「好きな人との結婚」3話
春日さんは帰って啓人と話せ、っていたけれど、なんとなく家に帰るのは気が重かった。アドバイス通り、素直な気持ちを話してみようと思ったけれど、自分の気持ちがフワフワしすぎて、うまく言葉にできない気がした。
それに、ただの欲求不満なんだとしたら、なんだか嫌だな、とも思った。
そんなことを考えごとをしながらフラフラと歩いていると、男性に声をかけられた。
「さっきから、同じところをずーっとぐるぐる歩き回っているなあ、って思って。もしかして、おねーさん、迷子?」
軽い調子で話しかけてきたその人は、シュッとしてて、遊び慣れている感じがした。
「……そう、迷子」
どちらかというと、愛の迷子だけれど、と陳腐なセリフを思いついて、フッと笑みを浮かべる。
「おねーさん、笑うとかわいいね」
「それはどうも」
「迷子なら仕方がないなあ。俺が案内してあげる」
男性はハヤテと名乗った。本当の名前かどうかは分からないけど、私もユミ、と名乗った。「いいね、ユミちゃん」「おなか空いてない?」「道案内する前に、ごはんでもどう?」
私がどこに行きたいかも聞いていないのに、どこに連れていくつもりだろう、と思いつつ、ノリよく話すハヤテに頷いた。
食事をして、少しお酒を呑んで、ほろ酔いになったあとハヤテは私の手を引いて街の奥へと歩き出した。一度、私の左手をじっと見たけれど、ニコッと笑ってぎゅっと握り直した。人は少ない、でもどこかムードのある建物が立ち並ぶ。ちらほらとすれ違う男女の年齢はさまざまだったけど、みんな肌を寄せ合っている。このあと、なにをするかなんて、私だって子どもじゃないんだから分かる。
この年になっても、こんなことが起こるのかと嬉しい気持ちがあったのも嘘じゃない。ハヤテは格好がよかったし、そんな子が私のその気になってくれるなんて、と思う。そのくせ、スキあらば、ハヤテの手を振り払おうとしている。
ハヤテは、特に私を伺う様子もなく、慣れた調子でホテルへと入っていった。そういえば、啓人としかホテルに行ったことがないと思い出す。
好奇心でどんな感じなのか見に行こうという話になって、コンセプトホテルというのだろうか、そこで童話の世界をモチーフにした部屋に入った。2人でおかしな雰囲気の部屋だね、ラブホじゃないみたい。でもベッドが広いよ、お風呂もとびきり広い、泳げちゃうかもよ、なんてさんざんはしゃいだ。はしゃぎながらバスルームでもベッドでも、何度もキスをして、そのまま眠った。そうだ、あのときもキス以上のことがなかった。
振り返ってみると、啓人はそういうことに淡泊なだけなのかもしれない。となると、私がセックスレスだから愛されていない気がする、だなんてやっぱりただの被害妄想なのではないかという気がしてくる。たまたま気になっただけで、風邪みたいなもの。時が過ぎたら、またきっと気にならなくなる。だとしたら、私がいまホテルにいるのは大問題だ。
「どうかした?」
部屋に入ってからグルグルと考え込み、黙っている私の顔を、ハヤテは笑顔で覗き込んだ。
「ううん、別に……、っ……」
小さく首を横に振ろうとしたけど、予告なしにキスをされて動きも言葉も奪われる。
酒臭さに思わず息を止める。唇を離すと同時に、止めていた息を大きく吐き出す。その息遣いにハヤテは私がその気になっていると捉えたのか、強く抱きすくめた。
「ちょっ……と……」
「あー、シャワー? 一緒に浴びる?」
とにかく早くしたい、そんな熱をぶつけられて戸惑う。ずいぶんと長くそんな熱を感じていなかった。
啓人と触れ合うだけのキス以上のキスをしたのはいつだっただろう。途端に、無性に啓人のことが恋しくなった。私が別の男性とキスをしたと知ったら、啓人はどんな顔をするだろう。悲しそうな顔をしたら、満たされるかもしれない。怒られたとしても嬉しいかもしれない。
私は男の体を抱き締めて、首筋に顔を埋めると大きく深呼吸をした。くらりとめまいがした。当たり前だけど、私が大好きな匂いはしない。代わりに……。
「臭い……」
思わず声が漏れた。
ハヤテがえっ、と言って体を離す。
その顔を改めて見て、私はふふっと笑みを漏らした。
「気持ち悪い……」
勝手に言葉が零れた。
「気持ち悪いって……酔いが回ってきたとか?」
少し慌てたように男が言った。
「うん、吐いちゃいそう」
うそ。本当はあなたの匂いが嫌いで、吐いちゃいそう。身勝手な女だ。
「我慢できそうにない?」
「一度吐いてきてもいい?」
「え、そのあとにすんの?」
あからさまに嫌そうな顔を一瞬したけど、すぐに取り繕うようにヘヘッと言った。
「ゲロの臭いがする女となんてしたくないよね」
ストレートに聞くと、ハヤテは曖昧に微笑んだ。
気持ち悪いのは、私だ。
ハヤテはそんなに悪い人ではなかった。本当に吐いてしまった私の背中をさすってくれたし、「水と炭酸、どっちがいい?」なんて聞いてくれたりした。でも、興が冷めたのか、私が大丈夫だと分かるとそそくさと先にホテルを出て行った。それでもホテル代を全額払って出してくれたあたり、悪い人じゃない、どころではない。たぶん、いい人だ。あんなふうにナンパしなくてもちゃんと女の子を誘えばいいのに、と余計なお世話だけれど、思ってしまう。いや、もしかしたら彼も今日の私みたいに自分を無為に扱ってみたくなるようなことがあったかもしれない。
ひとりになり、広々としたベッドに体を投げ出す。ゴロゴロと寝がえりをしてみる。家のベッドなら寝返りをしているうちに啓人にぶつかるのに、と寂しくなる。
自分の匂いを嗅ぐ。少し煙草くさい気がした。シャワーを浴びてスッキリしたかったけれど、私がいつもと違う石けんの匂いをさせていると分かったら、啓人が不審に思うかもしれない。ポーチから小さな香水を出し、いつもより少し多めに吹きかける。2年前に啓人がプレゼントしてくれた香水で、それから気に入ってリピートしている。いつもの香りをまとうと、少し心が落ち着く気がした。
ハヤテには悪いけれど、おかげでちゃんと話をしよう、という決心がついた。触れてもらえないことを口実にしていたけれど、本当は「好きだよ」とちゃんと言ってほしかっただけ。この年にもなって、なんて子どもっぽい感情なんだろう。それに、私にはやっぱり啓人しかいないし、啓人にも私しかいないと思ってほしかった。
ホテルを出ると、少しだけ足取りが軽い気がした。すべては私の気持ちの問題だったのだ。早く帰ろう。ああでも、帰る前に啓人が好きなアイスをコンビニで買おう。少し高いからといつも買うのをためらっているアイス。どちらかというと、節約家でスーパーでもよく値段を確認してから買う啓人。そんなところも好きだ。たぶん、私は啓人の全部が好きなんだと思う。それをちゃんと伝えて、啓人はどう思っているのかを聞こう。一言聞けば、もう何でもなかったことのように、この数日のことを私は忘れるに違いない。
啓人のことを考えながら、角を曲がったときだった。私は反射的に踵を返して、身を隠した。それからそうっと向こう側を覗き込む。建物の前に、啓人の姿があった。
見間違えるはずがない。見慣れた姿すぎて、一瞬で啓人だと脳が認識した。こんなところで何をしているんだろう。建物の前で、一緒にいた女性と何か相談している。頷いたと思ったらふたりで建物の中へと入っていった。足がもつれそうになりながら、建物の前に行く。ホテルだった。啓人は、女性とホテルへと入っていった。
*****
『どうして、啓人は女性とホテルに入って行ったのだろう』
ひとり、帰宅してから、先ほど見たシーンがぐるぐると頭を回る。特に楽しそうでもなく、淡々とした様子で相手の女性と話をし、ホテルに入っていった。驚きすぎて、女性の顔をちゃんと見ていなかった。私と同世代のような気もするし、年上だった気もするし、年下だった気もする。でも、格好からしてものすごく年下ではないと思う。なぜかそのことによかった、と思った。
こんなこと、あるだろうか。私が本当にたまたま、啓人以外の男性とホテルに行った日に、啓人が私以外の女性とホテルに入っていく姿を見るなんて。
啓人は、終電ぐらいの時間で帰ってきた。別にそれは珍しいことはない。私がリビングでぼんやりとしている姿を見て、「わ、びっくりした」と小さく言った。この時間に私が、啓人が帰ってくるまで起きていることのほうが珍しい。
「おかえりなさい」
「ただいま」
いつもと変わらない様子。どうしよう、と悩んでいた。問いただすべきか、見なかったことにするべきか。私の中で罪悪感もあった。私だって、その直前まで啓人以外の男性とホテルにいた。結果的に何もなかったけれど、場合によっては何かしてしまった可能性だってあるのだ。
「どこに行ってたの?」
でもどうするか迷っているうちに、勝手に口が動いていた。
「んー? ジム」
「ジム……」
バカみたいに啓人の言葉を繰り返す。
ここ半年ほど、啓人は24時間営業のジムに通っていた。休日は私と一緒にいたいから、と週に何度か、仕事終わりや深夜のジムに体を動かしに行っていた。時間はマチマチで、今日のように終電近い日もあるし、比較的すぐに帰ってくる日もある。運動して、軽くシャワーを浴びて、家に帰ってきてから湯船に浸かる。その行動になにも疑問に思っていなかったけれど、もしかして、ジムに行くと言いつつ、女性と会っていたのだとしたら? すべてが嘘ではないかもしれない。ジムに行っている、と言っていたうちの何回かに1回はあの女性と会っていたのかもしれない。私とはしないことをしていたのかもしれない。私が見ていない啓人の姿をあの女が見ていたのかもしれない、と思ったら、胸をかきむしりたくなるぐらいに腹が立ってきた。嫌だ。私以外の人と。
「今日、啓人のことを見かけたよ」
嫌だ、と思ったら口が動いていた。視線をあげると、啓人と目が合った。その瞳に見つめられていて、ビクリと肩が震えた。表情がない。空っぽ。啓人が何を考えているのか分からなくて、怖かった。
「女の人と、ホテルに入っていくところを見たの」
啓人がどんな反応をするのか想像がつかなかった。想像がつかないことをするのは、不安でしかたがない。緊張で指が震えていた。
「どうして、女の人と、ホテルに行ったの?」
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