自分は頑張れない。

情報を受け取ると、何かを満たしていそうなのに、どうも幸せになっている感じはしない。
多分、情報過多だと何も考えなくていいから、楽なんだろうと思います。というより、何かを考えている余裕がないから、楽なんだと思います。

それくらい、僕たちは"考える"ことが苦手なんじゃないかと思います。求める速度から、敢えて鈍くなると、当然考える"余裕"が生まれます。その余裕が"人としての愉しさや健やかさについて自発的に考え続けること。"には必要なのだろうと思います。

考えた先に生まれる何かは、本当の意味で僕たちを豊かにしてくれるのかもしれません。

考えた先には何が生まれるのか。何が僕たちを豊かにするのか。
気になります。

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