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なぜ日記をつけると落ちつくのか|週末セルフケア入門

日記と身体

つらいとき、日記をつけるだけで落ちつくような気がします。具体的な出来事でも、理由のない不安でも、書き出すだけで違ってきます。頭のなかでもやもやと考えているだけのときよりは、気持ちが楽になるように感じるのです。どうしてでしょうか。

得体の知れない、太刀打ちできない地獄のように感じていたものが、箇条書きにしてみれば、たかだか数行に過ぎないということに、ホッとするのかもしれません。渦中にいるときはわけの分からなかった事態が、後日読み返してみて、ああ、そういうことだったのか、と腑に落ちることもあるように思います。

書くことで問題が具体化され、不安の脱出への道すじがつく、という効果もあるのでしょうか。まとめること、物語として理解することで、気がすむという心の働きも、年齢を問わずあるようです。

生活していると、ままならない理不尽な事態は、定期的にやってきます。経済、健康、他者のほうからやって来るその波をうけて、私という人間が、それでも気をとりなおして生きていかなくてはならないのは、なぜなんだろうか。そんな風に思う気持ちも、日記につけてしまいます。好きな人に振られた、入りたい会社に入れなかった、他人とうまく付き合えない、そういったことを飲み込むためには、書かないとやってられない、というほうが正しいでしょうか。

日記は紙のノートにつけています。日記をつけるのは、デジタルよりもアナログの方がしっくりくるというのが、経験からくる実感です。日記は知的な活動というより、身体的な活動のようにおもいます。身体的な痕跡といったほうがよいでしょうか。

書くのはおなじことばかり

眠れないし、食欲はないし、涙が出る。時間が癒してくれるのを待つしかない。頭がカーッとなっているから、フィクションもつらい。そういうとき、私は詩か、作家の日記を読みます。

内田百閒が好きなのですが、いつもつまみ読みばかりしています。大好きなのは『御馳走帖』(中公文庫)というエッセイ集です。同書は、作家が戦中につけた日記から始まります。

七月十三日 金曜日 午後出社ス。会社ニテ古日カラ麦酒一本貰ツタ。夕帰リテ井戸水ニ冷ヤシテ飲ム。コノ頃ノ麦酒ハマヅイナドト素人ガ申スナレド然ラズ。
七月十五日 日曜日 イヨイヨオ米ガ無クナリカケテヰル。モウドウスルコトモ出来ナイ様ナ世間ノ形勢デアル。

戦中、十分な食事を摂れなかったという内容ですが、これがあとに続く食道楽エッセイのための、強烈な「つかみ」になっています。同書だけでなく、晩年の日記などでも、百閒は日月・天気・食べた物だけを点々とつけています。書きたいことは作品で書いているため、生活の記録がシンプルになっているという指摘もありますが、それにしても、食べ物に対する作家の並々ならぬ執着がうかがえます。

日記をつけるにあたって、ひとは毎日おなじことについて書くことが多いのではないでしょうか。作家でも、ヴァージニア・ウルフはつねに作品のことを考えているし、エルンスト・ユンガーは夢の話ばっかりしているし、カフカは四六時中カフカ的な不安を感じています。

いずれの日記も、作家の感じていた不安や関心が中心になっていて、読んでいると、その推移が分かります。あくまで生活や仕事のいち部分を、誰に読まれるものでもないつもりで、とぼとぼと定着させたテキストにすぎないはずですが、逆にその成立過程が、ひとの息づかいのようなものを強く感じさせる陰影を生んでいるような気がするのです。

「私」という主語が消える

日記を読んで思いついたのは、日記をつけることは、自分に聴診器を当てるようなものなんじゃないか、ということです。日ごろから聴診器をあてていると、何かあったとき、「ゆらぎ」に気がつくことも早くなります。自分で自分のリズムをとっているともいえるでしょうか。そうすると、聴診器というより、打楽器といった方が愉快な気もします。

リズムとはなんでしょうか。それは、時間軸の上にある、反復をもつ形式のことです。日記には日月・曜日・天気という基本があり、ほとんどが手短なものですが、人によって異なる形式が確かにあるのは、つけるひとの身体性に紐づいているためではないかと思います。

日記と身体の関係が深いとしたら、書かれていることだけでなく、書かれていないことにも意味や理由が出てきます。たとえば、私の日記を読み返してみると、地名は出てきても、道すじが全然分かりません。私はまったくの方向音痴なので、そのせいなんじゃないかと考えています。

詩人の荒川洋治さんが書いていたことですが、個人的な日記の文章からは、じつは「」という主語が消えていきます。どういうことかというと、書いているのは「私」に決まっているし、読むのも「私」しかいないはずだから、日記において「私」という主語はあらわれなくなるのだ、ということです。

なぜ日記をつけると落ちつくのか。それは、日記をつけているあいだ、「私」が消えるからではないでしょうか。いつも忙しい「私」が、そうやって忘れられている束の間、少しだけ休むことができるのではないかと思います

「私」が消える、それは死ぬことに似ています。日記は、私が本当に死んだあと、遺書の役割を果たすかもしれません。そう考えてみると、日記をつけることは、様々な文脈で「死を想う」こととつながっていたようです。


読んでいただいてありがとうございます。