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舞台に神が宿るとき・羽生結弦「Origin」のメタモルフォーゼ

   コロナウイルス戒厳令の下、仕事上のやむを得ない場合以外は閉じこもり、休日もほとんど外出しない日が続いた。戸棚の整理や能の古い動画をmp4に変換依頼するためのリストアップなど、有意義ながら渋すぎる日々を救ってくれたのは羽生結弦選手の演技動画だ。2019-2020期を見返して、この人はどこまで美しくなるのだろうと改めて思った。
 返す返すも残念なのは2期目の「Origin」衣装の演技をこの目で見られなかったことだ。1期目は2019年3月の世界選手権で遠目ながらも拝見した。夜の稲妻のような初代「Origin」衣装はたいそう美しく似合っていた。どこかプルシェンコに寄せた雰囲気があり、それがかえって二人のスタイルの違いを際立たせたように思う。ダイナミックで男っぽく威風堂々たるプルシェンコに対し、一見華奢でありながら引き締まって鋭い羽生の姿は馬場馬術で使われる鞭、Dressage Whipのようで、キラキラと光を跳ね返しながら流動する液体金属を思わせる美しさだった。

 2019年秋からの2期目は衣装が一変し、艶やかに透ける紫に『薔薇の精』を連想させる花や蝶が遊ぶ。高い後ろ襟から思い切って深い胸元の切れ込みへの煽情的なライン。乱れ飛ぶ蛍のごときラインストーン。儚げな生地で吸い付くように仕立てられたそれは、羽生独特の肉体のかたちを前提とした、彼でなければ絶対に着られない衣装だ。演技も冒頭に回転が加わり、軌道もジャンプも2018-2019期とは変わった。しかし、よりエモーショナルに見えたのは弓を射たりヴァイオリンを奏でるような印象的な動きに加えて衣装の働きもあるのではないだろうか。 

 デザイナーの手腕もさることながら、同じ曲の衣装をこれほど変えてくるのは演じ手である羽生の意図があると考えるのが自然だ。変化を望んで衣装も合わせて変えたのだろう。羽生は自らの出で立ちを含めたその場の状況に対し、水が器に沿うようにして表情、身のこなし、オーラの色を変えていく。普段の服装には比較的無頓着だと聞いた気がするが、無意識なうちにも外観の影響、髪型や衣装の力をよく知っているに違いない。
 能においても装束は重要で、どの演目にどの装束を用いるか、当然ながら細かい決め事がある。装束や面が役を形作るからだろう。謡いと舞が完璧であることはもとより、形がふさわしければこそ、そこに何かが降りてくる。天から遣わされる、あるいは地の底から湧き出すその「何か」をとらえ、憑依し、増幅させ、形を成させなければ、見る者を異界へと誘う舞台は整わない。そのために装束の役割は大きいのだ。

 2期目の「Origin」は1期目より構成を上げていながらしなやかさも増し、全体の印象が大きく変わった。ことに5本の4回転を組み込んだ2019年12月のトリノ・グランプリファイナル。吹きすさぶ風の音に乗り、大きな鳥が舞い上がるように弧を描いて滑り出した羽生はかざした両手をふわりと広げた。その瞬間、不思議なことに私の鼻腔に忘れていた遥か昔の香りが蘇った。幽かに南国の花の甘さを含んだ白檀にも似た濃密な香り。半世紀前の父の書斎の香りだ。英領香港の日本租界で生まれ育った父の部屋は、彫刻や螺鈿や色石で飾りたてた不思議な形をした紫檀の家具、風景を絹糸で縫い尽くした見上げるように巨大な額、爪と牙を残した豹の毛皮の敷物やガラスケースに入った銀の帆船、粉彩磁器の香炉、レース状の透かし彫りにつる薔薇を絡ませた象牙彫刻など、祖父の代からの香港商人の贈り物で埋まっていて、ほかの部屋とは違うアジアンな残り香が漂う魅惑的だけれども少し怖いような場所だった。何年も思い出すことがなかったその甘い香りは羽生が見事な4Loを、次いで飛び立つような4Lzを成功させ、歓声がパラ・ヴェッラを揺るがすにつれて強まっていった。おかしな話だが何かがスイッチを押して私の頭は異空間にワープしてしまったらしい。私の目には羽生が父の本棚にあった『聊斎志異』に出てくる妖魔か精霊に見えてきた。薄闇から顕れ、薄い衣と東の香りを身に纏い、人のようで人ではなく、誘惑し、翻弄する異界からの訪問者。確かに、他の誰も跳んでいないコンボも含めて5セットの4回転ジャンプを跳んだ挙句にラストジャンプでカウンターから3A+3Aに挑もうとするようなモノが只の人であろうはずがない。
 
 気付けば羽生は黄色いクマとぬいぐるみのようなコーチを侍らせてキス&クライに座り、可愛らしく人間のふりをしている。羽生の凄まじい企ては未遂に終わり、留めの3Aを跳び切ることはできなかった。ニジンスキーの舞がどのようだったかは知るすべがないが、プルシェンコの「ニジンスキーに捧ぐ」から巣立った羽生結弦の「Origin」は途方もないエネルギーとインスピレーションを撒き散らして滑るごとに進化し、別世界に到達する途上にあったように見える。しかし、計り知れない何者かの意思が羽生結弦を今しばらく人間界にとどめておくことにしたらしい。

 年が明けた2020年の四大陸選手権で羽生は演目を変え、「SEIMEI」で優勝とスーパースラムを飾った。平昌五輪の際とは衣装をマイナーチェンジし、鮮烈な萌黄色が目を引いた。目立ちすぎるように思えた輝くような萌黄のアクセントカラーだが、数週間を経て振り返ると、新しい年、新しい記録、スーパースラムから始まる新しいステージにこれ以上ないほど似つかわしく見えてきた。演技の説得力、羽生の先見性のなせる業だろうか。2つ目の「Origin」を目撃できなかったことは残念だが、おそらくあれを生で見るのは少しばかり刺激が強すぎて危険だったろうと思ってあきらめた。
 どちらにしても、羽生結弦の進化は止まらない。次は何を見せてくれるのか、どこへ誘ってくれるのか、ますます目が離せない。

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