「好きな人との結婚」1話
ベッドにもぐりこむと、先に寝ていた啓人がすり寄ってきた。
私の胸に顔を埋めて、腰に腕を回し、ぎゅうっと一度体を抱き締めたあと、ふっと力が緩む。蒸し暑い季節だけれど、季節を問わず、啓人からこんなふうに触れられるのが好きだ。
私はよしよし、というように啓人の頭を撫でたあと、柔らかい髪をくるくると指にからめとる。ふわりと甘い香りがして、それをできるだけたくさん吸い込みたくて、大きく深呼吸をした。
シャンプーに啓人の体臭が混ざって、とても好きな匂いだ。
友人は旦那が臭い、最近は抱きつくどころか近づくのもイヤ、キスなんてもってのほか、と言っていたのだけれど、私には信じられない。啓人の匂いが一番好き。嗅いでいると安心する。
スーハー、と大げさに呼吸を繰り返していると、腕の中で啓人が身じろぎした。
「……何してんの」
「啓人の匂い嗅いでた」
「文乃は俺の匂いが好きだねぇ。大丈夫? 臭くない?」
「わかんない。他人からしてみたら臭いかも。でも私は好き」
私の言葉になんだよ、と苦笑いを漏らす。
「嗅がれるの、イヤ?」
「いえいえ、好きだと言ってもらえるなら、光栄なことですよー……」
眠そうに言うと少しだけ首を伸ばすようにして、私の顎あたりに唇を押し当てた。
柔らかな感触に、肌がザワリとする。
髪をいじっていた手を動かして、そっと背中を撫でる。それからTシャツの上から啓人の肌に爪を立てた。
「痛い、痛い」
笑い混じりに言う啓人の声が体に響いた。ぐりぐりとおでこを啓人の頭をこすりつける。わずらわしかったのか、両手で私の顔を挟み込むと、優しく引き離された。ついでのように、顔を撫でまわされる。頬、鼻、唇、目のあたりはとても優しい手つきでなぞっていく。
「なにしてんの?」
「文乃の顔を確かめてる。どういう顔してたかと思って」
「今さら?」
「……ん、今日もかわいい」
「37歳になってもそんなことを言われると、さすがに照れくささを隠しきれないんだけど。もうアラフォー、ですよ、アラフォー」
「照れてるのもかわいいよ。文乃はおばあちゃんになってもきっとかわいいし」
歯が浮くようなセリフを平気で言う。結婚して8年が経っても、好きな人にかわいい、と言われるのはくすぐったくて、嬉しくて幸せだった。きっとおばあちゃんになってから言われたら、もっと幸せなんだと思う。啓人の手が顔から離れると、今度は私のTシャツの裾から滑り込んできて、腰を撫でる。
温かくて、ゴツゴツしていて、その手に直接触れられるだけで、少し体の真ん中が熱くなる。
もっと触れてほしいな、と思ったけれど、言葉にはできなくて、少しだけ強めに抱きしめ返した。
「んんー……」
それから啓人は……眠そうにあくびをした。
「明日、文乃は何時出だっけ」
「打ち合わせに直行だから、11時ごろ」
「そっか。……おやすみ」
ふいっと体を離し、私に背を向ける。
啓人の寝返りが悲しくて、私はすがるようにその背中におでこを押し当てた。最近は、こうやって抱き合っていてもすぐに背を向けられてしまう。それが不満だった。前は抱き合ったまま眠って、息苦しくて目覚めることだってあったのに。
啓人は寝入りがいい。いつもあっという間に眠りに落ちて、私をおいていく。背中は規則正しく前後に動くだけで、もうこちらを振り向いてくれない。背中と一緒に私の頭も前後に動く。
悲しくて寂しくて、後ろから抱きついて、ぎゅっと啓人の手を握った。
うー……と呻き声を上げたあと、啓人は私の手を取り、両手で包み込む。
それから、優しく撫でた。起きているのかと思ったけど、どうやら無意識の行動らしい。
「啓人も、かわいいよ」
小さくつぶやく。
大切な、家族。ぬくもりが溶けて、熱を持ち、肌を湿らせる。その不快さも、好きだ。
*****
「なにをどうしたら、結婚8年目でそんなにラブラブでいられるんですかね」
夜10時を回ったチェーン店の居酒屋の個室。
紗綾が大げさに肩をすくめて言った。
「はあああああ、一体、何を聞かされているんだか。ベッドでイチャイチャしている話なんか楽しくないよ。イチャつくなコノヤロー!」
「ちょっと、声が大きいよ」
慌てて口をふさごうとしたけど、ガハハ、と笑って避けられる。
「最近、旦那とどう? って聞くから話したんでしょ」
「私はもっと愚痴を期待していたんだよ! 何度言っても靴下を裏返したまま洗濯機に入れるとか!」
「むしろ、私が裏返したまま入れたものをちゃんと返してから洗濯してくれる」
「かーっ! 聞きたくない。求めてない、そんな話は!」
大学時代からの友人である紗綾は二児の母親だ。最近、育休から復帰したところ。今日は「たまには育児にも休みをくれ!」と言って久しぶりに飲み会の時間をもぎとってきたらしい。
相当、ストレスが溜まっているらしく、乾杯するなりジョッキを空にしていた。今はたぶん、相当酔っている。
「こっちはね、別に大変なことをしろって言っているんじゃないのよ、子どもたちをお風呂に入れる回数を増やしてほしいとか、自分が休みにフットサルに行った分は私にも休みを寄越せとかさ……」
唇をとがらせる紗綾の言葉を、グラスを乱暴にテーブルに置く音が遮る。
「……ふたりとも、よく私の前で旦那の話ができるよね」
艶の良い長い黒髪をまとめながら言ったのは樹里。夜10時になっても崩れていないメイク。整った顔のせいか、怒りがより際立つ。
「私はまたフラれたっていうのに……」
「今日は文乃と旦那の話をするよ、それでもいいなら来たらって言ったじゃん」
「それはそうだけど! ちょっとぐらい気遣ってくれてもいいじゃない!」
「遣ったら遣ったで、なんか見下されてるような気がする、って言ってたじゃない。めんどくさ」
「言ったけど!」
まあまあ、となだめるように声をかけると、ふたりしてグーッとグラスを傾けた。
独身の樹里は最近は毎週末、マッチングアプリで知り合った男性と会っているらしい。
「婚活のほうはどうなの」
どちらかが噛みつきそうな空気の樹里と沙綾。これはこれでふたりの相性がいいのだけれど、ヒートアップをすると未だに周りの迷惑になりかねないような大声で言い合ったりするからタチが悪い。
「全然ダメ。年齢的に40代からしかマッチングしないし。なんで男はみんな若い女ばっかりが好きなの! 私だって年下男子と付き合いたい!」
「ハイハイ、偏見はんたーい。文乃のところは啓人くんのほうが年下じゃん」
「2つ下なだけでしょ。そんなの誤差よ、誤差」
啓人とは大学で知り合った。教授の講演を手伝った際に一緒になったのだ。特に劇的なことがあったわけではない。私が啓人に一目惚れしただけだ。それまでの人生で、一番人を好きになったと思う。いや、それまで好きになること自体がなんなのか分かっていなかった。啓人のことを考えると、嘘ではなくて本当に心が苦しくなって、会えなかったら辛くて仕方がなかった。
そんな感情を抑えることができずに猛アタックをした。猛アタックの末に付き合うことになった。告白をしたら、「うん、僕も文乃さんのこと好き。付き合おうか」と軽いノリでOKされたので、最初は本当に付き合っているのかどうか実感が湧かなかった。それが、お互い社会人になって、いつの間にか同棲するようになって、啓人が「文乃としか一緒にいられない気がする。結婚しよっか」と言ってくれた。
学生のころのような情熱はさすがにないけれど、それでも私は、啓人が好きだ。最近の啓人がいつも言ってくれる「文乃が幸せなら、それが僕も幸せ」という言葉がいまの私を幸せにしてくれている気がした。
「いいな、人を好きになりたい」
ため息を吐き出すように樹里が言った。
「? 婚活してんじゃん」
「結婚するための相手を探しているだけであって、好きな人ではない。いいな、文乃は好きな人と結婚できて。いいな」
なんて答えていいのか分からずに曖昧に笑みを浮かべる。確かに好きな人と結婚できて、一緒に暮らせて、たぶん死ぬまで一緒にいる。正直言って、幸せだ。
「でも、好きな人と結婚できたところで、子どもが生まれて家族になると変わってくるけどね。正直、私は旦那のことが好きかって言われたら別に、って感じ」
「紗綾みたいな雑な人間が結婚できて子どももいるのに、なんで私は結婚もできないんだろ……」
「はいぃぃ? いま盛大な悪口が聞こえましたけど?」
「文乃のところは? 子どもは?」
睨みつける紗綾を無視して、樹里がこちらを向く。
「んー、うちはふたりのままでいいかな、って」
「ああ、DINKsってやつ?」
「DINKs」=「Double Income(共働き)No Kids(子どもを持たない)夫婦」。結婚してすぐに、ふたりで相談して決めたことだった。子どもを育てるには、私たちの収入では少し心許ない。それに、子どもを持たずにふたりでいるほうが幸せに暮らせる気がしたから。親たちは良い顔をしなかったけれど、私たちの人生はふたりで決めたかった。
「子どもを生もう、と決めても必ずしもできるわけじゃないけど、『生まない』って決めるのも女としては大きい決断じゃない?」
紗綾が神妙な顔で言う。なんとなく、大人になって結婚したら、子どもを産むのが当たり前だと思っていた。その当たり前から、自分の意志で外れた。
「決めたけど、それでも揺らぐときはあるよ。よくネットニュースでもあるじゃない。政治家が子どもを産む責任があるって言っただとか、生んでこそ一人前だとか。そういうのを聞くと、すみませんね、責任を果たしてなくて、って思うことはある」
「すっごいわかる」
樹里が身を乗り出して頷く。
「私なんて、子ども産んでないどころ、結婚もしていないんだもん。お前は社会の役に立ってないんだよ! って言われているような気になる」
「そこまで言う? 考えすぎじゃない?」
「子ども2人生んだ人には実感ないでしょうよ、そりゃあ!」
これには少しばかり樹里に賛同したくなる。子どもを生む気もないのに、結婚してすみませんね、と思うこともある。被害妄想かもしれないけれど。
「でもさ、ずーっとふたりで、って飽きない?」
私と樹里に押されながらも、紗綾が聞く。
「私なら、旦那と死ぬまで2人きりって無理だな」
「そう? 私は楽しい」
即答すると、ふたりは顔を見合わせてフッと笑みを浮かべた。
「私、なんか変なこと言った……?」
「ううん。うらやましかっただけ」
樹里の言葉に、紗綾がうんうん、と頷く。
「変わらず愛し合っていられるっていいことよね」
「恋愛賞味期限って何年だっけ。2年? 3年?」
「どっちにしろ、文乃のところはそういうのは関係ないってことだよね。もう『愛』の意味合いも変わってくるんじゃない? 人間愛的な。そういう意味では、私も旦那にそうかも」
「はー、私はまず自分が好きになれる人に出会いたいよ……」
ふたりの表情にふと不安が頭をもたげる。
愛し合っている、か。
私は本当に幸せなんだろうか、愛されているんだろうか。でもそんな問いはなんだか贅沢な気がして、お酒と一緒に飲み込んだ。
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