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「好きな人との結婚」5話

 家の中に入ると、おいしそうな匂いが鼻をくすぐり、なんだか気が抜けた。
 そしてパタパタと軽い足音がし、啓人が玄関まで出迎えに来てくれた。こんなこと、滅多にない。珍しい行動に、ただいまの言葉を忘れていると、啓人が「おかえり!」と元気よく言い、私に抱きついてきた。
「た、ただいま……どうしたの?」
「今日はちょっとお祝いをしたくてね。急いで帰ってきて料理を作っていたんだ」
 ほらほら、と急かすように言う啓人に手を引っ張られ、靴を脱ぐ。ちゃんと話をしよう、と思って帰ってきたけれど、少し勇気がそがれてしまった。すごくおめでたい話だったら、今日は‘ボランティア’については話せないかもしれない。
 リビングのテーブルには、普段の我が家の食卓ではめったにお目にかかることはないような料理が並んでいた。ローストビーフに、アクアパッツァ。色を見ただけで新鮮だと分かるサラダ。エビフライもあった。エビフライは、私の好物だ。
「どうしたの、こんなに。作るの大変だったんじゃない?」
「うーん、なんかテンション上がってたくさん作っちゃった」
 もともと、啓人は料理が好きでよく作ってくれたけれど、素朴な料理が多い。こんな「ごちそう」と言えるような料理が並んでいるのを見るのは初めてかもしれない。
「一体、なんのお祝い?」
 問いかけに、よくぞ聞いてくれた、と言わんばかりに口角が上がった。
「ボランティアをやめようと思って」
 まさに今日、話をしようと思っていたワードが出て、肩が震えてしまった。落ち着こうとひとつ息をつく。
「やめる?」
「そう。また妊娠したっていう連絡をまた受けてね。これで3人目! 目標は3人だったから、もういいかと思って」
「3人が目標だった、というのは、どうして?」
「平均出生率は1.33でしょう? その倍以上、って最初から決めていたんだ」
 やめるという言葉にホッとしたと同時に、「妊娠」という言葉からはなんとなく遠い啓人のリアクションに嫌悪感が湧く。
 こんなふうに喜んでいいのだろうか。その3人の子どもたちは、本当の父親と会う機会がないわけで。その3人の子の中には、「父親」という存在さえも知らないまま、育っていくかもしれないわけで……。
 もしかして、本当の父親じゃない人を「お父さん」と呼び続ける子どもだっているかもしれない。
「本当にそれで大丈夫なの?」
「え?」
「だって、その子たちにとって、啓人は父親になるわけでしょう? 何も責任を負わなくていいの?」
「僕がもし、子どもという存在を持つとしたら、それは絶対に文乃が生んだ子どもじゃないと嫌だし、それ以外の子は僕の子じゃないよ」
 突き放すような言葉に、スッと頭が冷えていく。今までに啓人に感じたことがない黒く、モヤモヤとしたものが湧きあがってくる。「ボランティアをしている」と言ったときとはまた異なる感情だった。
「でも本当は子どもは欲しくない。文乃とずっとふたりだけで暮らしていくのが、僕にとっては一番の幸せだから。いらないよ、子どもなんて」
 啓人の笑顔が直視できなかった。私は、これからのふたりの生活に不安しかない。この人と、生涯を添い遂げていいのだろうか。
「だから文乃も、ふたりだけで生活していくことに罪悪感を持たなくていいんだよ」
「罪悪感?」
「だって、ニュースで子どもを産まない女性が揶揄されているのを見るたびに、辛そうにしていたでしょう? 僕が3人、子どもを作ったから、もう文乃はなにも後ろめたく感じる必要はないんだよ。僕らは義務を果たしたんだ!」
 えっ、と思わず声が漏れた。
「‘ボランティア’をしていたのは、私のため?」
「そうだよ! でなきゃ、好きでもない女と性行為したりしないよ。これからの生活はもっと気楽に、楽しくなるよ」
 「文乃のため」。その言葉が重くのしかかる。ニュースごときで、私はそんな辛そうな表情をしていただろうか。本当は、啓人のほうが罪悪感があったらじゃなくて?
「ねえ、文乃……」
「触らないで!」
 啓人が握ろうとした手を思いっきり振り払う。大きく目を見開き、啓人が私を見つめている。
「文乃……?」
「無理。無理だよ」
「何が?」
「私以外とセックスをしたことも。自分の子どもが生まれるのに、そうやって無責任にそう言うことも」
「だって、僕には生まれてくる子どもに責任はないもの。責任は母親と、いるかもしれない父親にある」
 悪びれずに言う啓人に、プツンと何かが切れた気がした。
「啓人、私ね。男の人とホテルに行ったの」
「……は?」
 啓人の声が一段低くなった。途端に、腕に鳥肌が立つ。思わず、一歩後ろに下がった。唇が震えた。
「どうして、啓人がホテルに女の人と入っていくのを見られたと思う? あの辺はホテル街だよ。私はホテルから出てきたところだったから見られたんだよ」
 その表情が険しくなり、私の肩をガッと掴む。思わず、痛いと漏らしたけれど、力は緩まない。
「なんで? 誰と? どうしてホテルなんかに行ったの?」
「初めて会った人と。啓人と……セックスレスになっていたのが不安だったから。あのとき、すごく悩んでいて……。もしかしたら、啓人に愛されていないのかもしれない、って不安になったの。私自身も啓人のことを変わらずに好きなのかもそのときは分からなくなって、それを確かめに……」
「そいつとしたの?」
「結局、何もなかった。私が無理だった。啓人以外の人とは。キスだけでそれ以上はなに……っ」
 力任せに抱き寄せられ、乱暴に唇を重ねられた。身動きが取れないほどに強く抱きしめられての長いキス。
「っ……」
 唇が離れても、息が乱れてしばらく言葉が紡げなかった。唾液に濡れた私の唇を啓人の指がぬぐう。
「これで、なかったことにしよう。こんな陳腐なことはしたくないけど」
「ねえ、嫌でしょ? 私が別の男の人とキスをしたのだって啓人は嫌なんでしょ? 私はもっと嫌だよ! 啓人が別の女の人と、それも複数の人と!」
「僕と文乃とでは違うよ」
「何が!?」
「だって、僕のはただの排泄行為と変わらないから」
「は……?」
 次の言葉が出てこなかった。私が別の男性とキスしたことを怒った啓人と、セックスを排泄行為という啓人。どちらも、同じ人だ。
「トイレでするのも、ベッドでするのも同じだよ。いや、同じだって言うのは変か。ベッドでするほうが不快かもね。だから、文乃とはできないんだ。文乃を汚すわけにはいかない。通過儀礼みたいなものだから前はしたけれど、今はしなくていい。そう思うと、本当に嬉しい」
 初めて会ったときから、15年以上が経つ。私は、この人のことを何も分かっていなかったんだと実感する。いや、むしろ、誰がこの人のこと理解できるのだろう。
 本当は愛されていないかも、と悩んでいた少し前の自分がかわいらしく思えた。思っていたよりも、ずっとずっと愛されている。恐ろしいほどに。
「私にはできないことを、ほかの女性にはしていいの……?」
「文乃以外はみんな、どうでもいい」
 にっこりと微笑む啓人を私は信じられないような気持ちで見つめる。
 私はどうしてこの人を好きになったんだっけ、と思う。
 優しくて、困っていたら私に手を差し伸べてくれて。付き合い始めてからはすごく大事にしてくれて、結婚してからも変わらなくて……。
 いつからか口にするようになった、「文乃が幸せならそれでいい」。
 甘い言葉だと思っていたそれが、今の私の胸に突き刺さる。
「ほかの女とセックスするのが嫌だったとして、それで? 文乃は僕と離婚したいの?」
「離婚は……」
「したくないでしょう?」
 自信満々に言う啓人に、私は次の言葉を紡げなかった。
「ほら、食べよ? アクアパッツアが冷めちゃうよ」
 抱き起こすようにして私を立たせ、椅子へとエスコートしてくれる。いつものように優しい笑顔で。
「大丈夫だよ、文乃。明日から全部、今まで通りだ」
 
          *****
 
 休日の昼下がり。
 カーテンの隙間からチラチラと太陽の光が差し込む。
明るい光なのに、どこか冷たくて、なんとなく冬の気配を感じ、ソワソワする。
 もう少し眠っていたくて、布団の中で体を縮こませた。すると、啓人がそんな私を包み込むようにして抱きしめる。
「まだ眠い?」
 小さな小さな声で囁きかけられると、背中がゾクリとした。
「少し」
 啓人の匂いも好きだけど、声も好きだったな、と思い出す。
「今日の文乃のご予定は?」
「天気がいいからお布団干して、近所のカフェにランチを買いに行こうと思うんだけど、どう?」
「いいね、あったかいカフェオレも飲みたい」
「じゃあ、起きないと」
「んー、もう少しだけこのままで」
 季節は冬に差し掛かろうとしている。
 啓人の帰りが終電近くになることもなく、ジムに行くという日以外は一緒に夕食を摂れる時間には帰ってくる。
 今までどおりと啓人は言ったけれど、今までよりも私の行動に干渉するようになった。私が男性とホテルに行ったのが原因だろう。
『僕のかわいいかわいい文乃が、ほかの男に触れられるなんて許さないよ?』
 笑顔で一度そう言われた。今まで感じたことがないような、恐怖にときどき襲われる。啓人ってこんなに私に執着していたっけ、と思う。いつも飄々としていて、独占欲だとか、束縛だとか、そういった言葉からは程遠い人だと思っていた。
 どうしてそうなったのだろう、と考えたけれど、分からなかった。いつの間にか、私は彼の世界の中心になってしまっていた。ただ、その責任はおそらく私にある。世界には私たちふたりだけじゃないことが分かったら、もしかすると啓人はどこかに行ってしまうかもしれない。前はそれが怖かったけれど、今は、それでもいいと思える。
 啓人の全部が好きだったけれど、もう違う。全部が好きじゃなくなったら、急にいろんなことが色あせた。それでも、離れたくないと思う私も異常なのかもしれない。
 全部、好きにならなければよかった。啓人という人間の、どこか一カ所だけをものすごく好きになれたらよかった。そうすれば、それ以外のことはどうでもいいし、その大好きな一か所を嫌いになってしまったら、啓人自身を嫌いになれるのに。
 啓人の首筋に顔を寄せた。くん、と鼻を動かす。
「臭くない?」
「啓人は今日もいい匂いだよ」
「そう?」
「うん、大好きな匂い」
 世界で一番落ち着く匂い。安心できるのは、啓人の匂いを近くで感じられるこの時間だ。
 もうすぐ、啓人の子どもがどこかで生まれる。そのことを考えると、胸がつぶれそうになるほど、苦しかった。
 啓人のことが怖いし、触れられるのが嫌だと思うときもある。でも、私がこの匂いさえも嫌いになるその日までは、一緒にいられる気がする。
 でも、それが私にとっての幸せなのかは、分からない。
 

Fin.

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