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なんのために酔うのか|週末セルフケア入門

・違う世界に行くため

大学生の頃にストロングゼロがあったら、私は毎日飲んだだろうと思うんです。

ストロングゼロは、アルコール度数が9%と高いにもかかわらず、ジュースのように飲みやすく、しかも安価な酒です。国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所薬物依存研究部部長の松本俊彦さんが、ストロング系が小売店店頭を占めている現状は、依存症を後押ししていると指摘しています

学生の頃、なぜ酒を飲んでいたかというと、酔うために飲んでいました。
なんのために酔うのか。それは、自分でなくなるためでした。

楽しくなるために酔う人と、違う世界に行くために酔う人がいる。中島らもさんはそう書いています。私は後者でした。だから、安くて早く酔える酒がよい酒でした。

『酒をやめるためには、飲んで得られる報酬よりも、もっと大きな何かを、「飲まない」ことによって与えられなければならない。それはたぶん、生存への希望、他者への愛、幸福だろうと思う。飲むことと飲まないことは、抽象と具象の闘いになるのだ。抽象を選んで具象や現実を制するためには、一種の狂気が必要となる』(中島らも『今夜、すべてのバーで』209頁)

町田康さんの新刊『しらふで生きる』も、酒をやめる狂気の話から始まります。

・飲むは正気、やめるは狂気

『気が狂っていたので、酒をやめる、などという正気の沙汰とは思えない判断をした』(町田康『しらふで生きる』23頁)

コミュニケーションのために酒を飲む機会は多いです。間をもたせようとして飲んだり、勢いをつけるために酔うこともあります。
それは、違う世界の方ではなく、この世界の方を向いて飲むことです。つまり、自分の人生の方向です。それは、どんな人生でしょうか。

『自分は普通の人間である。普通の人間の人生はそもそも楽しくないものである』(同、34頁)

著者は、酒をやめるための認識改造について、こう語ります。「こんなはずじゃなかった」と思うから、人は酒を飲み、何かを取り返そうとするというのです。だから酒をやめられなくなる。そこで、

『他人と自分を比べることによって自分の価値を計る無意味さを知る』(同、158頁)

ことで、自己の相場観そのものを見直していくのだと述べます。「こんなはずじゃなかった」を「これでいいのだ」にすると言えるでしょうか。

人生、六勝四敗くらいはいきたいものと考えていると、負けが込んでくる。そもそも自分だけの人生、勝ちも負けもないのだと知ることが大切だ。しかし、この信念こそ、じつはある種の狂気が必要である。そんな構造になっています。

・身体は誰のものか

では、ここでいう狂気とは何でしょう。それは、虚構や錯覚と言い換えることができると思います。

たとえば、自分だけの身体ではないんだという感覚は、禁酒に効くかもしれません。
裏返してみると、ふだん私は身体を自分の所有物だと思っており、どのように使用しようが自由だと考えがち。しかし、その所有権は何によって裏打ちされているのか。
それは基本的人権だろうと思います。自分の身体は自分のものである、この考え方がなければ、いまの社会は成り立たないでしょう。
しかし、誰かに身体を壊すほど飲みすぎて欲しくないと感じるのは、人権の侵害でしょうか。

同書のタイトルが『しらふで生きる』であるひとつの理由は、酒はひとつの生き方であり、酒をやめるのは生き方を変えることだからだと思います。
私は酒を飲みます。たくさん飲むこともあれば、乾杯だけのときもあるし、ノンアルコールで通すこともあります。
自分が飲める酒の限度を知っておくことは、自分自身を配慮することであって、飲む自由を制限することとは異なります。
自分の身体は自分のものです。自分だけの身体ではないんだ、という感覚は使いようですが、持てる人は限られると思います。

身体の使用について、自分なりの限度を発見するのはどうでしょう。誰かによって限度を一律に決められてしまうことは拒否しつつ、あくまで自分なりの限度を見つける。
人、酒を飲むのであって、酒、人を飲むことがない。酒に飲まれているようにみえて、そのじつ、人が酒に飲ませているにすぎない。
そんな風に身体をうまく使用し、自分を上手に楽しませることができないものでしょうか。


読んでいただいてありがとうございます。